机上の空、論。

はじまりの鐘(1)

【一〇六六年 実の月 一日】

 本日から秋期が始まるわけだが、皆は一ヶ月半の夏休み、どう過ごしただろうか。
 俺は久々にかなり長い間実家に帰っていたわけだが……
 ああもう、弟は本当にかわいいな!
 この年になって弟ができるとは、数年前の俺は全く考えていなかったわけだが、それにしてもかわいい。どうしようかわいい。
 ――ノーグ・カーティス

 休暇明け恒例、馬鹿兄が発生した模様。
 あと数日はノーグに近づかない方がいい。
 もし捕まったら延々と、弟のかわいさについて語られることになる。
 何しろ、目が悪くもないのに弟に怖がられるからって眼鏡をかけ始めるほどの馬鹿兄だからな。その馬鹿っぷりは推して知るべしというやつだ。
 ――セイル・フレイザー

 え、ノーグ先輩のあの瓶底って伊達だったの? マジで?
 ――パスカル・ダルセー

 フーは人聞きの悪いことを言わないように。
 あとパスカル、俺の眼鏡は伊達ってわけじゃない。度は入ってる。
 ……確かに、フーの言うとおり眼鏡がなくても別段困らないけどな。
 けれど、弟を怖がらせるくらいなら、瓶底眼鏡くらい何だというのだろう!
(以下、弟の可愛さについて延々とノーグ・カーティスによる記述が続く)

(リベル上級学校航空部日誌 一冊目より抜粋)

 

 
 ――一〇八〇年、実の月

 
 大罪人、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスの弟。
「あのノーグ・カーティスの弟が入学してきたらしいぞ」
「見た見た、派手な青い髪した奴だろ? やっぱり兄貴と同じで頭おかしいのかな」
「噂によると、あれ染めてんじゃなくて地毛らしいぜ」
「マジで? 気持ち悪ぃなそれ」
「やめなよ、そういう陰口。……確かに、ちょっと怖いけど」
「おい、アレだろ、ノーグ・カーティスの弟。こっち見てるぞ」
 いつも、陰口と冷たい視線にさらされながら……きっと、その肩書きを背負い続けるのだと思っていた。

 今も、そして、これからも。永遠に。

「ブルー!」
 実の月に入り、秋期が始まるその日の朝。声をかけられて振り向くと、見覚えのある顔があった。
「おはようございます、クラエス先輩。お久しぶりです」
「うん、久しぶり。ブルーも元気そうで何よりだよ」
 そう言って微笑むのは、元々自分が来る前に部長と同室だったという、卒業生のクラエス先輩だった。朝の光の中で輝く金茶色のふわふわした毛並みは、いつ見ても柔らかくてさわり心地がよさそうだなあ……ってそうじゃない。そうじゃないんだ。
「先輩は、楽団の練習ですか?」
「うん。最近は公演が多くて、なかなか大変だよ」
 相棒の喇叭を入れているのであろう、革の鞄を抱えて言う先輩。大変だよ、と言いながらも、ぴんと伸びたひげを揺らしながら笑っているところを見ると、そんな「大変な」毎日を楽しんでいるのだな、とわかってこちらまで何だか自然と笑顔になる。
 すると、不意にクラエス先輩が大きな金色の目を見開いて、こちらの顔を覗き込んできた。白目の見えない獣人独特の目の中で、瞳が針のように細くなっていた。
「ブルー、何か、ちょっと明るくなった?」
「そ、そうですか?」
 思わぬ言葉に、ちょっと戸惑ってしまう。
 夏休みが明けたすぐだから、いつもと少しは違った気分かもしれないけれど……それでも、特に何が変わったとも思っていなかったから。そんな風に思っていると、先輩は柔らかな手でぽんぽんとこちらの肩を叩いた。
「うん。今までは、ちょっと陰があるように見えたから……って、変なこと言ってごめんね、気を悪くしちゃったかな」
 いいえ、と首を横に振る。
 意識はしていなかったけれど、それは紛れもない事実であったと、認めざるを得なかったから。
 ここに来たばかりの頃は、人の目と噂ばかりを気にしていて、下を向いて生きていた。それは、何もこの場に限ったことではなくて、今までずっとそうだった。それが、当たり前だったのだ。
 自分の肩書きを気にしないでいてくれる人も、もちろんいないわけではなかったけれど……大体の場合俺は必ず「ノーグ・カーティスの弟」で、そう思われるのが当たり前だと、自分自身で思い極めてもいた。
 その意識を、少しだけ変えてくれたのが。
「それは……部長のおかげかもしれないですね」
「セイルの? って、君もほんとはセイルだけどさ」
「はい」
 クラエス先輩の言い方にちょっとだけ笑ってしまってから、言葉を続ける。
「何か、部長と一緒にいると、俺の肩書きとか悩みとか、馬鹿馬鹿しくなってきちゃうんですよね。というよりも、そんなこと考える暇ないというか」
「あはは、それは言えてるかも。セイル、落ち着きないもんねえ」
 落ち着きない、というのはなるほど部長には一番よく似合っている言葉だと思う。本当にあの人には落ち着きというものがまるっきり欠けている。いつも思うよりも先に動いていて、危なっかしくて見ていられなくなって、思わず手を貸してしまう、ような。
 そうして手を貸してしまってから、何でこの人はいつもこうなのだろうと思い……それでも、あっけらかんと笑う部長の顔を見ていると、怒る気も失せてしまう。
 そんな毎日を繰り返しているうちに、いつしか部長と馬鹿騒ぎをしているのが当たり前になっていた。それを受け入れている自分がいた。
 それに。
 これは、クラエス先輩にも言えないけれど――
 自分はどんなことがあろうとも、ここにいる間は部長についていこうと決めたのだ。初めて部長を少しだけ理解できた気がした、あの事件の日から。