03:ナインライヴズ・ツインテール(7)
結局、昨日は八束と共に猫が被害に遭ったという場所をいくつか見て回ったが、何一つ成果はないまま終わった。正直なところ、あまり期待はしていなかった。他の課が徹底的に調べてわからなかったことが、自分たちにわかるとも思えなかったから。
それでも、自分の足で現場を回っておいたこと、それ自体は決して無駄ではなかったとも思っている。
八束と共に、たい焼きを抱えて歩き回った結果、事件が起こっている範囲はそこまで広くはないということを改めて確認できた。それこそ、八束と南雲が全てのポイントを歩き回ったところで、一時間もかからない範囲だ。
そのため、南雲は、犯人が複数という線は少ないのではないかと見ている。そして、おそらくはこの地域の人間であるということ。猫が集まるような場所を狙うというのは、特定の人間を狙うよりよっぽど、その場所をあらかじめ知っていないと無理だろうから。
――というようなことを、南雲は、ちらちらと電灯の瞬く夜の公園で語っていた。
もちろん、南雲を呼び出したのは、南雲に猫の毒殺未遂事件の調査を依頼したかの老婦人である。と言っても、実際に老婦人が声をかけてきたわけではない。待盾署からの帰り道、見慣れぬ三毛猫がまるでこちらを誘うかのように見つめていたので、誘われるがままにそちらについていったところ、警察署に程近いこの公園に入っていって、そこに老婦人が待ち構えていた、というわけだ。
駅前で大量に取得した、この近所で建設中のタワーマンションの広告が入ったポケットティッシュで鼻をかむ。ついでに、もう一枚でしきりにかゆみを訴える目をごしごしと擦っておいた。あくまで気休めに過ぎないわけだが。
目も鼻もぐちゃぐちゃで、かなりみっともない顔をしているはずだが、横に座る老婦人はもうそれが南雲にとっての通常運行であることをわかってくれているらしい。ほんわかとした微笑みで、ぐずぐず鼻をかみ続ける南雲を見守ってくれていた。
油断をすれば水っ洟が垂れてくる鼻をティッシュで押さえたまま、南雲は老婦人に眼鏡越しの視線を向ける。
「今のところわかってるのはその程度なんすけど、何かそちらさんでわかったことってあります?」
質問に対し、老婦人は形のよい眉を少しばかりハの字にしてみせる。
「私の方でも調べてみたのだけど、犯人の特定には至ってないの、ごめんなさい。遠目に見かけた、って言い張る子もいたのだけど、何しろ、ほとんどの子は人間の顔の区別がつかないから、特徴を聞いても要領を得なくて」
「ああー……、そっすね、そんなもんっすよね」
なるほど、例えば同じような模様の猫を目の前に並べられて、翌日、どれがどの子だったかを当てろ、などと言われたら、どれだけ猫が好きな南雲であっても困惑する。しかも、人間は猫と違って毛皮の代わりに服を着る生物であり、翌日はどんな色や模様をしているのかもわからないのだ。区別のつけ方がわからない以上は要領を得ないのも当然だ。目にしたもの全てを記憶する八束のような存在が、例外中の例外なのだから。
とはいえ、もう少しそちらに進展があると思っていただけに、内心で溜息をつきつつ、鼻をかむ。水っ洟は未だ収まる様子を見せないし、目のかゆみも増すばかりな辺り、猫アレルギー恐るべしである。
「あ、でもね。一つ、気にかかることがあって」
「あー、何すか?」
「並行して、あなたから頼まれたことを調べていたんだけれど」
それはありがとうございます、と南雲は素直に剃り上げた頭を下げる。南雲はひとでなしを好いてはいないが、その一方で人間の最低限の常識を理解しようとしているひとでなしに対しては、こちらも礼儀で応じるべきであると思っている。
南雲のひとでなし嫌いの根は深いものの、ひとでなしの全てが憎むべきものというわけではない、という至極当然の事実がわからないほど、南雲も子供ではなかったから。
老婦人がそんな南雲をどう思っているのかは知らないが、目を糸のように細めた顔で、そっと囁く。
「あなたの妹さん、もしかしたら、今回の事件に関わっているかもしれない」
「何、ですって?」
思わず、上げた声が上ずってしまったことに気づいて、慌てて口を――押さえるまでもなかった。最初から、手にしたティッシュで鼻から口にかけてを覆っていたのだから。
「詳しいことはまだよくわからないんだけど、今日一日、あなたの妹さんを見ていたら、妹さんの行動範囲が、事件が起こった場所と一致しているの」
「……それは、」
確かに、そうかもしれない。例の事件が起こった場所は、待盾署の周辺から、多少距離はあるものの、十分歩いて行くことが可能な八束の住むアパートの辺りまでだ。つまり、待盾署の近くに住む南雲の行動半径と同じということで、それは同じ家に住む真の足取りにも重なりうるということを意味する。
その上、八束が住むアパートの近くには真が通う大学が位置している。あのアパートは、その入居者のほとんどが大学生という、ほとんど学生寮のようなものなのだ。
事件現場が南雲の家から大学まで、と考えれば、確かにその可能性が否定できないことは、わかる。わかる、のだが。
「とはいえ、それだけで、真が――妹が、犯人だって決め付けることは」
「ええ、犯人とは言ってないわ。私も、そうとは思ってない」
老婦人があっさり言い切ったことで、南雲は「は?」と顎を落とす。一瞬、めちゃくちゃ緊張したのが馬鹿みたいだと思ったが、しかし犯人でないと言われても「関係者」であることを否定されたわけではないのだ、と一瞬緩みかけた意識を引き締める。
「では、一体、何故俺の妹が事件に関係があると?」
「今はまだ、何一つ確信はないの。だから、あなたに、言っていいものかしら。それに」
そこで、老婦人は意味ありげに口を閉ざす。それだけで、南雲にも老婦人の言わんとしていることはわかった。
南雲が老婦人に、猫の毒殺未遂事件の調査の見返りとして望んだのは「真が何か悩みを抱えているようなら、その悩みを解き明かして、解決してやってほしい」ということだった。これはあくまで南雲の働きに対する「見返り」であり、事件にピリオドを打たなければ、叶えられることのない話なのだ。
だから、何一つ事件の真相を掴めていない自分が、老婦人から真についての情報を聞き出すというのが釣り合わない、ということはわかっている。
だが。
「確かに、それは、今の俺が聞くべきことじゃないのかもしれません。しかし、もし、今すぐに解決しなければ手遅れにになるようなことであるなら、後でわかったところで遅すぎるのです。だから、どうか、わかっていることだけでも、教えていただけませんか」
早口で言いつのりながらも、頭の冷静な部分では「何を言っているのだ」と冷めた視線を投げかけてくる自分がいる。こんな言葉、今更にすぎる。今の今まで、自分は、妹のために何をしてきたというのか、と。
それでも、それでも――。
じりじりと、頭の奥が痛むような感覚に囚われていると、老婦人はふと、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ。あなたの妹さんは、事件には関わっているかもしれないけれど、危険な状態にあるわけではないということだけは、わかるから」
「しかし……!」
「あれ、南雲さん?」
突然、聞きなれた声が南雲の意識に滑り込んできて、はっとしてそちらに顔を向ける。 すると、公園の入り口で、この近くのスーパーの買い物袋を提げた八束が、相変わらずやたら姿勢のよい立ち姿でこちらを見ていた。
――タイミングが悪いにもほどがあるぞ、八束。
今度こそ、リアルに舌打ちをしてしまったが、せめて、ティッシュがその音を吸収してくれることを願うしかない。
ぽてぽてと、豆柴を髣髴とさせる歩き方でこちらにやってきた八束は、ベンチに並んで腰掛けていた老婦人の存在に、その時初めて気づいたようだった。ちらちらと瞬く明かりの下、ぺこりと頭を下げる。
「あ、お話中でしたか、すみません」
流石に、何も知らない八束を前にしてひとでなしとの話を続ける気にはなれなくて、南雲は腹の底から息を吐き出して、八束の方に向き直る。
「どうしたの、八束? こんな時間にこんな場所ふらふらしてるなんて珍しいんじゃない?」
だらだらと対策室で時間を潰して過ごすのが日課の南雲に対し、生真面目な八束は終業時間ぴったりで仕事を終わらせて家へ帰っているはずで、その証拠に八束はスーツではなく、トレードマークの芋ジャー姿で、普段は下の方で軽く結ってあるだけの長い髪を、頭の上で縛ってポニーテールにしていた。
……というか、どう見ても学校指定とわかるジャージ姿でふらふらしているのは、それこそスーツ姿より色々と危ないのではないか、と思わなくもないのだが。主に未成年略取とか。八束は未成年ではないけれど。
八束は南雲の問いに対し、「こちらです」とぱんぱんに膨らんだレジ袋を持ち上げる。
「今朝のチラシで、この近くのスーパーでカロリーメイトが安売りだと知りまして」
「だから、カロリーメイトはやめろって言ってるじゃない」
「しかしですね、炊飯器や電子レンジを導入するまでは、加熱を必要とせずにカロリーを簡単に摂取できる手段は貴重なのです」
「早く買おうな、金が無いわけじゃないだろお前」
つい最近、浅めの鍋を購入し、隣人から差し入れられた惣菜をコンロで温めるという手段を覚えたらしいことは評価するが、やはり、最低限の食環境は整えなければ八束自身のためにもならないと思っている。
そんな二人のやり取りを、老婦人はくつくつとおかしそうに笑いながら聞いていた。それから、二人の会話が止んだところでするりと問いを差し込んでくる。
「お友達?」
そのくらい、ひとでなしの情報網でとっくのとうにわかっているだろうに、と胸の内で毒づきながらも、できる限り平静を装って応える。
「同僚ですよ。所謂相棒というやつです」
「あら、そうなの。仲がよさそうで何よりね」
ふわり、とほとんど音もなく立ち上がった老婦人は、南雲の耳元に、八束には聞こえないくらいの声で囁きかける。
「それじゃあ、また、何かがわかったら報告するわね」
まだ、聞きたかったことは聞き終えていないのだが、仕方なく「わかりました」と応じる。未だにもやもやとはしているが、今はただ「大丈夫」という言葉を信じるしかない。
老婦人は杖に体重をかけて立ち上がり、「それじゃあね」とおっとりとした微笑みを南雲と八束それぞれにむけて、そのまま公園から立ち去っていった。一礼した後、ぽかんとした表情で老婦人の背中を見送った八束は、その背中が闇にまぎれて見えなくなったところで、こくんと首を傾げた。
「ご親戚ですか?」
「んーにゃ、親戚じゃないよ。この辺のおばーちゃん」
何も間違ったことは言っていないはずだ。明らかに言葉が足りていない自覚はあるが。八束は「そうですか」と少しばかり不思議そうな顔をしながらも、南雲の言葉を素直に飲み込んだようだった。
「それでは、わたしもこれで失礼します」
「なら、送ってくよ」
「いえ、南雲さんのお手を煩わせるまでもありませんよ」
「お前がよくても、俺が心配なんだよ」
確認さえしなければ気にしなくても済むのだが、ジャージ姿のお嬢さんが夜道をふらふらしているところを目にしてしまった以上は、放っておけない。
その一方で、八束は南雲がそこまで真面目に心配しているとは思っていなかったようで、一瞬目をぱちくりさせたが、次の瞬間にはぱっと笑みを浮かべて言った。
「では、待盾署前のバス停までお願いしてもいいですか」
「もちろん」
確か、八束が住むアパートから、最寄のバス停まではそれほど遠くなかったはずだ。老婦人が去って、少しはマシな状態になった鼻をかみ、すっかり冷えてしまった腰を上げて八束を見ると、八束は黒目がちの目を真ん丸くして南雲を見上げていた。
「南雲さん、風邪ですか?」
「ううん、多分アレルギー」
「花粉症ですか? 今までは何とも無かったように見えましたが」
「うーん、何か色々引っかかるんだよねえ、俺」
猫アレルギー、と言ってしまうと特に猫の姿も見えないのに不審に思われるだろうなあ、と遠い目になりつつ、言葉を濁す。ただ、それが逆に八束の不安を誘ったらしい。必死に背伸びをして、南雲の顔を覗き込んでくる。
「一度、病院で検査してもらった方がいいのでは?」
「あー……、確かに、それはそうだな」
事実、アレルギーではないにせよ具合が悪い、ということは多々あるので、そろそろきちんと診てもらうべきなのかもしれない。それでも近頃は比較的調子がいいということで、通院をサボりがちではあったのだが。
そんなことをぽつぽつ喋りながら、ぽてぽてと、街頭の下、二人分の影を揺らして歩く。
八束はカロリーメイトがいっぱい入った袋を抱えて、南雲のことを心底心配している様子で体調の確認を取っていたが、不意に、はっとした様子で口を閉ざした。
一体どうしたのだろう、と思って、ゆったりと八束の視線の先を確認して、凍りつく。
そこには、
「……真」
二匹のダックスフントを連れた妹――真が、身を竦ませてこちらを見つめていた。