影と騎士

 ――スノウが、泣いている。
 ブランはそっと己の胸に手を当てる。スノウの痛みは、自分の痛みでもある。ただ、スノウのようにその痛みに名前をつけることが出来ない彼に涙を流すことなど出来るはずもなかった。
 仕方ないことだと彼は思い、目の前に座る騎士ライラを見やる。騎士としての正装でなく、略式の聖職服に身を包んだライラは不機嫌そうな表情を隠しもせずに、睨むような視線を彼に向けていた。
「それで、話とは?」
 ライラの口調にも、露骨に不快の色が現れている。それは当然、女神に仕える騎士にとってブランは女神に逆らう異端、楽園に存在することさえ許されぬものだ。そのような考え方は正直「馬鹿馬鹿しい」ものだが、信ずるものは人それぞれだとブランは思っている。
 だから、ブランは普段と何も変わらぬ笑みを投げかけて、声を落として言う。
「さっきも言ったでしょうに。この町に潜む『エメス』の動きを俺様が教えてやろうっていうのさ」
「どういう風の吹き回しだ?」
 ライラは言ったが、微かにその声には揺らぎを乗せているようだった。おや、と彼は不思議に思う。何か心境の変化でもあったのかとも思ったが、あくまでライラの態度は硬い。
「だから言ったでしょ、俺様はスノウの無事を願ってるだけ。で、スノウの無事を願って『エメス』を厄介に思うのはアンタらも同じ。だからちょっと手を組まない、って言ってんの」
 ――まあ、スノウを攫った俺が言うのもなんだけどな。
 彼は微かな自嘲も込めて付け加えた。真実を知るならば、「攫う」という言葉は当てはまらないかもしれない。ただ、状況から判断する限りは「攫う」というのが一番正しいはずだ。
 そして、彼は一貫して「スノウを攫った」という態度を崩さないことに決めている。
 これはスノウの望みではない。心優しきスノウは当然彼一人に罪を着せようとは思わなかった。
 だが、彼はこれでよいと思い極めている。どうにせよ異端たる彼が捕まれば命は無いのだ、それならばスノウに責めを負わせずとも自分が全ての罪を背負って世界樹に還ればいい。
 それだけの話だ。それだけの。
 気を取り直して、ブランは言葉を続ける。
「一緒に戦え、なんて馬鹿は言わんさ。俺様は持ってきた情報をお前さんに渡す。お前さんはそれを信じるも信じないも勝手。ほら、一方的にお前さんに優しいでしょ?」
 ライラは沈黙でブランの言葉に応えた。やりづらいな、と思いながらもブランは微笑みを絶やさずに手元の珈琲をすする。
 彼はそもそも交渉事が苦手だ。彼に出来ることは自分が考えていることを言葉にする、そして相手の言葉に自分なりの言葉で応えることだけ。沈黙は彼が一番苦手とする場面だ。
 しばし、気まずい沈黙が流れ……やがてライラが口を開いた。
「いくつか、質問したい」
「どうぞ。答えられるかどうかはわからんけど」
 それでいい、と言ってライラは低くも鋭い声を放つ。
「何故、貴様はスノウ様を攫った」
 ブランは、答えずに首を横に振った。それを自分の口から言う理由が無かった。真実を言ってしまえば、スノウに罪が及ぶ。どう答えれば無難だろうか、と頭を捻る彼に対して、ライラは更に言葉を重ねる。
「なら、質問を変えよう。スノウ様が、貴様に頼んだのか?」
 今度こそ、答えに窮した。
 気づいていたのか、と思わずにはいられない。ライラの態度からは、スノウが自ら望んで神殿を出たことに気づいた様子は見受けられなかった……いや、そう彼が思い込んでしまっただけかもしれない。
 ライラは、スノウの第一の友人だ。彼もそれを知っているから、一瞬驚きこそしたがいつかは気づかれることだと思ってはいた。それがブランの想像より少し早かったというだけ。
「……もし、そうだとしたら?」
 だから、ブランは問いに対して問いで返す。ライラは微かに目を細め、静かに言った。
「どうもしない。貴様をしかるべき罪に問い、スノウ様を神殿にお連れするだけだ」
 貴様の罪の重さは多少変わるかもしれないが、最終的な結果は変わらない。ライラの瞳はそう告げていた。
「そだな。俺様としたことが、当然のこと聞いちまった」
 ライラは騎士だ。何処までも、その点は揺らがない。いや、彼女自身が強いてそうしているのかもしれない。ただ、彼はそれについて深く考えることは無い。ライラについて考えるのは、スノウの役目だ。
「ただ」
 ライラの瞳の中に、ほんの少しだけ。スノウの記憶の中でしか見たことの無い、柔らかく、かつ脆さすら感じさせる光が宿ったように見えた。
「スノウ様は……それほどまでに、思いつめられていたのか。あれほどまで神殿の意に従おうとしていたスノウ様が神殿の外に出ようと望んだのならば、もう……」
 ライラの表情が暗く沈む。それを見たブランは、突如胸の中で何かがざわめいたのに耐えられずに、強い口調で言い放った。
「っ、馬っ鹿じゃねえの!」
 まさか彼が突然声を荒げるとは思っていなかったのだろう、ライラは吃驚して彼を見た。彼も慌てて取り繕うように笑みを唇に浮かべてみせたけれど……自分でも、何故これほどまでに強い感情に囚われてしまったのかは、わからなかった。
 その感情の名前すら、今の彼にはわからないというのに。
 だが、あまりにも、ライラの言葉は見当違いだ。唇では笑みを模りつつも、いつもの間延びした声ではなく、早口ながらもはっきりとした言葉遣いでライラに語りかける。
「アンタはスノウのことを何だと思ってんだ。スノウは、んな甘ったれた奴じゃねえ」
 確かに、スノウはこれが最初で最後の旅だと言った。
 彼も、これが最初で最後の旅であると知っている。
 だが、その意味合いはライラが思うものとはかけ離れている。
「スノウは、何も諦めちゃいない。だからこそ、俺様はスノウに協力した。何もかも諦めた奴に手を貸すほど俺は暇じゃねえ」
「ならば、スノウ様は、何故」
 ――今になって、神殿の外に出たのか。
 ライラの言葉は声にはならなかったけれど、今この瞬間に彼女が言おうとしていることくらいは、ブランにだってわかった。
 だから、ブランは笑う。くつくつと、喉を鳴らして。
「スノウはな、奇跡を起こしに来たんだよ」
「奇跡……?」
「奇跡ってのは待つもんじゃねえ。何もかも、何もかも。この世の全ては行動によって招かれる結果でしかねえ。それは、俺様なんかよりもスノウの方がよくわかってんだろうな」
 そして、スノウはこの地にやってきた。
 胸の内に譲れない思いを秘めて、真っ直ぐに前を見据えて。その彼女を見つめ続けてきたブランは、彼女が諦めていないということを知っている。その姿は、見る者が見れば「悪あがき」と捉えられても仕方ないかもしれない。
 だが、ブランはそんなスノウが好きだった。自分には無い、熱い心をその可憐な体に閉じ込めてきた小さな少女に何よりも「憧れた」のだ。
「だからさ、あと三日。三日だけでいいんだ。待ってやっちゃくれねえかな」
「……それは、神殿が決めることだ。貴様には関係ない」
 ライラはぴしゃりと言い切ったが、その表情はブランが初めて目にした「騎士」としての彼女とは違う、年相応の女の顔つきに見えた。
 ライラはしばし、手元の紅茶の水面を見つめていたが、やがて顔を上げて言った。
「最後に一つ」
「どうぞ」
「貴様は、スノウ様とはどういう関係だ。スノウ様は神殿から出たことがない。異端研究者たる貴様と邂逅するはずがない」
 その通りだ。ブランは首肯する。
 スノウがセイルに語ったとおり、ブランはスノウにはつい数日前まで会ったことがなかった。しかし、ブランはスノウの全てを知っていると言っても過言ではない。スノウがブランの全てを知っているのと、同じように。
 ただ、それを正しく説明する術をブランは持たない。理論は理解しているが、それを語ったところで相手も同じように理解できるとは思っていない。故に、ブランは目を細めて己の頭を指した。
「俺様とスノウはここで繋がってて、お互いの考えてることがわかっちゃうのさ」
 そういうことにしておいて、と付け加えて。
 ライラは怪訝そうな顔をして、ブランを見据える。ブランとて、信じてもらえるとは思っていなかったし、嘘は言っていないが必ずしも正しい答えというわけでもない。
 ブランの言うことを真に受けたのか……生真面目なライラのことだから、それも十分にありえるとは思ったが……唇に指を当て、深く考えるような素振りを見せるライラに対し、ブランはにやついた笑みと共に告げる。
「さて、と。俺様もこれでなかなか忙しいからね。そろそろ、どうするか決めてもらえっかな」
 ライラはしばし黙考したが、ブランが思うほどの間を置くことなくきっぱりと告げた。
「わかった、今だけは貴様の提案を呑もう。今優先すべきはスノウ様の無事だ」
「ありがたい。俺様も天才だが身は一つだからね。正直一人でスノウを守りきれるかどうか、不安だったんだ」
 もちろん、ライラや騎士たちの手によってスノウが連れ戻される可能性はまだ消えていない。けれど、『エメス』を自分一人で牽制せずに済むのはありがたかった。
 ブランは己の目と足で確かめた『エメス』の情報を、小声でライラに語る。ライラはブランを睨む瞳の強さこそ変えていなかったが、熱心にブランの言葉を聞いている。ブランの言葉を時折疑うかのように問い返してくることもあったが、頭から疑っているわけでもないのはその態度から明らかだった。
 あらかた自分の知っていることを話し終えると、ライラは小さく頷いてみせた。その表情が毅然としたものに見えたから、ブランは満足して席を立つ。すると、ライラがブランを見上げて鋭い声を上げた。
「待て」
「何よ、まだ質問? 答えるって言った手前、一応聞くけど」
「貴様は」
 ライラは言葉を放ちかけて、唇をきゅっと引き結んだ。「どしたん?」と問いかけるブランに対し、ライラはゆるゆると首を横に振った。
「いや、何でもない、引き止めて悪かった。後のことは……スノウ様に伺えばいいことだ」
 その言い方が気にならないわけではなかったが、ブランは首を傾げただけでそれ以上は問いただそうとは思わなかった。どうせ、スノウに聞くならば自分の耳にも届く。それでいいではないかと言い聞かせて、ブランはライラに背を向ける。
 その時、ライラがどんな顔をしていたかも、わからぬままに。