苺のショートケーキ

 アキは、キッチンに立ち尽くし、焼きあがったスポンジと、ボウルに入った生クリームを見つめていた。冷蔵庫の中には、粒の揃った真っ赤な苺が、白い丘の上に並べられる時を待っている。
 普段ならば、すぐにデコレーションに突入するところだが、今日だけは、じっと、もの言わぬそれらを見つめているばかりだった。
 早く作り始めなければ、今日が終わってしまう。これは、今日というこの日に、完成させなければ意味がないものだ。
 けれど。
 けれど――。
 出来上がりを待つケーキを前に、アキは、全てを、思い出していた。
 ナツと出会った日のこと。手作りのアップルパイをまた食べたいと言ってくれたこと。初めて二人きりでデートに出かけた日のこと。同棲を始めた日のこと。ナツのリクエストで菓子を作っては、二人で分けて食べた日々のこと。
 そして、今日この日に起こったこと、全てを。
「……そうだ」
 ぽつり、と。意識もしないまま、言葉が、唇からこぼれ落ちる。
「もう、帰らなきゃな」
 ――おかえりなさい、アキさん。
 そう言って出迎えるナツの笑顔、身体を抱きしめるあたたかな両腕、何もかもを受け入れてくれるキス。
 そうやって、迎えてもらえるのが当たり前だと思っていた。いや、どこかで当たり前ではないと気づいてはいたけれど、それを考えることを拒否していた。
 けれど、それも、今日で終わり。一つの決意と共に、拳を握り締めて。
「アキさん? 何してるの?」
 ひょこり、と隣の部屋からナツが顔を出す。普段と何も変わらない笑顔のナツに向かって、アキは、いつになく静かな声で言った。
「ナツ。手伝ってくれないかな」
 今まで、そんなことは一言も言ったことがなかった。ナツが「手伝わせてほしい」と言った時には喜んで手伝いを頼んだけれど、どうにもうまくいかないとわかったナツ自身が、それっきり何も言わなくなったのだ。だから、アキもナツに直接「手伝ってくれ」と言ったことはない。
 そして、この日も、そんなことは「言っていない」はずなのだ。
 けれど、アキは意を決して、その「ありえない」言葉を放った。
 ナツは驚きに目を丸くして、それから、ふ、と小さく息をついた。眩しさに目を細めるような微笑みは、涙を堪えているかのようだった。
「……全部、気づいたんだね、アキさん」
「ああ」
 そう、何もかもに気づいたし、その何もかもを認めたのだ。
 だから、アキは「来てくれ」とナツを手招く。ナツは、恐る恐るといった様子でキッチンに近づいてきて、小首を傾げる。
「わたし、一緒に作っていいの? アキさんの迷惑になっちゃうよ」
「ナツと作りたいんだ。一緒じゃないと、意味がないよ」
 アキは、笑った……と、思う。今の自分が上手く笑えるはずもなかったけれど、きっと、上手く笑えたと信じることにする。ナツが、寂しげに、でも確かに、晴れやかに笑ってくれたから。
 そんなナツに頷いて、そっと、ボウルを渡す。ナツは、泡だった生クリームを見下ろして、それから、アキを見上げた。
 見上げた、のだと、思う。
 アキの目は、その姿をほとんど捉えてはいなかった。目に溢れた涙が、ナツの姿を正しく映すことを、許してはくれなかった。眼鏡を上げて、袖で無理やり涙を拭いて。
 ――はじめよう。
 引きつった声で、そう、囁く。
 二人の、最後の日が、始まる。