01:ボーイ・ミーツ・ガール(3)
町外れの林に分け入り、道とも言えない道を行き何とか家まで辿り着く。少女がまだ背中で眠り続けているのを確認して、そっと扉を開けた途端。
「セイル……お前がそんなに積極的な奴だとは思わなかった」
耳に飛び込んできたのは、そんな見当違いはなはだしい言葉だった。
「何がだよ!」
「一体その子と何があった。数十文字以内でわかりやすく母さんに説明しろ」
「何もないよ! いや、色々あったんだけど絶対意味違うだろ母さん!」
玄関で息子を出迎えたセイルの母は、「まあ、冗談だけどな」とおどけて肩を竦めてみせた。セイルの空色とは似ても似つかない褪せた銀髪を肩の上で揺らし、涼やかな色の瞳を細めてセイルに背負われた少女を見やる。
「で、その子はどうしたんだ? 町の子、には見えないな」
「何だかよくわからないけど、この子、変な奴に追われてるみたいなんだ。とにかく、休ませてあげてもいい?」
変な奴? と訝しげに眉を寄せる母だったが、すぐに軽く首を振って階段を指す。
「私の部屋に寝かせてやれ。話はそれからだな」
「ありがとう!」
セイルはすぐに少女を背負ったまま階段を駆け上り、母の部屋のベッドの上に少女を寝かせた。少女はなおも昏々と眠り続けていて、胸だけが小さく上下している。セイルはしばらく、ベッドの横に立ち尽くして少女を見下ろしていた。
果たして、この子は何者なのだろうか。あんな奇天烈な奴に追いかけられていたのだ、何か特別な事情があるに違いない。それに。
「ノーグ・カーティス、か」
セイルは無意識に青い髪の先端を引っ張りながら、小さな棚の上に置かれている写真立てに目をやる。そのころはまだ珍しかった魔道写真機で撮られたセピア色の写真には、まだ赤ん坊のセイルとそれを抱いて微笑む母、その後ろに立つ穏やかな表情の父。
そして、ほんの少しだけ、ぎこちない笑みを浮かべた黒縁眼鏡の少年の姿がある。
セイルは兄の顔を克明に思い出すことができない。こうやって、写真で見て初めて「こういう顔をしていたのだったか」と思い出すくらいだ。それもそのはずで、十五も年の離れた兄はセイルが物心ついたころには家の外で働いていたのだ。母からは飛空艇技師だと聞かされていたが、実際に何をしていたのかは事件が起こるまで何も知らなかった。知ろうとも思わなかったのだ。
ただ、時折家に帰ってくると、兄は色々な話をセイルに聞かせてくれた。女神と世界樹の神話、五人の使徒と竜の物語、遠い昔に生きた勇者の伝説、大きな声では言えない異端の物語まで。兄は博識で、どんなことでもよく知っていた。だから、セイルはいつも兄の帰りを楽しみに待っていた。
けれど、兄はあの日から二度と家には帰ってこない。
異端研究者ノーグ・カーティスは、楽園全てを敵に回し表舞台から姿を消したのだ。
会えなくてもいい、せめて居場所だけでもわかればいいのに。そう思い続けて、六年が過ぎて。誰もがノーグの名を知りながら、何処に消えたのかは知られることがなかった。今や、生きているか死んでいるかも定かではない。
「兄貴……何、してんだろうな」
その行方もわからぬ兄に、助けを求める少女。あの時少女が見せた表情は、ノーグを見つけたという喜びに満ち溢れていた。その分、セイルがノーグではないと知った時の少女の落胆が見ていられなかったが、何故この子はそんなにも兄を追い求めているのだろうか。
わからない。考えていたって答えなど出るはずもないのだ。
セイルは少女を起こさないようにそっと部屋を出て、階下に戻る。母が少しだけ心配そうな顔で「大丈夫だったか?」と問うてきたので、セイルは小さく頷く。
「よく眠ってる。多分、疲れちゃったんだと思う」
「そうか。とりあえず、何があったのかくらいは聞かせてくれよな」
男っぽい口調で言いながら、セイルの空色の髪をぐしゃりと乱暴に撫でる。セイルは「わ、何すんだよ」とむくれるものの、母は笑うだけで取り合わない。それに、むくれては見せたもののセイルも撫でられるのは嫌いじゃない。母の手は温かくて、それだけで安心するから。
テーブルにつくと、既にそこには紅茶と菓子が用意されていた。セイルは温かな紅茶を味わいながら、正面に座った母に向かってぽつりぽつりと語り始める。
「俺にも、よくわからないんだけどさ」
言いながら、クッキーを一口。
「町から帰ろうとしたら、あの子が建物の上から落ちてきたんだ。それで、あの子を追いかけて変な奴まで落ちてきたんだよ」
「変な奴?」
「うん。何かすごいんだ、ごっつい甲冑を着てて……多分あれ、魔道機関で動くんだと思うんだけど、そんな奴があの子に襲い掛かったんだ。その時は何とか助かったんだけど、なんだか、あの子とあの子が持ってるものを追いかけてるみたいだった」
それが、これなんだけど。
セイルはあれから沈黙し続けているナイフを包みから取り出し、机の上に置く。母はそれを手に取ってまじまじと見つめ、突然「げっ」と声を上げた。
「待てよ、これ『鍵』じゃねえか」
「へ? 知ってるの?」
意外な母の反応に思わず問い返すが、セイルの声など聞こえていないかのように、母は磨きぬかれたナイフの刀身を見つめたままぶつぶつと呟く。
「とすると、本国がヤバそうだな。それに、これが外にあることも既に知られてる、か」
「母さん? 聞こえてる?」
セイルはもう一度、強く母を呼ぶ。母ははっとして、セイルに目を戻す。そして小さく舌打ちをして手の中でナイフを器用にくるりと回す。
「とにかく、こいつはあの子が目覚めるまで預かっとく。それで構わないよな?」
「あ……う、うん」
有無を言わせぬ母の声色に、セイルは反射的に頷いてしまう。頷いてしまってから、セイルは少しだけ困った顔になりつつも言葉を付け加える。
「それで、あの子、このナイフを使える人を探してるんだ。俺も、何かよくわからないけど使えるみたい」
「まさか」
「不思議なナイフなんだ。ただのナイフに見えるのに、握ると頭の中に声が聞こえて、俺の手と同化するんだ。それで、金属だって斬れるようになる」
まるで、昔兄が語ってくれた勇者が持つ伝説の剣のように。あの時の感覚を思い出し、右手を見つめるセイルは母が息を飲んだことにも気づかなかった。
「……ただ、あの子は俺じゃなくて兄貴を探してる」
「ノーグ、を?」
「兄貴はこのナイフの使い手で、あの子を助けてくれる人なんだって言ってた。詳しいことは、何もわからないけど……母さん?」
母の沈黙に気づき、セイルは顔を上げる。
母は、セイルが今まで見たこともないほどに、蒼白だった。ティーカップを握った両手は、小刻みに震えているようにも見えた。不安になって、セイルが声をかけようとしたその時、母はぎりと歯を鳴らしたかと思うと低い声で吐き捨てるように言った。
「あの野郎……今の今まで隠してやがったのか!」
「何のことだよ。さっぱりわからないんだけど」
「わからなくていい。母さんだって、わからない方がいいと思ってるんだからな」
母はセイルには全く意図の通じない言葉を呟いて、席を立つ。セイルはなおも追及しようとしたが、母の目に睨まれて言葉を飲み込んでしまう。しばしの気まずい沈黙が流れたが、やがて母がいつも通りの微笑を浮かべてセイルの頭を撫でる。
「お前も疲れただろう。ゆっくり休めよ。ああ、それと……」
不意に、母の表情が歪む。
「次こそ、頼んだものを買ってきてくれよ」
「あっ」
少女を助けた時に道にぶちまけてしまい、しかもそのまま置いてきてしまった荷物を思い出し……セイルはただただ間抜けな声を上げることしかできなかった。