01:ワンダーランド・オーヴァチュア(9)

 翌日。
 灰色の空からは、雨が降り注いでいた。
 八束は、アスファルトの上に横になって、ただ一人、雨を浴びていた。地面の上に溜まった水が身を浸しているが、気にも留めない。誰もその場を通らないことをいいことに、その体勢のまま思考を巡らせていた。
 ――何かがおかしいのは間違いない。
 ――絶対に、これは単なる事故ではない。検証してみればみるほど確信に近づく。
 ――けれど、まだ、何かが足りない。決定的な、何かが――。
 その時、ふっと視界が陰り、降り注ぐ雨が止んだ。いや、もしかしすると、今頭上に掲げられているのは傘だろうか。内側に向けられていた意識を、外界に戻すと。
「あーあ、びしょ濡れ。クリーニング代もったいないよ」
 傘を掲げた南雲が、そこに立っていた。
 ぽかんと見上げていると、南雲は黒縁眼鏡を中指で押し上げて、不機嫌そうな表情に似合わぬ軽薄な口調で問うてくる。
「何してんの?」
「事件状況を再現していました」
「そう。何かわかった?」
「……いくつかは。けれど、やはり、事故の状況に至った理由がわかりません」
 そう言って、八束は上体を起こす。髪はすっかり水を吸ってしまい、重たくなっている。それは服も同様だったが、八束にとってはどうでもよいことだった。
 しかし、南雲はそんな八束の頭に手を載せて、壊れやすいものを扱うような手つきで撫でてくる。
「髪の毛もぐずぐずじゃん。綺麗な黒髪なんだから、大切にしてあげなよ。なくなってからじゃ遅いからね」
 スキンヘッドの南雲に言われると妙な説得力を感じずにはいられなかったが、意識を向けるべくはそこではない。
「どうして、来たんですか?」
 昨日は、結局対策室に帰った後、件のバイク事故と、今北の妻が死亡した事故について調べることに終始した。本来オカルト専門である神秘対策係で調べられることはたかが知れていたが、偶然、署内で交通課の蓮見を捕まえられたことで当時の状況はかなり把握することができた。その間、南雲はソファの上で裁縫道具を広げてテディベアを縫っていたけれど、それは見なかったことにしている。
 そして今日、対策室で南雲に挨拶をした後は、そのまま対策室を飛び出した。奇しくも今日は、事件と同じ雨の日。検証を行うにはうってつけである。対策室で過ごしている時間が勿体なかったのだ。
 もちろん、南雲は八束の意図をわかっていたはずだ。そして、昨日がそうであったように、八束に積極的に協力することはないだろう、と思っていた。その南雲が、どうしてここにいるのだろう、という思いからの質問だったが、南雲の返答はあっさりとしたものだった。
「俺の仕事は、幽霊がいないことを証明することだから」
 つまり、八束がここにいるかどうかは南雲にとっては関係のないこと、ということだ。それは南雲からすれば当然の回答である、それはわかっている。わかっている、けれど。
 それでも、八束は、昨日から抱いていたもやもやを言葉として南雲にぶつけずにはいられなかった。
「いないものを証明するよりも、まず、すべきことがあるとは思いませんか」
「今北さんが事件を起こした証拠を見つけること?」
「はい!」
 南雲は、じっと八束を見下ろしたまま、その場に立ち尽くしていた。八束の言葉を笑うこともなく、さりとてふざけたことを言うなと怒るわけでもなく。感情の読み取れない仏頂面で八束の言葉を聞き届けた後に、
「本当に、そうかな」
 ぽつりと、そう言った。
 それは、八束が想像もしなかった反応で。つい、「え」と口を開いたまま、ぽかんと南雲を見上げてしまう。南雲は傘を持っていない片手でつるりとした頭を掻きながら、ゆっくりと、噛んで含めるように言う。
「今回の事件は確かに恐ろしい犯罪かもしれない。でも、個人の視点に立って考えるなら、例えば『自分を殺さない』とわかってる殺人者よりも、『いつ現れて自分を呪い殺すかわからない』幽霊の方が恐ろしい場合もあるんじゃない?」
「そ、それは……」
 南雲の言葉に導かれるように、今まですっかり意識から抜け落ちていたものが、一つ一つ蘇ってくる。神秘対策係のこと、綿貫から聞いた係の「役割」。
 幽霊事件に際して不安を感じている住民を想像し、八束本人が綿貫に言ったのではないか。「責任重大」だと。
「別にね、事件に優劣をつけようっていうんじゃない。ただ、俺やお前が勝手に優劣をつけていい問題じゃないって話さ。優劣がないから、俺たちの仕事は細かく課と係が分けられてて、各々が各々の役割を果たす仕組みになってる。その縦割り構造が上手く働かないことも多々あるけど、それでも、確かに意味はあるんだよ、八束」
 どきり、とした。
 やつづか、と。そう呼ぶ南雲の喋り方が、内容に反してあまりにも優しかったから。
「そして、俺らは待盾署刑事課神秘対策係だ。八束は、解決を命じられた事件を、他の事件より『劣っている』って言いたいのか?」
 南雲の声は決して荒々しくはなく、むしろ、どこまでも穏やかだった。だからこそ、八束は言葉にならない声を漏らして、硬直してしまった。激しく浴びせかけられるのではない、あくまで静かに身を包むような言葉を受けて、反射的な震えが走る。
 ――暴走、していた。
 染みこんできた言葉が、八束の焼け付いていた思考を鎮めていく。
 そうしてクールダウンした頭で、今までの自分の思考を改めて辿ってみる。
 そうだ、最初はきちんとわかっていたはずなのだ。自分の役割。どうして神秘対策係が存在しているのか。
 けれど、事故が仕組まれたものであったと確信した瞬間から、幽霊の存在など頭からはじけ飛んでしまっていた。犯罪者を野放しにはしておけない、知ってしまったからには動かなければならない。自分が解決しなければならない。そう、思い込んでしまった。
 それは、今の自分の役割ではないと、わかっていたはずなのに。
 八束は、アスファルトの上に座り込んだまま、ぺこりと南雲に向かって頭を下げた。
「……ごめんなさい、南雲さん」
「ううん、わかればよろし。俺も、らしくないこと言ったと思ってるんだ」
 言いながら、南雲は八束から視線を逸らして己のスキンヘッドを撫ぜる。
 ――不思議な人だ。
 八束は、胸元で手を握り締めて、思う。
 まともに人の話を聞かずに遊んでばかりいると思えば、こうして、真剣にこちらを気遣って言葉を投げかけてくる。……そう、「気遣って」くれているのだと、今の言葉で確信できた。
 もし、八束のことなどどうでもよいと思っているのならば、それこそ綿貫に報告すればいいのだ、最初に南雲が言っていた通り「八束は使い物にならない」と。だが、南雲はあくまで八束を正面から諭してくれた。わざわざ、諭すために、雨の中ここまでやってきてくれたのだ。
 そう、きっと、優しい人なのだ。八束は胸の前で手を握り締める。
 感情の読み取れない仏頂面や、不真面目な態度に覆い隠されてなかなか上手く受け取ることはできないけれど。先ほどの言葉は、間違いなく南雲なりの優しさだと信じられた。
 一つのことに気を取られて、間違うことがないように。本当に大切なものを見失わないように――。
 そこまで考えて、ふと、頭の中に蘇ったのは、前部署の上司の言葉。黒く重そうなコートを羽織った上司は、八束に背を向けたまま「ハチ」とかつてのあだ名を呼ぶ。
「ハチ、お前は頭の回転は速いが、大馬鹿だ。目の前にぶら下げられたものしか見えてない。今はまだ、目の前のものを順に素早く処理していればいいが、全体が見えていなければ、遠くない未来に致命的なミスをやらかすだろう。その前に」
「その前に?」
「自分自身を改めるか、外部装置をつけるかのどちらかが必要だろうな」
「外部装置? それは、どこに取り付けるものでしょうか」
「もののたとえだ。自分で優先順位が判断できないなら、目的から決して目を逸らさない仲間を持てってことだ。弱点を克服できなくとも、そいつがお前の目となれば、お前は己の長所を生かすことだけを考えられる」
 その時は、ただ、言葉をそのまま飲み込んだだけで、上司の言うことを理解はしていなかった。理解していなかったからこそ、上司の危惧していた『致命的なミス』を犯してしまい、元の部署を追われることになった。
 けれど、今になって、やっとわかった気がする。
 かつての上司のように、明確な指示を下すわけではない。だが、目の前の男は、八束にとっての「目」だった。盲目のままあらぬ方向へ駆け抜けようとする八束の肩を叩き、方向を正す。目指すべきものを見失うことのない「目」。
 八束は、ゆっくりと立ち上がりながら、こちらに視線を戻した南雲の、濃い隈に縁取られた目を見据える。
「南雲さん、教えてください」
 南雲は、目を逸らさない。けれども、仏頂面のまま「ええ?」と困惑の声を漏らす。
「教える、って、何を教えればいいのさ。そもそも俺は、人にものを教えられるような人間じゃないよ」
「そんなことありません! 今の言葉で目が覚めました。わたしは、まだ、一人では間違ってしまいます。今のわたしには、南雲さんの助けが必要なのです」
 南雲のことを、八束は何も知らない。人格も、能力も。綿貫は「優秀」だと言っていたが、果たしてそれが事実なのかもわからない。わからないけれど、それでもこの男を信じたいと思えたのだ。今、この瞬間は。
 しばし、八束を睨むように見据えていた南雲は、やがて小さく息をついて、首を横に振る。
「そう言われても、なあ」
 やはり、身勝手すぎる願いだっただろうか。もはや、協力を仰ぐこともできないほどに、見放されてしまっただろうか。南雲の重々しい仕草に、こちらまで重たいものを飲み下すような感覚を覚えた、その時。
「八束の方針がわからなきゃ、俺だって何をどう教えればいいかわかんないよ」
 南雲は、あくまで軽い口調で言い放った。
「……え?」
「俺の話を聞いても、なお件の事故の真相を確かめたいのか。それとも、幽霊事件を解決して終わりにするのか。どうしたいの、八束は」
 南雲はどこまでもゆったりとした声音を崩さない。ただ、少しだけ、眼鏡の下の目が細められたことで、緊張感が増したような気はした。
 問われた瞬間に、真っ先に思いついた回答はあった。だが、わざわざ八束に対して言葉を投げかけ、冷静さを取り戻させてくれた南雲に対して、これを言ってしまっていいかどうか。
 けれど、その言葉を喉の奥に収めたまま妥協することなど、八束にできるはずもなかった。
「わたしは――、どちらも、解決すべき事件であると思います」
 ぴくりと、南雲の眉が動く。それでも、八束は言葉を続ける。
「神秘対策係の一員として、幽霊事件をおろそかにするつもりはありません。しかし、我々の直接的な管轄ではないにせよ、人を傷つけた事件をそれと知りながら放置することは、わたしにはできそうにありません」
 一気に言い切ったけれど、内心は不安でたまらなかった。両手をぎゅっと握り締めて、南雲から目を逸らすまいとする。
 そして。
「わがままな奴」
 頭上から落とされたその言葉に、八束は身を震わせる。わがまま。南雲の言葉を聞いて、なお「どちらも」と言い張るのだから当然だ。今度こそ、本気で呆れられてしまっただろうか、と思っていると、不意に「でも」と言葉が降ってくる。
「俺は、そういう考え方嫌いじゃないよ。言うからには、解決できるって自信があるわけでしょ?」
 見上げた南雲は、相変わらずの仏頂面だった。けれど、その薄い唇が紡ぐ声は八束を馬鹿にするような響きではなく、あくまで明るく、背中を押すような響きをしていた。
 ――この人なら、応えてくれる。
 その確信に胸を高鳴らせ、八束は迷いなく頷いた。
「はいっ! やってみせます!」
「オーケイ。なら、俺もちょっとは頭を使おうか。いくつか気になってたこともあるしな」
「気になってた、こと……?」
 それは署に帰ってからね、と南雲は言って、踵を返す。慌ててその後をついていこうとした八束だったが、南雲が突然くるりと振り返ったことで、足を止める。南雲は傘を持っていない片手で、八束の頭をぽんぽんと叩く。
「でも、その前に着替えてきなよ。家、ここの近くなんでしょ? びしょ濡れのままじゃ、風邪引いちゃうよ。お前の分の傘も持って来たから、行ってきな」
 途端に、自分の格好が、それはもう酷いことになっていると思い出し。
「は、はい……っ!」
 顔を赤くして、慌てて傘を受け取って駆け出した。