喜劇『世界の終わり』

10:冬空と笑顔

「このままだとアンフェアじゃないですか」
 『ストーリオ』はじりじりと迫る『イの零』たち『異能府』の代行者を前に、偉そうに腕を組んで言葉を放つ。
「何を言う」
「物分りの悪い人は嫌いですよ。あんたらは俺を殺したい。俺は生きたい。なのに一方的に『殺されろ』ってのはフェアじゃないって言ってるんです」
 『イの五七』は『ストーリオ』の背後からその様子を見ていた。確かに手にはナイフを持ったままだったが、その腕に力が入らないでいた。
 殺せなかったのだ。
 笑顔の『ストーリオ』を見て、手を止めてしまったのだ。
 何故。
「戯言を。自らの危険性を理解していないからそういうことを言えるのだ。時間跳躍はそれだけで因果律を壊しかねない強大な能力だ」
「俺、もう時間を越える能力はないんですって。ちょっとだけ瞬間移動できるだけで、しかも一回で息切れしちゃうってのに、何で殺されなきゃいけないんですか」
 これで、何度目の問答だろう。『ストーリオ』が『イの零』たちに見つかってから、今までこのようにぐるぐると問答を続けている。
 何故『イの零』がすぐに『ストーリオ』にかかっていかないのかといえば、獲物が一歩の踏み込みで仕留められないぎりぎりの位置に立っているからだ。下手に手を出せば『ストーリオ』から手痛い反撃が来ると予測できるからこそ、迂闊に踏み込めない。
「埒が明かないんで、俺から一つ提案がありますよ」
 あくまで軽い口調の『ストーリオ』にバカにされている、とでも思ったのだろう、先の見えない問答に苛立っていた『イの零』は冷徹さをかなぐり捨てて叫んだ。
「何が望みだ!」
「え、聞いてくれますか?」
 してやったり、とばかりに『ストーリオ』は人差し指を立てて、言った。
 彼の言う、『提案』を。
 
 
「まあ、そんなこんなで十一年、か」
 秋谷はかろうじて湯飲みに残っていた冷めた茶をすすりながらしみじみと言った。
「本当、よく生きてたと思うよ、私も」
 
 
 『イの零』たちが去った後、『イの五七』は背を向けたまま立ち尽くしている『ストーリオ』に言った。
「よく、あんなことを言えましたね」
「俺、ハッタリだけは得意になっちゃって」
 『ストーリオ』は声を上げて笑うが、その声は冷たい色の空に吸い込まれて消えた。
 『イの五七』は気づいていた。『ストーリオ』の身体が、寒さとはまた別の意味で震えていたことも。
「……怖かったのですね」
 その問いに、『ストーリオ』は「ははっ」と力なく笑って返した。
「怖いですよ。怖いに決まってるじゃないですか。『殺す』って言われて、怖くならない方がおかしいですよ。特に」
 『ストーリオ』は一度、言葉を切って空を見上げた。その顔を『イの五七』は見ていなかったが、きっと、笑ってはいなかったのだと思う。
「あなたにナイフを突きつけられた時は、どうしようかと思いました」
 病室で、窓から飛び降りる寸前。『ストーリオ』は不条理に対する怒りを消して、『イの五七』に笑いかけた。泣き出しそうな、不恰好な笑い方で。
「バカだって笑ってくれても結構ですけど、俺、あなたに信じてもらえて、本当に嬉しかった」
 わかっています。
 『イの五七』はそう言おうとして、止めた。言える立場ではない。『ストーリオ』が抱いていたその感情を『異能府』の代行者として利用していたこともまた、否定できないのだから。
 『イの五七』の沈黙を何と捉えたのか、『ストーリオ』は青空を見上げたまま言葉を紡ぐ。
「だから、正直辛いですよ、今も」
 『イの五七』は、結局『ストーリオ』に何も言うことができずにいた。
 『異能府』に向けた『ストーリオ』の提案は至極単純なものであり、現在の状況から何ら事態は変わっていないように見えた。『異能府』……『イの五七』もまた『ストーリオ』の敵であることは、変わらない。
 当分の間は。
「だけど、一つだけはっきりわかりましたよ」
「何ですか?」
「俺以上に人に話しても信じてもらえなさそうな奴らが、実はこの世の中にはいっぱいいるんだなあって。ちょっと安心しました」
 それは『異能府』のことか、それとも『異能府』が追っている『異能』のことか。きっと、そのどちらもだろうな、と『イの五七』は漠然と思う。どちらも、この世界を生きる大半の人間にとっては影でしかない存在だ。影以外のものになってはいけない存在でもある。
 世界の影である『ストーリオ』は、同じく影として生きる『イの五七』に向き直る。彼が浮かべていた表情が笑顔と言っていいものかどうか、『イの五七』には判断しかねたが。
「何処に逃げる気ですか?」
 『イの五七』は思わず言葉を口にした。言ってから、バカな質問だと思う。
 敵である『イの五七』に答える義理もないはずの『ストーリオ』は、しかし空を仰いで笑う。
「そうですね、誰にも追いつけない場所がいい」
「 『世界の終わり』のような?」
「それは勘弁してほしいんですけどね」
 何処までが冗談なのかよくわからない『イの五七』の言葉に、何処まで冗談なのかを理解しているのかいないのか『ストーリオ』は微かに笑う。『イの五七』も、ほんの少しだけ笑顔を返した。今度は、作った笑顔ではなく、長らく忘れていた本当の笑顔を。
 ああ、そうか、と『イの五七』は思う。
 『ストーリオ』が『イの五七』に希望を見出したように、『イの五七』もまた、知らないうちにこの男に感化されていたのかもしれない。
「では、一年後に会いましょう」
 だから、口から出た言葉は、まぎれもなく彼女の本心だった。『ストーリオ』は一瞬自分の耳を疑ったようだったが、彼女が言いたいことを察したのだろう、笑顔を深めた。
「ありがとう、加藤さん」
 
 そして、ゲームが始まる。
 『異能府』と『ストーリオ』の、三百六十五日に渡る鬼ごっこが。
 
 生きていてよかった。
 妙な感慨を込めて呟いた秋谷に、加藤はジト目を向ける。
「思い出を美化するのはいい加減にしたらどうですか、老人じゃないんですから」
「ううっ、手厳しい……ですがね」
 遅々として進まない原稿を見つめながら、秋谷は苦笑する。
「今も監視されてる身ですが、後悔はしてませんよ」
 生きることだけを貪欲に求め続ける。その先に何が待っているかも知らずに、ただ「生きたい」と願った『ストーリオ』は、自らの居場所を見失って途方に暮れていたけれど。
「結局、自分の居場所も、どう生きるかも自分次第なんだって、わかりましたしね」
 その当たり前な答えに辿りつくまでにどれだけかかったのかなんて考えたくもない。それでも秋谷は笑っていた。過去の自分を投影した、ディスプレイを前にして。
「生きていたからこそ、やっと『語りたい』って思えるようになったんですよ」
「そう、ですね」
 加藤は複雑な表情で秋谷を見やった。知っているからこそ、深くは問えない。問えない代わりに、秋谷でもめったに見ることのない満面の笑顔で返す。
「でも、『語りたい』と思うことに罪はありませんが、責任は付きまとうものですよ?」
 が、その笑顔は秋谷にとって恐怖以外の何者でもない。何しろ、次に加藤の口から出る言葉なんて、決まりきっているのだから。
「げっ」
「そんなに『語りたい』のなら、ちゃっちゃと原稿上げられますよね? さあ無駄話は終わりですよ」
「そんなあ」
 秋谷の情けない声を背に、再び加藤は部屋を出て行った。ばたん、という扉が閉まる音で、秋谷は再び密室に一人取り残されたことを知って、ほんの少しだけ、悲しくなった。