少女と影
一日というのはこんな駆け抜けるような速度で過ぎるものだったのか、とスノウは思う。
スノウは祭の喧騒から少しだけ離れた場所に座っていた。既に日は沈んでいるが、ライラ祭の間、リベルの街は眠らない。青い薔薇飾りには明かりの魔法がかけられ、淡い光が世界を包んでいる。それはとても幻想的な光景だった。
聖都センツリーズのライラ祭は何度も経験しているスノウだが、それもあくまで祭壇の上から町を見下ろすだけ……このような形で祭を「楽しむ」のは、初めてだった。
何もかも、初めて尽くめだ。
スノウは、その事実がおかしくてくすくすと笑う。すると、スノウの頬に不意に温かなものが触れた。顔を上げると、夜の闇に溶け込んでしまいそうな黒い男が、スノウにスープの入った器を差し出していた。
「ありがと」
湯気の立つ器は少し熱かったが、冷え切ったスノウの手を暖めるにはちょうどよかった。スノウはスープに息を吹きかけながら、笑顔の男を見上げる。
これからどうするのか、と声もなく問えば、男は小さく苦笑するのみ。
どうやら、宿を取るのは少し難しいようだ。スノウも、何とか頭の中の「常識」をかき集めて考える。まず、このような祭の時期では外から来る客が多く、宿はすぐにいっぱいになってしまう。予約もなしに宿を取るのは無茶というものだ。
それに。
スノウは、いつも優しい言葉を投げかけてくれていた騎士のことを思い出す。今は随分よそよそしくなってしまったけれど、それでも自分のことを気にかけていてくれた彼女の姿が脳裏をよぎる。
彼女は、間違いなく追ってきているだろう。男の声なき答えもスノウの考えを裏付けるものだった。彼女を含む炎刃騎士団の精鋭数名が、自分を追ってきているのは確からしい。
神殿もライラ祭で忙しいというのに、よく国外まで騎士を派遣してきたものだと素直に感心するが、それが無責任に過ぎる考えであることもスノウ自身よく理解していた。自分が神殿を出るということは、「こういうこと」なのだ。
神殿に、そして大切な騎士に迷惑をかけているのだと思うと、スノウの心は少しだけ翳る。それに気づいたのか、男がスノウの顔を覗き込んでくる。淡い青色の明かりに照らされた男の瞳は、冷たい色ではあったけれど穏やかだった。
「ごめんね。わたしがこんな顔してちゃ、ダメだね」
あえて声に出して笑ってみせると、男は微かに笑みを曇らせて「言った」。
――無理はするなよ。「その日」までは待つんだろ?
「……ん、そうだね」
言って、スープに唇をつける。海の香り漂うスープは、今まで味わったことのないものだ。決して高価な食材を使っているわけでも、特別な技術で作られたものでもないだろう、しかしスノウにとっては今までの人生で一番美味しいものだった。
ゆっくり、大切なものを噛み締めるようにスープを味わうスノウを、男は何も言わずに見下ろしている。何を言う必要もないのだ、全てはスノウにも伝わっているから。
そして、こちらを見る瞳に秘めた思いが不器用ながらもとても「優しい」ものであることもスノウにはわかっていたから、安心してここに座っていることができる。
これを飲んだら休める場所を探そう、と男が声なき声で言う。目的を果たす日を前にして、体を壊していては何にもならない。そう言う男に、スノウは小さく頷いた。
見上げれば、空には無数の星。
初めての場所でも星は同じように見えるのだな、とスノウは当たり前のことを思った。そして、スープの器をぎゅっと握り締めて、思う。
――けれど、これから行く場所は、どうだろう。
男もその問いには答えられなかったのだろう、押し黙ったまま、スノウと同じように星を見上げていたが、不意に音もなくその場を去った。その理由を知っていたスノウは、男の背を追うこともなく、空を見上げたままで……
ただ、これから自分が向かう場所に思いをはせていた。