「……何してんの?」
彼女の呆れた声が降ってくる。『ヤドリギ』はその場に蹲ったまま、唸るように告げた。
「指を切った」
「大げさな」
確かに、それでいちいちのた打ち回っていては始まらないと思う。思うのだが、どうしてもこれだけは慣れることができないのであった。一体、どう説明すれば彼女にわかってもらえるだろうか、と考えた結果として、『ヤドリギ』は左目だけで彼女を見上げて言ったのだった。
「勝手に治る代わりに、傷口を無理やり開かれるようなものだと思ってほしい」
うわあ、と彼女が露骨に嫌な顔をする。どうやら『ヤドリギ』の苦痛は彼女にも正しく伝わったらしい。伝わったところでこの痛みが和らぐわけではないのだが。
「あんたの体って便利なのか不便なのかわかんないわね」
その言葉には『ヤドリギ』も同感と頷く。何も『ヤドリギ』とて好き好んでこんな体質をしているわけではないのだ。仮に望んだかと問われるならば、望んだと言わざるを得ないが。『ヤドリギ』が今こうして生きているのは、ひとえにこの体質のおかげなのだから。
じくじくと痛む傷にも何とか慣れてきて――傷の修復が進んだからでもある――、深々と息をついたところで、彼女の声がふと意識の中に差し込まれる。
「でも、そんな風に傷が治るなら、その傷痕はどうにかならなかったの?」
その、というのが右半身の熱傷痕を指していることは、『ヤドリギ』があえて問い返すまでもなく間違いないことだった。当然、疑問に思ってしかるべきだろう。燃え盛る炎の痕跡は、右の眼と耳を潰した上で、今もくっきりと『ヤドリギ』の肌の上に焼きついている。ほとんど無意識に、右の「本来腕があるべき場所」から伸びる蔦が、己の爛れた頬に触れる。
「 『以前』に負った傷は治らないようだ。詳細は俺にもわからないが」
そう。この体質になる「以前」の怪我は治せないのだ。体が現在の形を記憶してしまっている、という方が正しいだろうか。故に、人にも化物にもなりきれないちぐはぐな形で生きているし、これからもずっとその形で生きていくことになるだろう。
彼女は「ふうん」と気の無い調子で返事してから、ふと、思い出したように言った。
「それじゃ、その肩の傷も? 随分古い傷痕だものね」
肩の傷。それが右の「本来腕があるべき場所」のことを指していないのは流石に『ヤドリギ』にもわかった。そうではなく、左の肩に穿たれた、古い傷痕。今度は意識して、その場所に蔦を持っていく。
……そういえば、彼女には見せたことがあったのか、と、一拍遅れて気づく。以前髪を整えてもらったときに、服を脱いだことを思い出す。それにしたところで、ところどころに熱傷の痕がある中で、それとは異なる古い傷痕を見出すのはやはり彼女の観察眼の為せるわざなのだろう。
とうに傷の痛みはないけれど。思い出せば僅かな胸の痛みを覚える、そういう傷痕。
「ああ、これは昔の傷だ。……どのくらい昔だったかは、もう、よく思い出せないが」
あの日のことは、今もはっきりと思い出せる。それだけに、そこからどれだけ遠くに来てしまったのかを考えずにはいられない。『ヤドリギ』がまだ『ヤドリギ』と呼ばれるようになる前、その中でも一番鮮やかに残っている記憶のうちのひとつ。
折れた剣の切っ先、走る鋭い痛み、心配そうな視線を向ける友、それから。それから。
そんな感傷に似た思いを、しかし彼女はやはり「ふうん」と軽い調子で受け流す。そういう彼女だからこそ、『ヤドリギ』も特別言葉を選ばなくて済んでいるというのは間違いないので、いっそありがたいと思っている。お互いに深く詮索することのない距離感というのは、今の『ヤドリギ』にとっては心地よい。
そういえば、いつの間にか指の痛みは引いていて、見れば木の根のようなもので傷痕が塞がれていた。いつ見てもあまり気持ちのよいものではないが、この能力のおかげで今も命が繋がっているのだから、体内の植物に感謝しなければならない。
このまま放っておけば、傷痕ひとつ残らず皮膚の下に消えてしまう。この体になってから、傷痕が残ることはない。傷痕と共に記憶に焼きつく友の表情を頭の一振りで打ち払い、現実にそこにいる彼女に向き合う。
「それで……、今日も仕事の話か?」
「当然。そうじゃなきゃわざわざあんたを訪ねたりしないわよ」
「それもそうか」
そう、彼女との関係はただそれだけ。「それだけ」であっても、『ヤドリギ』は彼女を友だと思っている。彼女はそうは思っていないだろうが、それでも。
人にも化物にもなりきれない『ヤドリギ』は、彼女との対話を通して自らを確かめる。こちらの異形にも構わず、真っ直ぐにこちらを見つめてくる彼女の瞳の中に自分を認めて、少しばかりほっとするのだ。
「何じろじろ見てんのよ?」
彼女が形のよい唇を尖らせる。『ヤドリギ』は軽く肩を竦めて、今日も『怪盗カトレア』たる彼女とぽつりぽつりと言葉を交わす。
それが、いつもの通りの、他愛の無いやり取り。
はらわたの散歩者たち