一九八四年、十二月二十五日。
都内M市に家族と共に住んでいた、一人の男子高校生の捜索届が出された。
当時高校三年生、受験勉強のさなかだったという。初めはありがちな家出であろうと捜査を渋っていた警察も、一ヶ月の間全く目撃報告がないという結果を受け、正式に捜査を開始した。
しかし、家族、警察共に行方の手がかりすら掴むこともできなかった。
一九九四年、十二月二十五日。
警察は事実上捜査から手を引き、また家族も生存は絶望的だろうと思っていた時、その自宅近くの公園で一人の男が発見される。家族の証言の一致その他により行方不明になっていた当時高校生だった男であると確認。
ただし、発見された男は重傷に加え極度の錯乱状態にあり、現在M市中央病院に収容されている。また、男の失踪状況、錯乱状態にあるという点を抜きにしても奇妙な証言など、解明されていないことも多い。
以上の事柄より、今回の事件が府の管轄下にあるかどうかははっきりとは判断できないが、『異能府』はこの事件を『事件番号八十六』とし、調査官『イの五七』を男の元に派遣し、事件の調査に当たらせることに決定した。
以下、事前調査報告では発見された男を仮に『ストーリオ』と称する。
(異能府 管轄事件番号八十六 事前調査報告冒頭)
『イの五七』は事前調査報告書の内容を思い返し、灰色のスーツの襟を整えながら、病院の四角いシルエットを見つめていた。
今回の事件はおそらく『異能府』としても判断に困る事件なのだろうことは報告書からも明らかだった。事件が常識から考えると異常なものであることはわかるが、果たして『異能府』が動かなくてはならない類の事件なのか、その判別が未だつきかねる。
よく晴れた冬の空から、冷たい風が吹きつける。その場に立っているだけで体温が奪われていくような、北風。早く調査を始めろ、と『イの五七』の背を押しているかのようにも思えた。
『イの五七』の任務は、要するにこの『ストーリオ』という男と『事件番号八十六』が『異能府』の管轄であるかを確かめることであり、そして『ストーリオ』が『異能府』の定める『異能』であれば、しかるべき措置を下すこと。
『イの五七』はどうも気乗りがしない、といった様子で軽く溜息をつくが、いくらやる気がおきない調査であろうとも、果たすべき仕事であることに変わりはない。仕方なく、『イの五七』は病院に向かって一歩、足を踏み出す。
その時、ふと目の端に何かが映った。
人影だ。真っ白な病人服に身を包んだ、背の高い男。病院の前の駐車場を行きかう徐行運転の車を無視し、走りぬけようとするその姿には見覚えがあった。写真や映像記録の中で見た人物と、全く同じ。
『ストーリオ』。
まさか、という考えが頭をよぎる。
事前報告書によれば、未だ回復の様子を見せない『ストーリオ』は半ば監禁と言われてもいいような状態で収容されているはずなのだ。病院の外に出るなど、考えられないはずなのだが。
すると、病院から出てきた看護士の一人が叫んだ。
「お願いします、その人を捕まえてください!」
言われて、『イの五七』も我に返った。見れば、駐車場にいた数人の警備員が看護師の言葉に応え、『ストーリオ』を捕まえて羽交い絞めにしていた。『ストーリオ』は恐怖と怒りが入り交じっている歪んだ表情を浮かべ、迷惑そうにしている警備員を大声で罵倒する。
「……彼は、どうしたのです?」
『ストーリオ』に追いついてきた看護士に、何知らぬ素振りで聞いてみれば、慌てている看護士は早口にこう言った。
「ああ、驚かせてしまって申し訳ありません。彼、よく病室から抜け出すんですよ。ほら、部屋に帰りましょう」
言葉の後半は『ストーリオ』に向けられたものだったが、『ストーリオ』はいやいやをするように頭を振ってわめきたてる。
「嫌だ! 勝手に俺を病人扱いしやがって、お前らが何もわかってないだけじゃねえかよ! 離せ、離せよ! 家に帰りたい!」
『イの五七』はさりげなく『ストーリオ』の顔を覗き込んだ。事前調査では三十路前だと聞いていたが、それよりももう少し若く見える。平均よりも少しだけ薄い色をした目をぎらぎらと血走らせ、唾を飛ばして叫んだ。
「やっと、ここまで戻ってきたのに!」
きっと『ストーリオ』に『イの五七』は見えていないのだろう。焦点の合わない目は、そこにいる人間ではなく、遥か遠くを睨みつけているように見えた。
「帰りたい、帰りたいんだ!」
「ねえ、加藤さーん」
「何ですか」
「僕もうお家に帰りたーい」
秋谷は情けない声をあげつつ、両腕を伸ばしその場に突っ伏した。画面上の文章はあれから数行も進んでいない。
「駄目です」
「せめて話を聞こうとしてください」
「聞いても無駄ですし」
扉の向こうに立っている加藤の言葉はあくまで冷たかった。秋谷は「さいで」と説得を諦め……ちなみに、秋谷の説得が成功した例は皆無だ……液晶画面を恨めしそうな目つきで見つめるしかなかった。
「 『異能府』シリーズの新作、『遠雷』以降一年空いたんですから今度こそきちんと上げてもらいますよ」
「わかってまあすよう」
ちらりと目を上げれば、画面には「帰りたい」と叫ぶ虚構の男。
所詮、虚構は虚構だけど。
秋谷はそう思いながら突っ伏した体勢のまま人差し指でエンターキーを押して、改行した。
今の気持ちは目の前の文字列と全く同じ。
「帰りたいなあ……」
喜劇『世界の終わり』