〈潮溜まり〉のありとあらゆるものが取り引きされる市場通りの熱気と喧騒を受け止めながら、建物と建物の間に延びる道に一歩足を踏み入れれば、急に人の気配が遠ざかる。
所々が破れた壁、剥き出しの錆びた配管、道をほとんど塞ぐように積み重ねられた廃棄品。それから、先ほどよりも色濃く感じられる、海の匂い。
さらに歩を進めれば、突き当たりに見えてくるのが、壁全体が青々とした葉と蔓に覆われた二階建ての雑居ビルだ。その扉の前で、一人の男が壁を覆う植物に向き合っていた。
肩の上で真っ直ぐに切りそろえた黒髪が特徴的な、大柄な男だ。今日は普段のラボコートの代わりに薄手の上着を羽織っているあたり、仕事中ではないことが見て取れる。
男の無骨な指が、葉と葉の間に垂れる枯れた花を摘み取る。ひとつ、またひとつ。別に、放っておいても見目以外にそう変わるわけでもないというのに丁寧なことだ。そんなことを思いながら、弓張は男に歩み寄り、声をかける。
「トルクアレト、ちょっといいか?」
男――建物の主、トルクアレトが花を摘む手を止めてこちらに顔を向ける。旧式のARグラスから覗く目が不機嫌そうに弓張を睨みつけてくるが、弓張はそれが彼の「平常」であり、別段機嫌を損ねているわけではないことを知っている。
現に。
「ごめんなさいね、今日は休診日なの、弓張さん。ちゃんと休まないと綾瀬さんがうるさくって」
――と言うトルクアレトの声は、その仏頂面に反して、弓張の訪問をどこか面白がるような色を帯びていた。
弓張はトルクアレトの言葉に軽く肩を竦めて返す。
「休みのところ悪ぃが、こっちの仕事でお前さんの意見を聞きたいことがあってな。ほんの少しだけでいいから付き合ってくれねぇか」
あら、とトルクアレトがレンズの下で目を見開く。
「アタシでお役に立てることなんてあるかしら」
「お前さんなぁ、ここじゃ珍しい専門職なんだからもうちょい自覚持ってくれや」
「頼ってもらえるのはありがたいと思ってるわ、本当よ? とにかく、立ち話で済むことじゃないのよね」
ああ、と頷く。
話自体はそう長いものではないが、弓張の仕事の話は他者に聞かれるべきではない、ということはトルクアレトもよくよく承知しているとみえる。「どうぞ?」と扉を開けて弓張を建物の中に招き入れた。
* * *
〈潮溜まり〉の片隅にひっそりと佇む、万年朝顔の葉と蔓に覆われた雑居ビル。掲げられた看板はすっかり錆び付き、本来書かれていたはずの文字も読みとれなくなって久しいが、近隣の住民からは「スティンガー診療所」と呼ばれている。
いつからか〈潮溜まり〉に居着いていた物好きな老医師が開いた診療所とされるが、今は代替わりを経て、老医師の弟子であったトルクアレトが診療所唯一の医師として働いている。
診療所の扉をくぐれば、外の金気混じりの冷たい潮風とは打って変わって、温もりと優しい香りが弓張を迎える。薬のような、甘味のような香りは、〈潮溜まり〉では鎮痛剤の代わりによく使われる薬草の香であることを弓張はよく知っている。休診日と言ってはいるが、典型的ワーカホリックであるトルクアレトのことだ、この休みを使って、いつ必要になっても構わないよう薬草を煎じているに違いない。
待合室は決して広々としたものではないが、一方で〈潮溜まり〉の診療所という言葉で想像されるような暗く重たい雰囲気はない。柔らかな灯りに照らされた形も色もちぐはぐなソファや椅子、手入れのされた観葉植物。棚に並ぶ、待ち時間をつぶすための雑誌や絵本は、数々の人の手に取られたことを示すように、すっかり背が擦り切れている。
「どうぞ、その辺に適当に座って。ジグ、コーヒー淹れてくれる?」
トルクアレトが、待合室の床を四足で歩く、テーブルのような背中を持つロボットに語りかければ、古臭い駆動音とともに、どこからかノイズ混じりの声が聞こえてくる。
「かしこまりました、トルクアレト。弓張様はブラックでよろしかったですか?」
「おう、よく覚えてんな」
色とりどりのパッチワークのカバーがかけられた椅子に腰掛けながら言えば、きゅい、という音とともに、ロボットに取り付けられたカメラが弓張を向く。
「弓張様が今までに飲まれたコーヒーの履歴は記録されております。それでは、失礼いたします」
指示を受けて奥に消えていくロボットを、弓張は「熱心なこって」と肩を竦めて見送る。
コーヒーの好みを記録される程度には弓張もこの診療所に度々訪れている、ということではあるが。患者として、あるいは仕事として。
トルクアレトは、弓張と向かい合うように、無造作に椅子を引き寄せて座る。
「で、今日の用事は何かしら?」
「お前さんにこれを見てもらいたくてな」
弓張は視線一つでコマンドを入れ、補助回路経由で引っ張り出してきた画像を数枚、診療所のローカル拡張レイヤーに直接貼り付ける。トルクアレトはレンズ越しに貼りつけられた画像を見やり、分厚い前髪の下でわずかに眉を顰めた。
「ひどいものね」
レイヤーに浮かぶのは、男の遺体の画像だ。顔は無惨に潰されて原形を留めておらず、体のあちこちが失われている。トルクアレトの指が拡張レイヤーに向けて伸ばされ、三次元画像をくるくると回す。
「顔は死後に潰されたと見てよさそう。随分と欠損部位が多いけど、ほとんど古傷なのね。……ただ、同じ箇所を何度も傷つけたような痕跡が奇妙かも」
「お前もそう見るか。死因は失血死だが、その直接の原因となった傷は一ヶ所だ」
「確かにそうみたいね。これ、どなた?」
「捜査中だが、身元のわかるものは見つかってない。外も中も、何一つな」
この場合の「外」は遺体となった人物の所持品を指し、「中」は人物そのものの身体から得られる情報を指す。ここ蜃気楼閣においては、血液や歯形に留まらず、埋め込まれたチップや機器もまた宿り手を物語るものだ。ほとんどが正規の市民IDを持たない〈潮溜まり〉においても、それは何一つ変わらない。
故に「何もわからない」ということは、むしろ意図的に隠されている、あるいは消されていると考えるのが妥当、ということだ。
〈潮溜まり〉の医師としてその意味を重々把握しているトルクアレトが、先ほどとはまた違った意味で露骨に顔を歪めて言う。
「もうそれだけで厄ネタじゃない。アタシを巻き込まないでよね?」
「だから意見を聞きに来ただけだって言ってんだろ、巻き込む気はさらさらねぇよ」
「でも、アタシの所見なんて、そちらが既に調べ尽くしてる内容と変わらない。そんな答え合わせのために来たわけではないでしょ、弓張さん」
トルクアレトが、レンズの下から鋭い目を弓張に向ける。夜明けの空を思わせる薄青から薄赤へのグラデーションを描く瞳は、何か手を加えたわけでもなく、生まれつきなのだとか。弓張もそうだが、蜃気楼閣に生まれついた者は本土の血にはあり得ざる特徴を持って生まれることが多い。
それを異常と見るか多様性と見るかは視点の違いでしかないでしょうねえ、と嘯くどこかの誰かさんの声を思考の片隅に追いやり、弓張はトルクアレトの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「ああ。――実は、全く同様の状態の遺体が、あと二ヶ所で見つかってんだよ」
と、弓張はさらにもう一枚、今度は診療所を中心とした〈潮溜まり〉の地図を拡張レイヤーに貼り付ける。その上で、特定の座標に印を付ける。ひとつ、ふたつ、みっつ。それぞれ距離を取ってはいるが、診療所にほど近い港――現在は都市計画上使われていないことに
「……ああ、もしかして、これって……」
トルクアレトはそこまでを言って一旦口を噤み、それから唸るように弓張に言う。
「やっぱり答え合わせじゃないの」
「だが、お前さんにしか話せねぇからよ」
「それは光栄だわ」
と言うトルクアレトの声は決して嬉しそうなものではなかった。それはそうだ、と弓張も思う。こんな事件の憶測ができたところで、嬉しくもなんともないだろう。
「つまり、これ、噂になってるカルトの犠牲者ってことでしょ?」
「――と、俺は見ている。お前さんと意見が一致してほっとしたよ」
「 『人間の血液を飲むことで不老不死を得る』なんて、迷信にもほどがあるってのにね。馬鹿げてるわ」
それでも、現実に事件は起こっていて、被害者が出てしまっている。その事実を前に、医師であるトルクアレトは忸怩たる思いであるに違いない。苦々しい表情を隠しもしない。
しかし、既に起きてしまった出来事への感傷に浸りきるような男でもないことを、弓張はよく知っている。現にトルクアレトはすぐに弓張に視線を戻して言う。
「この被害者は『血液の供給源』だったもの、っていうのが弓張さんの見立てってことね」
そうだ、と弓張が頷いて返せば、トルクアレトは「なるほどね」と手を顎に当てる。
「でも、あの港のあたりに吸血カルトがいるってのは前から噂にはなってたけど、こんな姿の被害者が出たのは初めてよね」
「ああ。もちろん昔からこいつらはカルトの拠点で『血袋』として扱われてたとは思ってる」
だからこそ、いくつもの欠損箇所がありながらそれらは古い傷跡として存在している。同じ箇所を何度も傷つけられた形跡があるのも、それが血液を得るのに都合のいい部位であったから、と考えるのが妥当だろう。
だが、そのように、今まで「血袋」として扱われてきたであろう者たちが、何故今になって遺体としてあがってきたのか。
「……ここしばらくで、突然、連中の必要とする血液が今までの比じゃなくなった、ってこと? 構成員が急に倍増したとか」
「それにしちゃあ静かだ。人的規模が増えりゃそれだけ痕跡も増えるだろうが、そういう報告は受けていない」
「なら、――〈
トルクアレトの声が一段低くなる。
そして、弓張は、その声に重い頷き一つで応えた。
〈紅喰い〉。正式名称は「自己修復性血液嗜食症候群」。この都市固有の病とされていて、実際のところ解明されていないことの方が多い。弓張が知っているのは「老化が止まる」こと、「体が傷ついてもたちどころに回復する」こと、そして「血を飲まねば正気を失い、他者を襲ってでも血液を得ずにはいられない」ということ。
患者の絶対数自体が少なく、弓張も今まで直接目にしたことがある〈紅喰い〉は片手の指で数えられる程度なのだが、古い物語に登場する「吸血鬼」さながらの症状に、〈潮溜まり〉では一種の都市伝説、現代のバケモノとして〈紅喰い〉と呼ばれている。
そして――一方で、「老化が止まる」 「傷ついても回復する」という症状を「不老不死」とみなし、特別視する者も存在する。それこそ、吸血カルトは自己修復性血液嗜食症候群の「人間の血を飲まねば正気を失う」という特徴を、「人間の血を飲めば症候群患者と同じ症状を得られる」と履き違えた連中の集まりである、と弓張は考えているし、トルクアレトも同様であろう。
「その上でお前さんに聞きたい。通常、〈紅喰い〉っつーのは、どのくらいの血液を飲むもんなんだ?」
「単純に『正気を維持する』だけなら、一日に一滴や二滴で十分のはず。ただ、それは摂取時点で正気な場合に限るわ。血液飢餓に陥っていた場合、個人差はあるけど最低三百ミリリットル程度は摂取しないと飢餓状態から脱せないと考えられる。それと……」
弓張を真似るように、拡張レイヤー上に保持している自己修復性血液嗜食症候群の特徴とデータ――と言っても、統計にもならない、収集できた限りの個別データにすぎないのだが――を並べながら、トルクアレトが淡々と言葉を続けていく。
「血液飢餓に陥った症候群患者は、飢餓を脱するため、血液を求めて手当たり次第に人間を襲うのは、弓張さんもよく知ってるわよね」
「ああ、そりゃあな」
トルクアレトの言葉に、弓張はうっすらと笑ってみせる。トルクアレトが弓張のその表情から何を捉えたかはわからないが、レイヤー上に浮かぶ文字列を挟んだ向こう側で、わずかに目を細めて言った。
「なら、お目当ての血液を得られたとき、どうなるかもご存じ?」
「正気に戻るんじゃないのか」
「ええ、飢餓状態で鈍化していた精神状態は血液の摂取で回復する。でも、同時に、血液を摂取することで極度の快感を覚える、というのがアタシの見解」
「快感を――?」
「そんな、生まれてこの方一度も得たこともない快感を覚えてしまったら、もう一度その感覚を得たいと思っても不思議ではない」
トルクアレトの指先が、己の並べた文字列を右になぞっては、左に引き返していく。別にその動作それ自体に意味はないのだろう、ただ、話しながらも何かをしていなければ落ち着かない、そういう類の挙動。
「……でも、一滴やそこらでは快感は得られない。どれだけ血を吸えばその境地に到達できるかもわからない。こうして、餓えているわけでもないのに、人を襲ってでも血を得ようとするバケモノ――〈紅喰い〉が生まれる」
「つまり、そんな〈紅喰い〉様を満足させるために、こいつらは生命維持も不可能なまでに血を抜き取られた」
「と、考えるのが妥当じゃないかしら。連中にとっちゃ、神の使い、あるいは神そのもののようなものだろうし」
〈紅喰い〉の症状を得るために血を飲むような連中からすれば、「本物」はまぎれもなく神そのものに等しい。
それは、弓張も想像できていた、故にこそ専門家であるトルクアレトに自分の想像が見当違いのものでないか確認する意味でここに来た。
ただ――。
「……じゃあ、このカルトに飼われてる〈紅喰い〉は十中八九バケモノって考えていいってことか」
「もちろん、扱われ方にもよるとは思うけどね。でも、丁重に扱われているなら、〈紅喰い〉自身が大量の血を求めている可能性が高いわ。それこそ、他の誰を犠牲にしてでも」
己の快楽のために。
そして、カルトの面々は、そんな「神」に血を捧げることを厭わないだろう――そこまで考えて、弓張は額を押さえずにはいられなかった。
「……、まあ、状況はよーくわかった」
「もちろん、これはアタシの見解だし、想像でしかない部分もいっぱいあるから、鵜呑みはやめてよね」
「わかってらぁ」
とはいえ、トルクアレトの言葉はそこまで見当違いでもなかろう。そして、見当違いでない以上は、手をこまねいていれば被害者は増える一方だろう、ということが十二分に予測できてしまう。
だが、ここからはあくまで弓張の仕事の話であり、トルクアレトの領分ではない。指を鳴らして、拡張レイヤー上の情報を一気にクリアする。
「俺の話はここまでだ。悪ぃな、休みだってのに辛気くさい話しちまってよ」
「いいえ、弓張さんのお役に立てたなら何よりよ」
トルクアレトは目を細めた。笑おうとしたのかもしれないが、この男は昔からとにかく笑うのが下手くそだ。
そして、二人の言葉が途絶えるのを待っていたのか、どこか気の抜けた駆動音とともに、先ほど奥に消えていったロボットが戻ってくる。背中には所々がくすんだ銀のトレー、さらにその上に二つのマグカップが載せられている。細かな花の模様が描かれた使い古されたカップにはミルクがたっぷり入ったコーヒー、もう片方のシンプルな紺色のカップには黒々としたコーヒーが注がれている。
「お待たせしました、コーヒーになります」
「ありがとな、ジグ。あと、レイにもよろしく。どうせお前経由でここの音声聞いてんだろあいつ」
弓張が紺色のカップを取り上げながら言えば、ロボット――否、この診療所のどこかに取り付けられているのだろうスピーカーが、声を返してくる。
「当該コマンドには応答できかねます」
「それって『否定できない』って答えよね……」
花柄のカップを手にため息をつくトルクアレトに、弓張は呆れ混じりに問いかける。
「いいのかよお前、診療所の情報、あのバカに筒抜けになってんだぞ」
「今更よ。それに、レイが手を入れてくれなかったら、アタシ、ここまで楽できてないし」
レイ、というのはこの診療所の空調や機器を統括するシステムを組み上げた技術屋の名前だ。腕はいいのだがどうしようもない男であることをよくよく知っている弓張は、度々トルクアレトに苦言を呈するのだが、何しろ下手に腕がいいのでトルクアレトにはまあまあ好評であるあたり性質が悪い。
「まあ、レイがろくでもないことしでかしそうなら一報くれ。仕事放り出してでも駆けつけるからよ」
「いくら何でも、警察のお仕事放り出すのはどうかと思うけど」
「わかってんだろトルクアレト。奴の『ろくでもないこと』は大概俺らの出番になるようなことなんだよ」
「それはそうね」
真顔で頷くトルクアレト。どうやらレイという個人に対する認識は弓張とそう変わらなさそうで安心する。
コーヒーを半分ほど飲んだところでカップをトレーの上に置き、弓張は腰を浮かせる。
「それじゃ、失礼したな」
「あら、もう行っちゃうの?」
「ちょっと話を聞くだけって言っただろ。それに、俺がいても気が休まらねぇだろ」
警察の人間が居座っていること、それにもう一つ別の理由もあるのだけれど。とにかく、弓張が長居をしてもトルクアレトに悪いだろう、と思っていたのだが、トルクアレトは仏頂面もそのままに言うのだった。
「もう少しで綾瀬さんが来るの。美味しいクッキーを持ってきてくれるはずだから、それだけでもいかが?」
そんな、睨むような目つきで言うことではないだろう、と弓張は思わず笑ってしまう。何を笑っているんだ、とばかりに更に目つきを鋭くする――本人にはそのつもりはないのだろうが――トルクアレトに、弓張はくつくつと笑いながら改めて椅子に座り直す。
「じゃ、お言葉に甘えて?」