イヤホンから流れてくるのは独特な旋律を持つスウィング・ワルツ。明けない空にかかる橙色の月を思い浮かべながら、さくさくと落ち葉を踏んで公園を歩いていく。
「あ、朱鷺サン!」
ひときわ大きな木の下に立っている少女が手を振っているのを見つけ、雫はイヤホンを外して小さく手を振り返す。秋らしいブラウンを中心としたスカートを穿いた小夜は、笑顔で雫に駆け寄ってきた。
「おはよう、小夜」
「遅いよ、そっちから誘っておいて」
ぷう、と頬を膨らませる小夜に対し、雫は「ごめんごめん」と返しながら火傷痕の残る顔にふと微笑を浮かべる。
小夜が退院してから二週間。初めは身体も随分弱ってしまっていたが、眠っていただけということもあってすぐに回復し、学校にも復帰していつも通りの生活を送り始めていた。一つだけ変わったことがあるとすれば、こうやって休日にもたまに顔を合わせるようになったこと、くらいだろうか。
距離感が変わったとは思わない。相変わらずお互いに深くは関わらず、踏み込もうともせず。ただ手の届く場所にいる、そんな関係。一度お互いの中身をさらけ出したからと言って、そう簡単に相手の懐にもぐりこめるほど、雫は……多分小夜も、器用ではない。
それでもいいと、雫は思う。全てがわかるわけではなくても、いざという時に手を握ってやれる。そういう関係はきっと、悪くない。
そして、これから会いに行く彼もまた、そういう相手なのだろうと思う。
「彼、今日出立なんだっけ」
「そう。顔くらいは出してやらないとな」
二人で、足を揃えて歩き出す。ふわりと可愛らしいスカートを揺らす小夜に対し、雫は細身のジーンズを穿き、ぱっと見る限り少年にも見えるような格好をしている。これで髪が短ければ本当に少年に見えたかもしれない。
「それにしても、驚いたなあ」
「何が」
「彼が『紅蓮』だったなんてなー。私、ずっと年上だと思ってた」
「ああ……」
それは、雫も驚かなかったわけではない。その事実を緑野から聞いたときも、すぐには『紅蓮』と遼太郎が結びつかなかったのだから。ただ、今になれば何となく、『ゲーム』の中で見たあの青年と遼太郎が同じものであることが納得できる。
小夜は雫よりも一歩前に出て、葉を踏む音を確かめるようにゆっくりと足を進めながら言う。
「紅蓮って、ゲームやる人たちの中では結構有名なんだよ」
「そうだったのか。知らなかった」
「私が仲間になったのも、紅蓮だったらクリア方法知ってるかなって思ったからだし」
――ホント、それだけだったのになあ。
小夜はどこか懐かしむような顔で空を見上げる。雫は、『ゲーム』をやっていた頃の小夜を知らない。『ルフラン』という名前を使っているのは知っていたけれど、それ以上は、何も。
唯一知っていることと言えば、それこそ紅蓮とサリエルから聞いた話だけだ。
「楽しかったのか?」
何となく、問うてみる。小夜は雫を振り返って、にっと笑う。いつもは夕焼けの橙色の光の中で浮かべていた笑顔を、青い空の下で輝かせる。
「もちろん。そうじゃなければ、一緒にはいなかったよ」
「そうだな……私も、楽しかったよ」
そして、これからはきっと、もっと楽しくなる。
無邪気な笑顔を向ける少年を脳裏に思い描き、その手の感覚を思い浮かべながら手を握り締める。これからは簡単に手の届かない場所に行ってしまうだろうが、別れじゃないとわかっているから、不安じゃない。
すると、くすくすと笑いながら、小夜が冗談めいた口調で言った。
「もう、妬けちゃうなあ」
「は? 何がだ?」
「こっちの話。さ、急ごう!」
小夜に手を引かれて、雫はつられて一歩を踏み出す。
深まる秋の空気の中、二人の少女は笑いあいながら駆け出した。
* * *
その頃、遼太郎は中庭のベンチに腰掛けて空を見上げていた。
ずっと不満だった、切り取られた青い空。
しかしこの空を見るのも今日が最後だと思うと大切なものに思えてくるから不思議だ。
「よう、遼太郎」
すっかり聞きなれてしまった声に、ゆっくりとそちらを向く。建物の方から歩いてきたのは、相変わらず地味なスーツ姿の緑野だった。
「もうすぐ出発だぞ」
「はい。あの、本当にありがとうございます」
それは聞き飽きた、とばかりに緑野は眉を寄せてひらひらと手を振る。それでも遼太郎は礼を言わずにはいられなかった。
『ゲーム』の事件が一段落した後、緑野は遼太郎のために色々と便宜を図ったのだ。自分はカミサマみたいな魔法使いではないが、お前の夢に近づくための協力くらいはしてやると言って。
緑野は即座に遼太郎の病状について確認し、完治のためには手術が必要だからといって設備の整った病院を手配し、あっという間に手術のための費用までも揃えてみせたのだ。緑野の手際のよさは、下手をするとカミサマなんかよりもよっぽど神がかっていたかもしれない。
「お前の家族を脅すのはなかなか楽しかったがな」
資金調達について語る時には、緑野も不気味な三白眼を細めてニヤリと笑ったものだった。あの薄情極まりない家族に悲鳴を上げさせ、手術費用を分捕ったのだろうと想像してみると不謹慎ながらこちらまでちょっぴり愉快な気分になれた。
そして、今日が新しい病院への出立の日。
もちろん、全てが終わればそれから先のことは自分で何とかしなくてはならない。家族は頼りにならないとわかりきっているのだ、正直に言えば先の見えない未来を恐れていないわけではない。
ただ、今なら不安でも胸を張って立っていられる。緑野は心から自分のことを心配してくれているし、しばらく会えなくなったとしてもこの手に残る温もりが自分を支えてくれる。
手を握って、開いて。
遼太郎は前に立つ緑野を見上げる。
「でも、どうしてここまでしてくれるんですか?」
それが遼太郎には不思議でたまらなかった。確かに緑野は『ゲーム』の製作者であり遼太郎は『ゲーム』に関わった人間だ。ただ、それ以上でも以下でもない。遼太郎が入院し続けている理由に何ら関係ないのに、ここまでする理由が遼太郎にはわからない。
すると、緑野はふう、と大げさに溜息をついて苦笑を浮かべる。
「何、単なる意地だ」
「意地、ですか?」
「お前に、夢から覚めた幸せを見せてやろうと思ったんだよ」
言って、視線を逸らす。何故かちょっとだけ気まずそうに。
「あれだけ覚めろって説教した奴が、幸せな現実を示せないのは悔しいだろ」
――ああ、なるほど。
遼太郎は合点して、緑野にいたずらっぽい笑みを返す。
「作ったキャラかと思ってましたけど、性格が捻くれてるのは素なんですね」
「うるせえ」
そっぽを向いたまま、緑野はもごもごと口を動かす。
「正直、お前には感謝してんだよ。俺は、奴の質問に答えられなかったからな」
奴というのはきっと、カミサマのこと。そして質問というのは……
「夢の話、ですか」
「ああ。アイツはずっと考えてたんだ。夢が何なのか。何故夢は覚めるのか。覚めなきゃならないのか。俺は偉そうなことを言いながら、そんな簡単なことも答えられなかった」
再びの溜息が、風の中に溶けて消える。
カミサマは、夢を知らなかった。夢に憧れ、しかし実際にはどのようなものなのか全くわかっていなかった。夢を見て幸せになれるのならば、何故それを永遠にしないのか。その問いを形にしたのが『夢を叶えるゲーム』だったのかもしれない。
そして、『ゲーム』をクリアし、なおかつ夢から覚めた自分だけがカミサマと言葉を交わすことができたわけだが……
「僕も、答えられてはいませんよ」
遼太郎ははっきりとは答えを示していない。これから自分も答えを探すのだといって、手を差し伸べただけ。だが、緑野は小さく頷いて遼太郎に微笑みかける。
「いいんだよ。アイツは納得した。それでいい」
緑野はそれ以上語らなかった。唯一カミサマについて正確なことを知るはずの緑野が語らない以上、遼太郎が知るべきことでもないのかもしれない。
ただ、一つだけ。
遼太郎も緑野に語っていないことがある。
『ゲーム』の中で見た空色の少女のことだ。
カミサマを名乗るあの少女は、夢は覚めなければならないことを知っていた。知っていても理解できなかったからあの『ゲーム』を操っていたのだろうが、もしかすると彼女はどこかで気づいていたのではないだろうか。
夢の先に行ける、可能性に。
だから、何度も何度も、カミサマと同じ顔をした薄青の少女は自分を呼んでいた。目を覚ませと訴えて、その先を見せようとしていたのかもしれない。
誰かに夢の先の存在を、示してもらいたかったのかもしれない。
どれもこれも、想像にすぎないけれど。
「……どうした?」
「いえ、何でもないです」
首を軽く振って、もう一度空を見上げる。切り取られた空を横切るのは、真っ白な飛行機雲。爽やかな空気を吸って、吐いて。
明るい声が、こちらを呼んでいるのに気づく。
「ああ、お姫様が来たな……や、あれはむしろ王子か?」
緑野の言葉に、遼太郎は思わず笑ってしまった。堪えきれない笑いをこぼしながら、視線を戻してやってくる二つの影を認める。
自分が夢見た未来そのものである雫と小夜が、遼太郎の名前を呼んで手を振っている。遼太郎はベンチから立ち上がって、大切な友達に向かって精一杯腕を振り返す。
青い空の下、笑顔で。
そんな新しい夢が、今ここから始まろうとしていた。
シトラスムーン・ドリミンガール