02:ワンダリング・ウォーターインプ(10)

 こつこつ、とアスファルトに音程の異なる三つの足音が響く。
 暮れ行く西の空に輝く夕日が、三つの影を道路の上に伸ばしていた。やけに小さいのと、少し横に大きいのと、縦に長いの。あまりにも凸凹で共通点の見出せない足下の影を、つい目で追ってしまう。
 もちろん、影で遊んでいるわけではない。今から、河童が見つかった状況を確認しに行くのだ。――が、その前に。
「南雲さん、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「笠居さんは、河童の失踪に関係していると思われますか?」
 今まで聞いた話だけでも、もやもやするものがあった。銀色の痕跡を残して消えた河童。それから二日の後に突然見つかった河童、それを神社まで持ってきたという笠居。何かが繋がりそうで繋がらないもどかしさがある。
 南雲が八束の思考をどれだけ汲み取ったのかはわからない。だが、八束が最も聞きたかった言葉を的確に返してくる。
「んー、笠居くんは犯人じゃないとは思うよ」
 それを聞いて、笠居が顔いっぱいの期待を篭めて南雲を見上げる。とはいえ、当の南雲はつれないもので、虚空をぼんやりと眺めるばかりであったけれど。
 八束は「犯人じゃない」という南雲の言葉を噛み締めながら、改めて問い直す。
「根拠はありますか?」
「ノー根拠ではないよ。まだ、今回の出来事を丸々は説明できないけど」
「わかりました。現在の南雲さんの考えを聞かせていただけますか」
 八束が身を乗り出すと、南雲は「んー」とこめかみの辺りをこりこり掻きながら喋り始める。
「八束もわかると思うけど、笠居くんが河童を盗んだ犯人だと仮定するなら、笠居くんの供述には嘘があるってことだ」
「はい、その通りです。河童が家の前に落ちていた、という前提がそもそも嘘であることになります。……やはり、南雲さんも違和感がありますか」
「違和感もあるけど、笠居くんの話で一番愉快なのは、現実に、落ちてた河童を神社に持ち込んじゃったことだろ。犯人だったら絶対やらないよ、そんなアホなこと」
 言われてみれば、あまりにもシンプルな話であった。シンプルすぎて、逆に何か裏があるのではないかと考えすぎていた部分でもある。ただ、厳然たる事実として笠居が河童のミイラを神社に持ち込んでいることだけは、確かなのだ。
「逆に犯人であるとするなら、犯人とバレる覚悟を決めてでも先輩に河童を返すだけの理由が必要なわけだ。でも、その理由は今のところ見当たらないでしょ」
「そう、ですね」
 単純に情報が足らないという可能性もある。ただ、考えれば考えるほど、笠居が犯人ではありえない、という考えの方が強くなってくる。
 とはいえ、まだ仮定の段階だ。全ての情報が揃うまでは、考えの一つとして頭の片隅に置いておくことにする。
「あと、笠居くんが犯人であろうがなかろうが、確認が必要なんだよな」
 南雲はちらりと笠居に視線をやる。笠居は「何です?」と怪訝な顔をする。
「あんた、神社から河童がいなくなってたってこと、知ってた?」
「いやぁ、そんなの知るわけないじゃないですかぁ! だから本当にびっくりしたんですよ、ミイラが神社のものだって聞いて」
 そう訴える笠居の様子からは、嘘をついているようには見えない。が、八束の見立ては大体において当てにならないことは、八束自身が一番よく知っているので、印象で判断してはいけないと己によくよく言い聞かせる。
 南雲は感情が全く伝わってこない仏頂面で笠居の言葉を受け止めて、一拍置いて「やっぱりそうだよね」と己のつるりとした頭を撫ぜた。
「うん、そうじゃないとおかしい。笠居くんは正しいよ。河童が消えたことは、菊平先輩が隠してたんだから。俺たちと、菊平先輩くらいしか知らないはずだ」
 ――あと、知っている人間がいるなら、犯人くらいだろうね。
 ほとんど囁くように、南雲の薄い唇が動く。それで、八束もやっと思考が南雲の考えに追いついた。
「なるほど……。笠居さんは、神社から河童が消えていたことを知らなかった。だからこそ、河童のミイラに詳しいであろう、神主さんのところに持ち込んだんですね。それがまさしく神社の河童であるとは知らず」
「で、河童が消えて気が立ってた先輩にめっちゃ怒られて今に至る」
 笠居の今日の動きに関しては、何となく把握ができた。何故神社に河童を持ち込んだのか、という問題も、あくまで想定ではあるが納得のできる理由である。
 南雲は相変わらず視線を空に逃がしたまま、手首に下げたコンビニ袋からチロルチョコを補充する。
「いやまあ、笠居くんが嘘吐きじゃない証拠もないけどね。ほら、嘘を誤魔化すために嘘ついてくうちに、どんどん面白いこと言い出すタイプかもしれないじゃん?」
「南雲さんは自分のこと何だと思ってるんですかねぇ」
「さあね」
 笠居のじと目をあっさりといなす南雲の内心は相変わらず計り知れない。笠居に対して、どんな感情を抱いているのかも、頭の先から顎の先まで土気色の面から見出すことはできないのだ。
 きっと、南雲の内心を計れなかったのは笠居も同様だったのだろう。どこか不安げな表情で南雲を見やり、そして八束にそっと耳打ちしてくる。
「……南雲さんって、いつもこんな感じなんですかね?」
「はい。遺憾ながらいつも通りです。でも、今日は比較的機嫌はいい方だと思いますよ」
 仕事の話を振る時よりよっぽど反応はいいから、機嫌は悪くないはずだ。少々意地悪な物言いは、彼の性質なので気にしても仕方ない、と思うことにしている。
 ただ、初めて――の割にはある程度知っている風でもあるが――南雲とやり取りを交わす笠居にとっては、南雲の見かけ上の恐ろしさと反応の薄さは十分な脅威なのだろう。だから、不思議そうな顔をして八束に問いかけてくる。
「いやぁ、よくわかりますね。八束さんは、南雲さんとはどのくらいの付き合いなんです? やっぱりそれなりに長いんで?」
「わたしが待盾署に転属になってからなので、一ヶ月ほどになります」
「一ヶ月であの強面に慣れるのはすごいですねぇ……」
 笠居は本気で感心しているようで、何だか妙にくすぐったい。
 もはや八束も笠居も声を全く落としていないが、話が聞こえているはずの南雲は特に気を害した様子でもない。西からの日差しが眩しいのか少し目を細めて、チョコをもしゃもしゃ咀嚼しているところを見るに、話に積極的に加わる気もないようだ。南雲のマイペースさはいつものことながら、もう少しばかり愛想というものを見せた方がよいのではないか。八束がいつも冷や冷やしていることに気づいているのだろうか。
 考えたところで、南雲の態度が改善するわけがないのは八束が一番よくわかっていたので、意識を切り替え、この機会に一つ気になっていたことを笠居に問うてみることにした。
「そういえば、笠居さんは南雲さんとお知り合いなのですか? 先ほど、少しだけ南雲さんのことをご存知であるかのようなお話をされていたと思うのですが」
 すると、笠居は露骨に困った顔をした。もしかして、聞いてはいけないことだったのだろうか、と思っていると、頭上から声が降ってきた。
「笠居くんは、どうも俺のこと調べてたみたいなんだよね。物好きだよねえ」
「南雲さんのことを、ですか……? 笠居さんは、オカルト系の雑誌の記者さんですよね。南雲さん、何かオカルトに関わっていたことがあるのです?」
「今まさに」
 南雲は飄々と言い放つ。――確かに、南雲の言うとおり、八束と南雲はオカルトと否応なく関わる秘策であり、今まさに河童というオカルトの申し子を相手にしているわけだが。八束が言いたいのはそういうことではない。
 むっとして頬を膨らませていると、南雲はすぐに肩を竦めて言う。
「っていうのは冗談として、八束が来る前にちょっとね」
 ちょっと、という曖昧な言葉には引っかかるものがあった。ただ、何となく。本当に何となくだが、南雲にそれ以上の話を聞くのは躊躇われた。
 プライベートな話だから詮索しないでくれると嬉しい、という南雲の言葉が、頭の中に蘇る。直接的な拒絶ではないけれど、普段は全く感じられない壁のようなものを、その鋭い視線の奥に感じずにはいられなかったのだ。
 妙なもどかしさを感じていたその時、笠居が声を上げた。
「あ、こちらが自分の家です。家って言ってもアパートですけど」
 その一言で、八束の全身を支配していた呪縛が解けた。南雲についての疑問も一旦は横に置いて、八束は目の前に建つアパートに意識を向ける。
 見たところ築三十年くらいと思しき、二階建てのアパートだ。そのうちの一階の最も東側にある一室が、笠居の今の住居であるようだ。
「河童のミイラは、ここに置いてありましてね」
 笠居が指したのは扉のすぐ手前。ただ、扉にはぶつからないように、少しだけずれた位置に置いてあったらしい。
「……紙袋が突然置いてあって、驚いたり、疑ったりはしなかったんですか?」
 知らない相手からの贈り物とあっては、警戒して当然であろう。そう考えはしたのだが。
「うち、時々ご近所さんが余った野菜とか置いてってくれるから、今回もそれかなと思って特に疑わなかったんですよねぇ」
 その言葉に、八束は思わず納得してしまった。
 八束も現在は市内の安アパートに暮らしていて、よく大家さんや隣人の料理好きな大学生などが、差し入れを持ってきてくれるのだ。どうも、八束の食生活を心配した南雲が根回しした結果らしいのだが、何だかんだで助かっているのは確かだ。八束が不在の時は、メモつきでタッパーが玄関の扉にぶら下げられていることも多い。
 つまり、笠居が河童のミイラを受け取ったのも、普段の行動の延長でしかない。
 内気そうな容貌に反し、ご近所づきあいはすこぶる良好のようだ。暮らしやすさという点では大切なことだが、今回ばかりはそれが笠居にとって悪い方向に働いてしまったのが悲しいところではある。
「でも、中に入ってたのが河童のミイラだったものだから、本当にびっくりしてしまいまして。一応、いつも差し入れしてくれる人たちには聞いたんですよ、この紙袋は誰が持ってきたのかって。でも、誰も知らなかったんですよねぇ」
「なるほど。……今から、もう少し、アパートの人たちに、この紙袋が置かれるまでの状況を細かく聞いてみたいのですが、ご協力お願いしてもよろしいでしょうか」
 流石に、スーツ姿の八束と南雲だけが突然訪問しては、警察であるかどうかを抜きにしても、確実に住人に怯えられてしまう。何しろ、一見中学生にしか見えない女と、ヤのつく自由業にしか見えない男の組み合わせだ。強行犯係の先輩が「組長が溺愛してる孫娘とそのボディーガード」と評したのを、「センスあるよね」と南雲が絶賛してたのは記憶に新しい。
 というわけで、アパートの住人への質問は、主に笠居に委ねられた。
 後ろに立って話の内容を聞く八束と南雲に不審の目を向けられることは変わりなかったが、それでも、相手が笠居ということもあって、かなりスムーズに情報を集めることはできた。
 そのほとんどは、既に笠居から聞いた話であり、紙袋を置いた人物の手がかりになりそうなものは何一つなかったのだが。
 ――ただ、一人だけ。
 紙袋を置いた人物はわからないまでも、この近くで見慣れないものを見たという人物がいた。アパートの二階、西側の部屋に住む女性の証言である。
「そう、朝型だったと思うわ。あそこの角に、珍しい車が停まってたのよねえ」
 珍しい、車。
 その言葉に、つい最近目にしたものが浮かんでくる。
「何か、やな予感がするな」
 ぼそりと、南雲が呟いた。
 実のところ、八束もそれは感じていた。普段は予感というものを信用しない身であるし、そもそもの感覚が鈍いことに定評もある。そんな八束でも、次に来る言葉だけは、はっきりとわかってしまったのだから。
「――真っ黒な、すっごく高そうな車だったのよ」