影と物語のはじまり
聖ライラ祭から一夜が明け――
町は、昨日までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
聖ライラ祭が過ぎれば、後はユーリスの創世日を待つばかり。人々は、年の始まりを穏やかな気持ちで迎えるべく、準備をしているところだろう。
ブランは、そんなリベルの町を見渡せる丘の上に、独りきりで立っていた。
冷たい北からの風に、黒い外套を揺らす影法師のような彼は、薄い唇を笑みの形にしてリベルの町を見下ろしていた。
懐かしい町並みは、ここから見る限りブランの記憶の中のリベルの町と何一つ変わらない。実際に降り立ってみれば、確かに十年近くの月日が経っていると自覚させられたけれど……「懐かしかった」のは事実だ。
少年時代をこの町で過ごした彼にとって、この町は特別な感慨を呼び起こすものだった。
だが、スノウは、もうここにはいない。
だから、自分がここにいる理由も、もう無い。
ブランはポケットの中から、預かった緑色のリボンを掴んで取り出す。リボンは、世界樹の緑というよりは、彼の瞳に似た、微かに青みを混ぜた冷たい緑色をしていた。
今までずっとスノウの身を守っていた、お守りのリボンだ。世界樹や女神の力を信じぬ異端のブランだが、スノウを守ってくれた力は信じてもよいかもしれない、と思う。
それに、このリボンはスノウが遺してくれた心、そのものだ。
ブランは少しだけ躊躇ってから、己の少しだけ長く伸びた髪をリボンで縛る。
自分はスノウにはなれなくて、スノウが進む道に背を向けた。けれど、せめてスノウの前向きな思いと闇の中に踏み出す勇気を、少しでも分けてもらえたらいい。切なる思いを込めて、ブランは緑のリボンを風に揺らす。
――さよならだよ、
スノウの声が、脳裏に蘇る。
それは、最初で最後の別れの言葉。スノウが自分の手を離れた瞬間。
その時、自分は上手く笑えていただろうか。何となく、そんなことを考えた。笑っていることは得意だけれど、スノウは彼の微笑みの意味を知っていたはずだ。故に、スノウから自分はどのように見えていたのか……それは、スノウの記憶が読めるブランでも、最後までわからなかった。
決してわからなかったけれど、自分の力で、少しでも彼女が救われたならいい。
祈るように、そう思う。
いつも彼女を泣かせてしまっていたから。あの「セイル」という名の少年のようにはなれなかったから。せめて、少しでも彼女の力になりたかった。ただ、それだけだったのだと気づく。
「セイル……か」
スノウの手を引き、駆けた無邪気な少年。夢を語り、約束を交わし、スノウの手を決して離さなかった赤毛の少年の姿が脳裏をよぎる。彼の前向きさが、ブランにはとても眩しかった。眩しすぎるほどに。
また会えるかな、というセイルの言葉が、不意に脳裏に蘇る。
そうだ、また会いに行けばいい。これから自分がどのような道を進むかはわからないけれど、もし道に迷えば、ここに戻ってくればいいのだ。その時にはきっと彼が、スノウとよく似た何処までも真っ直ぐな瞳で自分を迎えてくれるはずだ。
自分も、もはや独りではない。スノウが独りではなくなったように。それに気づいて、ブランは「はは」と乾いた声で笑った。風が彼の体の横をすり抜けて、南へ向けて走り去っていく。
そんな風の行く先を見送って、ブランは空を仰ぐ。昨日雪を降らせた空は、それを忘れたかのように青く、青く、透き通った色を湛えている。魔王や聖女が愛した、そしてスノウが愛した幸せの色を。
――次は、あなたの番。あなたが、幸せになる番だよ。
そんなスノウの声が遠くから聞こえた気がして、ブランは声を上げて笑った。笑って、笑って、笑い続けて。そして空に向かって吼えた。
「スノウ、俺も上手くやっていけそうだ!」
その向こうに旅立った、二度と声を聞くことのない少女に向かって。
「じゃあな、スノウ!」
――永遠に。
改めて言葉にして、ブランはリベルの町に背を向ける。
振り返ることなく、真っ直ぐに。
彼は誰でもない自分自身の物語に向けて、旅立つ。