レベンタートの妖精使い

空の章/風の生まれる場所

 レベンタートの妖精使いは、途方に暮れていた。
「はー……ねえわー……」
 本日何度目かもわからぬため息を漏らし、窓の外を見やる。外には、そりゃあもう色んなものを通り越して笑えてくるほどの強風が吹き荒れていた。ごうごうという音が辺り構わず鳴り響き、立ち並ぶ木々など今にも折れそうなほどにしなっている。
 これでは、船も飛空艇も出せない。旅の中継点として一日か二日ほど滞在しようと思ったのだが、この風のせいで既に彼は一週間ほど足止めをくらう羽目になっていた。
 出来ることもなく食堂でぐだぐだしている彼の呟きを聞きつけ、宿の主人はからからと笑う。
「まあ、こればかりは自然現象だからなあ。仕方ないさ、旅の人。もう数日すりゃあ、ぱたっと止むさ」
「自然現象、なあ……」
 何とも納得のいかない表情で、妖精使いは再び窓の外に目を戻す。普通なら目に見えない「風」も、妖精使いの目にかかれば空気の妖精が好き勝手に踊り狂っているように見える。その様子は、正直彼の目から見ても尋常ではなかった。普通ならばもう少し、妖精の間にも独特の秩序のようなものが見えるものだが、これでは秩序も何もあったものじゃない。
 だが、宿の主人に言わせて見れば、数日に渡って続く強風はこの時期特有のものだという。故に、この時期が近づくと町の人間は必要なものを買い込み、各々の家に籠もるのだという。本当に、妖精使いがこの時期に来たのは不運だったと主人はおかしそうに言ってのける。
 とすると、ここの妖精にも一定の決まりごとがあるのだろうか。妖精に話を聞いてみようにも、この様子じゃまず自分の声を聞き届けてもらえるとも思えないが。
 宿の主人も、彼の視線を追うかのように窓の外に視線を向けて、言う。
「それにしても、今年は随分と激しいなあ。風の海の王様がお怒りかな」
「風の海の王様?」
 聞き慣れない言葉に、妖精使いは主人の言葉をオウム返しにする。宿の主人は「ああ、君は旅の人だから知らないのか」とおかしそうに笑って、説明を付け加える。
「この町には昔、風の海を目指した男が住んでいたのさ」
「ああ……そりゃあ知ってるけど」
 事実、その噂を聞きつけて妖精使いはこの町に立ち寄ったのだから。
 風の海を目指した男、と言えば楽園ではただ一人のことを指す。
 何もかもを捨ててでも空を飛ぶことを目指し、人に『飛空艇』という名の翼を与えた男。魔道機関の基礎体系を確立した希代の天才『飛空偏執狂』シェル・B・ウェイヴ。
 妖精使いはテーブルの上に突っ伏して、唸る風の音をBGMに言う。
「奴さんも物好きだよな、こんな風の強い場所選んで船を飛ばそうとしたってことだよな?」
 記録が正しければシェル・B・ウェイヴはユーリス神聖国首都センツリーズの出身だ。「センツリーズ出身」と言っても身元が曖昧な孤児のため正確な出自はわからないのだが、センツリーズの神殿で育てられたと伝えられている。
 その後、仲間とともに各地を放浪した後にこの町にたどり着き、本格的に飛空艇の開発に着手したとされているが……
「いや、当時はこんな激しい嵐なんて全くと言っていいほどなかったんだそうだ。だがな、シェルが影追いの手に掛かって殺されてから、町に強い風が吹くようになった。彼が死んだこの時期に、な」
 そう、シェル・B・ウェイヴは最終的には異端研究者として、異端審問官『影追い』の手によって処刑されている。妖精使いがその当時のことを知っているわけではないが、シェルが生きていた時代は現在よりも遙かに「異端」の基準が厳しかったはずだ。現在では魔道の一種とされているものも異端と捉えられていたとまで言われている。
 故に、彼は楽園に魔道機関をもたらした天才であると同時に、敬虔なユーリス信者からは楽園に混沌をもたらした最大の異端研究者として今もなお忌まれ恐れられている存在である。
 とはいえ、シェルは周囲の視線など意にも介さず、自分の目的のために短い生を駆け抜けた。生涯彼の瞳が見つめていたのはただ一つ、自らの頭上に広がる風の海のみ。
 そしてシェルは最期の瞬間、処刑人の前でとても残念そうに、しかし笑顔でこう告げたという。
 
『空が、見えないな』
 
 空を求め続けた『飛空偏執狂』らしい辞世の言葉だ。あくまでこれも彼に関する数多い言い伝えの一つでしかないが、きっと事実だろうなと妖精使いは思っている。
 シェル・B・ウェイヴはどこまでも真っ直ぐすぎて、曲がることを知らなくて、それ故に人とは常に違う方向を向き続けていたような人間だ。各地に残された記録から言っても、「実際に会った」感想から言っても。
 ごうごうと、風が鳴る。
 それにしても、こいつがシェルの怒りだと伝えられているのか。妖精使いは不意におかしくなってくつくつと喉で笑った。
「……奴は、怒ってなんかいねえよ」
 宿の主人には聞こえないように、小声で呟く。
 確かにシェル・B・ウェイヴは感情的で激しやすく、嵐のような性格をしていたという。だが、死に際して笑っていたようなあの男が、今もなお怒っているとは思えない。あくまでそれはこの町に伝わる「言い伝え」に過ぎないのだ。
 本当のことを言うならば……
 ついと視線を窓に向ける。
 風は怒っているのではない、ただ「騒いでいる」のだ。まるで祭のごとく、無数の風が声を上げて笑いはしゃぎながら辺りを駆け回っている。
 そして、そんなお祭り騒ぎの中心で楽しげに笑う黒髪の男の姿を幻視して。妖精使いは苦笑を浮かべてもう一度だけ小さくため息をついた。