上昇と落下

 かん、かん、かん、と足音を立てて階段を上っていく。
 足元から激しい罵声が聞こえてくるが、言葉を聞き取ることはできない。私の知識にも、我々のデータベースにもない不可思議な言語。ただ、それが「罵声」であることはわかるし、きっと階段を上っているXも理解しているはずだ。
 Xはひたすらに目の前にある階段を上る。流石に息が切れてきているのがスピーカー越しに聞こえる息遣いでわかるが、速度を落とすことはない。速度を落とせば、追いつかれることがわかっているからだろう。きっと重くなりつつあるだろう足を、次の段へと持ち上げて、上へ。ただ、上へ。
 階段は螺旋状になっていて、ぐるぐると同じ場所を回り続けているような錯覚に囚われる。それでいて、確実に追い詰められているのがわかるだけに、見ているだけしかできない私も手に汗を握ってしまう。
 そう、Xは追い詰められているのだ。自分がどこに向かおうとしているのかもはっきりとはわからないまま、追われるままに走り続けている以上、いつかは必ず追いつかれるという確信がある。
 どのくらい、そうしていただろう。
 スピーカー越しの息遣いが更に激しくなってきたところで、目の前に金属製の扉が現れた。鍵はかかっていなかったようで、Xはその扉を勢いよく開く。
 すると、ごう、という風の音と共に視界が開けた。
 青い、青い、空。ただ、それがただの空でないことは、ディスプレイに映し出されたXの視界でわかる。青という色を映し出した巨大なドームの屋根が目の前から頭上にかけて広がっているのだった。
 Xはふらりと一歩を踏み出す。そこには少し開けた空間があって、その周囲に落下防止のフェンスが取り付けてあった。屋上、らしい。Xはつかつかと奥のフェンスに向けて歩いていく。
 どうやら完全に追い詰められたようだ、と思う間もなく、激しい足音と共に扉の向こうから不思議な形の制服を着た面々が現れる。彼らの手には思い思いの武器……、と思われるものが握られている。それは警棒のようなものであったり、長い槍のようなものであったり、銃にしては歪な何かであったりした。
 その内の一人がXに向かって何かを叫ぶ。もちろん、何を言っているのかはわからないが、この状況を考えると、例えば投降を呼びかけるようなものだったのかもしれない。じり、じり、と包囲がXに近づいてくるのが、Xの視界越しにわかる。
 Xは彼らを視界に捉えたまま後ろに下がった。そして、ちらりと背後に目をやる。もう、フェンスに手をついている状態で、後はない。制服の面々が何かを口々に叫ぶが、Xは腕の力だけでフェンスの上に乗る。
 その瞬間、わっと声を上げて制服の面々が武器をかかげて駆け寄ってくる。明らかに殺意を漲らせている彼らを前にして、Xは。
「引き上げて、ください!」
 それだけを言って、フェンスを蹴った。
 ディスプレイに映し出されたXの視界が上下反転して、それから。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 そして、今回Xが降り立った『異界』は、巨大なドームに覆われた都市であった。
 青すぎるほどに青い「空」に見下ろされた都市には、揃いの制服を着た人々が整然と行き交っていた。その人の流れに反して酷く静かで、スピーカーの異常を疑ったほどだ。
 だが、その静寂はすぐに破られることになる。Xの姿を見つけた誰かが、甲高い悲鳴を上げたことで。
 もちろんXはただ降り立っただけで何をしたわけでもない。それこそ、人に話しかけようとすらしていない段階の出来事だった。普段は必要に駆られて以外にめったに声を出さないXも「え?」と間抜けな声をあげたくらいだ。
 だが、道行く人たちはXを見るなり怯えた顔を浮かべ、走り去っていくのだ。Xは自分が何かおかしいのか、とばかりに自分の姿を見直す。意識体のXの服装は、いつもその時に肉体が着ている服装であり、だぼっとしたトレーナーに幅広のつくりのズボンと、ラフではあるがそこまでおかしいとは思えないものだ。……もちろん、それは「私から見て」であり、この『異界』では通用しなかったのかもしれない。
 事実として、Xの姿を見た人々はことごとく逃げ出し、それからまもなく、手に武器らしきものを持ったやはり制服姿の男性が近づいてきて、Xに何事かを語り掛けてきたのだ。
 だが、相手の言っている言葉がわからない。スピーカーから聞こえてくる音声をデータベースにかけてみたが、現在データベースに収録されている言語には当てはまらない、不可思議な言語。もちろんXにも通じるはずはなく、困った様子で首を傾げることしかできない。
 その直後、目の前の男性が武器を振り上げて、Xを打とうとしたのだった。
 Xはほとんど反射的に男性を蹴り倒し――いつもぼんやりしている割に、こういう時の判断はやたらと早い――その場から逃げ出した。だが、Xが走っている間にもあちこちから悲鳴が聞こえ、武器を手にした追っ手は増えていくばかりで。
 どれだけ必死に走っても追っ手を振り切れず、追い詰められた結果が、あれだ。
 
 
「それで、引き上げが失敗したらどうするつもりだったの?」
 寝台に横たわったままのXがちらりとこちらを見て、わずかに首を傾げる。その表情は相変わらず凪いでいて、感情の動きを読み取ることはできない。
 Xが「墜落した」と認識する直前にXの意識体を『異界』から引き上げ、肉体に戻すことに成功しているから、Xは今こうして私の声を聞いているけれど。もし墜落した衝撃を意識で受け止めていたら、果たしてどうなっていたことか。少なくとも、まともでいられなかったのは確実だろう。
 そんな私の危惧など素知らぬ顔とばかりのXに、どうにも頭が痛くなる。
 Xは自分の危機に対しての感覚が妙に鈍いところがある。今回は自分から引き上げを望んだが、こちらが強制的に引き上げを行うことも少なくない。そうしなければXの意識体が保たないと判断された時だ。しかし、『異界』ではありとあらゆることが起こりうるのだ、せめてもう少し自分を守ろうとしてくれないだろうか。
「引き上げを望むなら、せめてもう少し早くして。……X? 聞いてる?」
 私の問いかけに対してXが頷く。Xの自己判断を認めている『異界』の中ではともかく、『こちら側』にいる間のXは私が許可しない限り声を上げようともしない。私はやれやれと首を振り、溜息をつかずにはいられない。こういう時ばかりは、Xの従順さがいやにもどかしく感じる。
「あなたが死んでも『次』を用意すればいい。あなたはそう思っているかもしれないけれど、あなたほどの適任者はなかなかいないのよ、X」
 とはいえ、Xは死刑囚だ。いつかは必ず死ぬことが定められている。ただ、それまではできる限り我々に協力していてもらいたい、とも思うのだ。
 果たして、そう望むことは私のわがままであろうか。否、わがままであっても構いはしない。元よりこの研究が私のわがままそのものなのだから、今更だ。
「さあ、今日はゆっくり休んで。相当消耗しているでしょう」
 Xの全身に取り付けられていたコードが外される。Xはゆっくりと起き上がって、その、ちぐはぐな色をした――少しだけ焦点のずれた不思議な目でじっと私を見つめてくる。
「何?」
 Xは首を横に振って、寝台から下りる。今日はその足取りもしっかりしているから、私が心配することもないのかもしれなかったが、念のためだ。
「X、発言を許可するわ。言いたいことは言って。どんな話でも、聞くことはできる」
 すると、Xは少しだけ困ったような顔をして、その唇から、低い声が漏れる。
「必要とされるのは、悪い気分じゃない、と、思っただけです」
 それだけを言ったXは私に向けて深々と一礼して。扉の前で待っていた刑務官に連れられて研究室を出て行った。
 私はXが横たわっていた寝台に寄りかかり、もう一つ、溜息をつく。
 Xの思考はいつだって私にはよくわからない。Xは当初から多くを語らない人物であって、それは今に至っても変わらない。発言を許可したところで、ぽつぽつと応答する程度で――それのどこまでが彼の本心なのかも、わかりはしないのだ。
 そう、青い空に向けて迷わず踏み切った瞬間の心の内だって。
 もちろん、わかる必要などないのかもしれない。Xは我々にとってのサンプル、実験動物でありそれ以上でも以下でもないのだから。
 それでも、どこか胸の中に引っかかるものを感じて、私はXが消えていった扉をじっと見つめていた。応えが返ってこないことは、わかりきっているのに。