少年と少女と影
翌朝、朝食を早めに済ませ、リムリカに見送られながらセイルはスノウを連れて外に出た。クラエスは、今日も楽隊の練習があるからと朝早くに出かけていってしまったから、一緒ではない。
外は、昨日とは少しだけ違う、静謐な空気に満ちていた。
聖ライラ祭はライラの日までの一週間にかけて行われる祭だが、何も一週間を通して大騒ぎをしているわけではない。三日目から五日目までは「祈りの三日間」と呼ばれ、人々のために戦った聖ライラを思い、彼女がもたらした平和を感謝し、これからも平和が続くことを祈る日だ。そのため、この三日間は一旦浮かれたような騒ぎも収まり、人々は神殿や聖ライラゆかりの場所で祈りを捧げるのだ。
と言っても、観光客はひっきりなしに行き来するから、大通りの人並みや賑やかさはあまり変わらないと思うけれど、と昨日の夜クラエスが笑って教えてくれた。
スノウは、淡い色の冬空を見上げて白い息をつき、毛糸のマフラーを巻き直す。それから、ふと気づいてセイルに問うた。
「ごめんね、これ、借りたままだね」
「別に俺は大丈夫だから、使ってなよ」
帰るときに、返してくれればいいから。
そうセイルが言うと、スノウはマフラーの端を握って微かに笑った。けれど、その笑みはとても寂しそうだった。時折、スノウはそういう顔をする。けれど、どうして、そんな顔をするのだろうか……セイルが問おうとした、その時。
スノウが、はっと顔を上げた。
「ど、どうしたの?」
「ごめん、セイル。ちょっと待ってて」
戸惑うセイルに対しスノウは言い置いて駆け出した。セイルは慌てて「待って!」とその背中を追いかける。スノウは、この町は初めてのはずだ。それに、寮の周りは結構入り組んだ道をしている。下手をすると、すぐに道に迷ってしまう。
けれど、スノウは迷いの無い足取りで駆ける。道を一つ曲がって、二つ曲がって。そして、スノウの後を追って路地に飛び込んだセイルは見た。細い道の先に立つ、一つの影を。
――そう、それはまさしく「影」。
セイルの目にはそこに立っていたものが、足元に落ちる影と同じ、冷たく質量の無いもののように見えたのだった。ただ、そう思ったのは一瞬で、実際には、それは黒い外套を纏った背の高い男だった。
男は、こちらに向かってくる足音に気づいたのか、ふとこちらに顔を向けた……次の瞬間、駆け寄ったスノウが男の体にしがみついていた。
何が起こったのかわからず、セイルは思わずその場で足を止めてしまう。そして、抱きつかれた側の男も少なからず吃驚したようで、抱きつかれたその瞬間のまま固まっている。
スノウはしばらく男の体に顔を埋めていたが、やがてゆっくりと顔を上げて男を見た。男も我に返ったのか、苦笑とも取れる表情を唇に浮かべ……顔の上半分が長い前髪で隠れて見えなかったから、本当に笑っていたのかどうかはセイルにはわからなかったけれど……スノウの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
それ以上、言葉を交わすでもなく、スノウと男はただただ見詰め合うばかり。
スノウは目の前にいるというのに、道の片隅に一人だけ取り残されたような気分になって、気づけばセイルはスノウに向かって駆け出しながら、声を上げていた。
「スノウ! その人、誰?」
セイルの言葉に驚いたように、スノウは少しだけびくりと体を震わせて男の体から手を離し、ゆっくりとセイルを振り向いた。その表情は、晴れやかな笑顔だった。
「この人が、わたしをここに連れて来てくれた人なの」
「ここに、連れて来てくれた人、って」
スノウは言っていたはずだ。用事があって今は一緒にいないけれど、ユーリスからここまで連れて来てくれた人がいる、と。
そして、どこにいたとしてもその人とはいつも「繋がっている」のだ、と。
この影のような男が、そうなのか。
思いながら、改めてセイルは男を見上げる。長く伸ばした前髪が微かに揺れ、セイルを見下ろす瞳が顕になる。極端に彩度を欠いた姿の中で、存在を主張するかのように鮮やかに煌く緑色の瞳を、セイルは素直に「綺麗だ」と思う。
男はスノウにそうしていたのと同じように、無言でセイルを見つめる。口元には笑みを浮かべていたけれど、何を思って黙り込んでいるのかセイルにはわからなくて、助けを求めるようにスノウに言った。
「この人、スノウのお兄さん?」
スノウは、目を丸くして声を高くする。
「お兄さん? どうしてそう思うの?」
「スノウに似てるなって思ったんだけど、違うんだ?」
よく見れば顔が似ているわけでもないし、持っている色彩だってまるで違う。けれども、何故だろう。男の瞳を「綺麗だ」と思ったのは、スノウの瞳を「綺麗だ」と思う感覚と何もかもが一緒だったのだ。
スノウは、歌うように「お兄さん」とセイルの言葉をもう一度繰り返して、小さく首を横に振った。
「違うよ。でも、わたしが物心付いた時から、ずっと傍にいてくれたから……お兄さんと言っても、いいかもしれない」
とても大切な宝物を見るように、スノウは男を見上げる。けれど、男はスノウの言葉に対して何を言うでもなく、ただ少しだけ浮かべていた笑みを歪めた。
そして、それを見ていたスノウが、突然痛みを堪えるような顔をしたから。
セイルは、聞かずにはいられなかった。
「どうしたの、スノウ」
スノウは男から目を逸らして俯き、小さな手を握り締め、ぽつりと呟いた。
「どうして、どうして、伝わらないのかな……っ」
「スノウ?」
セイルはスノウの顔を覗き込んで、言葉を失った。スノウは、今にも泣きそうな顔をしていた。何故、いきなりスノウがそんな顔をするのだろう。男が何をしたわけでもなさそうだったけれど……
顔を上げれば、男は泣きそうなスノウに背を向けて、その場から歩き去ろうとしていた。セイルはむっとして、男の背中に向かって叫ぶ。
「何してんだよ! スノウのこと、置いてく気かよ!」
ゆらりとセイルを振り向いた男は前髪の間から覗く目を細め、初めて、セイルの前で口を開いた。
「スノウは、わかってるから」
その声は、セイルが想像していたものよりずっと低く、ざらついたものだった。それに驚かなかったわけではないが、それ以上に納得が出来なくて、セイルはスノウの肩に手を置いて声を荒げる。
「わかってる、わかってないとか……そういうの、俺には何も知らないけど!」
スノウと男の関係とか。スノウが「わかっている」こととか。何もセイルにはわからない。わかるはずなどないけれど、一つだけはっきりしていることがある。
「スノウはさ、一緒にいると楽しそうな顔してるけど、気づくと必ず少しだけ辛そうな、悲しそうな顔になるんだ。だけど、アンタの顔を見たスノウはすごく嬉しそうだったから……多分、ずっと心細かったんだ!」
スノウは、セイルと一緒にいる間でも時折ここではない遠くを見ていた。ここにいない誰かの背中を追っているようでもあった。きっと、繋がっているとは言ったけれど、傍に男がいないことをずっと気にしていた。
「なのに、アンタは、今もスノウを置いていくのかよ」
「それは――」
酷薄な笑顔を浮かべたまま、男が口を開く。それでも、セイルは言葉を放つことを止めない。なおも泣きそうな顔をしているスノウを前に、止めることなどできなかった。
「『お兄さん』なら、スノウが寂しがってることくらい、気づいてやれよ!」
男は、一瞬目を丸くした。まるで、セイルの言葉が理解できなかったかのように。それから、薄い唇を開いて「寂しい」と呟いた。
セイルは、スノウの肩を強く叩いて、言う。
「スノウも、寂しいなら寂しいって、はっきり言った方がいいって! 言わないとわからないんだよ、きっと!」
「でも……言ったら、迷惑になるって、思ったから」
スノウは、俯いたまま小さく呟いた。
「迷惑だったら迷惑って言ってくれるだろ。そこで遠慮してたら、何にもならないよ」
「違うの、セイル。そうじゃないの」
違う?
そう思って、スノウを見る。スノウは決して泣いてはいなかった。いなかったけれど、何かを耐えるような、苦しそうな表情でセイルを見つめていた。
「彼は何も悪くないの。だから、あんまり責めないで」
「悪くないって……」
言いかけて、セイルは気づいた。セイルがスノウに意識を向けていた間に、男の姿がその場から消えていたのだ。その現象が意味するところを把握するまでに数秒を要し、把握した瞬間にセイルは叫んでいた。
「逃げた!」
「ううん、逃げたんじゃないよ」
思わず握りこぶしを作りかけたセイルに対し、スノウは必死に訴える。セイルには、スノウが何故そこまで男を庇うのかがわからなくて、眉を寄せることしか出来ない。
すると、スノウはセイルの手をぎゅっと握り締めた。
「ごめんね、セイル。嫌な気持ちになった?」
「嫌、ってわけじゃないよ。ただ」
スノウの手に包まれた手を、もう一度、握りなおす。自分の中に生まれた思いを、確かめるように。
「スノウが寂しそうにしてるのに、知らないような顔してへらへら笑ってるのが許せなかったんだ。そりゃあ、俺が怒ることじゃないんだろうけど」
これは、きっとスノウと男の間の問題だ。セイルが何とか言えるような話ではない、のかもしれない。それでも言わずにはいられなかったのだ。セイルは唇を尖らせて、ふいと男が去っていった方向から視線を逸らす。
スノウは、きょとんとした表情でセイルを見て……それから、小さく息をついて空を見上げた。今日の空もよく晴れていて、冬特有の青色を一面に満たしている。
「あの人はセイルが思うような酷い人じゃないよ。本当は、とても優しい人なの。ただ、一番伝えたいことだけが、上手く伝わらないの」
どこまでも広がる空を見上げながら、スノウは冬の風に似た、澄み切った声で呟いた。
「スノウ……?」
スノウの目は空を見つめたままだったけれど、セイルの手を握る小さな手に、微かに力が入った。決して強い力ではなかったけれど、まるで、この手を借りて、自分自身をその場に繋ぎ止めているよう。そう、セイルは思った。
だから、セイルもその手を強く、握り締める。
「あのさ、スノウ」
「なあに?」
胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んで。セイルは視線を落としたスノウを見据えて、はっきりと、言った。
「それなら尚更、はっきり言うべきなんだと思う。もしかしたら言っても伝わらないかもしれないけど、それを怖がってたらきっと、何も言えなくなっちゃう。言わないで後悔するよりは、言って後悔した方がいいんだ」
ってのは、親父の受け売りなんだけど。
セイルは後ろにそう付け加えて、苦笑する。スノウは目を丸くしてセイルを見下ろしていたけれど、やがてふと、微笑んだ。
「いいお父さんだね。うん、セイルの言うとおり」
自分の言葉を噛み締めるように、一言、一言。
「きちんと伝えなきゃ、伝わらない。後で言わなかったことを悔やんでも、遅すぎるよね。そんな当たり前のことも、わたし、わかってなかった」
本当に、わたしには、わからないことばかりなのね。
そう言うスノウの表情は、不思議と晴れやかだった。そして、セイルの手を取ったまま、弾んだ一歩を踏み出す。
「ね、セイル。一つ、お願いがあるの」