気づけば、彼は真っ白な世界に立っていた。
右も左も、それどころか上も下もわからない白い空間。自分は立っているのか、立っていると思いながら全く違う格好をしているのか、それすらわからない。辺りを見渡してみるも、入り口や出口に当たるものも見あたらないのだ。
白い世界を包むのは、耳がきんとするほどの静寂。
普通ならば恐ろしいとでも感じるのかもしれないが、不思議と彼は落ち着いた心持ちで真っ白な世界に立ち尽くしていた。
その時、唐突に静寂を切り裂いて声が響いた。
「よう、久しぶりだな」
彼はふとそちらに視線を向ける。すると、何も無いと思われた白い空間に明るい色が生まれていた。稲穂色の髪に、片目だけのアイス・グリーン。昔はあれほど「身を切るほどに冷たい」と思われた色も、今となっては優しい雪解けの色を湛えている……そう、彼は頭の片隅で思う。
青い衣を纏った氷の眼の男は、彼に向かってにやりと笑いかける。
「何だ、今日は泣いてねえのか、泣き虫」
「あん? 誰が泣き虫だったことがあんだよ」
彼はむっとして言い返す。だが、隻眼の男はけらけら笑うだけで取り合おうとしない。
「ははっ、実際に泣いてなくてもいつも泣きそうな顔してたじゃねえか。唇噛んで、歯ぁ食いしばってさ。ちょっと人より強がりなだけのガキだよ、お前は」
「……うるせえ」
否定は出来なくて、彼は照れを隠すようにそっぽを向く。そうでなくても、元より彼が人の目を見ているのを苦手としていることくらい、目の前の男もわかっているはずだ。
わかっていて、この男は彼の目をわざとらしく覗き込んでくるのだが。
そういうところは、相棒の『風』に似ているなと思う。『風』の顔は嫌というほど見ているからもう慣れっこになってしまったが、この男の目を見つめているのはやはり慣れない。吸い込まれそうな、金属質の緑色。透き通っていて、透き通りすぎていて、まるで作りもののような錯覚すら抱かせる瞳。
かつては、何よりも恐ろしかった瞳。
その瞳が、不意に笑みに崩れた。
「でも、よかったよ。ちょいと心配してたんだが、なかなか上手くやってるじゃねえか」
「はっ、俺は元々世渡りは下手じゃねえんでな。誰かさんと違ってさ」
誰かさん、と言われた男は「はは、言えてらあな」とおかしそうに笑う。少しくらいは不機嫌そうな顔をさせてみたいと思うが、何を言っても軽くあしらわれるだろうことも十分予測の範囲内だ。
敵わねえな、と彼は小さく息をつく。ついてから、絶対に問わなくてはならないことに気づいた。当たり前のように喋っていたが、自分が立っている場所も、不意に現れたこの男だって明らかに異常だ。
彼は曖昧な肉体の感覚を確かめるように、腕を組む。
「で、今更俺に何の用だよ、カミサマ」
カミサマ、と呼ばれた男は軽く肩を竦めてみせる。
「いや、ちょいとお前に渡しておきたいものがあってな」
言いながら男は不意に彼の手を取った。彼は反射的にびくりと体を震わせる。恐ろしい、そんな風に思う理由はないのに自然と体が強ばってしまう。流石に彼の反応とその理由にに気づいている男は苦笑を浮かべる。
「そんなに怯えんなよ」
「わ、悪ぃ」
「ま、怯えられんのも仕方ねえか、自業自得だ。だけど、これだけは渡しておきたかったんだ」
重ねられた手の中に何かがあるのに気づいて、彼はそっと手を開いてみる。
そこにあるのは、時計だった。手の平ですっぽり包み込めるほどのサイズの懐中時計。微かにくすんだ銀色の蓋を開けてみると、文字盤に開けられた覗き窓から無数の歯車が噛み合わさり針を動かしているのが見てとれる。
その中心にはめ込まれた小さな石の色は、光を含んだ海のアオ。
「……これ、は」
時計だ。まごうことなき時計。
だが、この男……カミサマが持つ『時計』には何よりも特別な意味がある。男はしっかり頷いて、彼の目を見据える。
光を含んだ海のアオを湛えた、彼の瞳を。
「そうだ。これが『お前の時間』だ」
「何で」
声は喉に引っかかって、上手く言葉にならない。だが彼の言いたいことを汲み取って男は笑いながら言葉を続ける。
「何でも何もねえよ。お前はここに立っている。この世界に生きてるじゃねえか」
だけど。
言いかけた彼の頭を男は乱暴に撫でる。ぐしゃぐしゃと、彼の髪を弄びながら男は笑う。笑い続ける。
「もうお前は作り物じゃねえだろ。誰の複製でもない」
時計を握りしめた手が、熱い。
彼の頭を撫でながら男は氷の色をした目を細めて、笑ってやる。それはとても穏やかで、全てを包み込むような温かな笑み。
「お前はお前自身の運命を生きろ、カイル・フローウェン。誰が何と言おうとも、俺様、世界律カレス・ピースメイカーが全てを許してやる」
「……る……」
「ん……」
「かーいる! ちょっと大丈夫?」
聞き慣れた声に、彼は目を開ける。目の前には、若葉の色をしたまん丸い双眸があった。いつの間にか白い空間とあの男の姿は消え去っていて、代わりに相棒の『風』が珍しく不安げな顔でこちらを見つめていた。
どうやら自分は、気づかないうちに草の上に倒れ込んでいたらしい。ゆっくりと体を起こして軽く頭を振ってみるが、特に異常は見られない。『風』は深々と安堵の息をついて言った。
「急に倒れるからびっくりしたよ。ホントに平気? 熱とかない? 逆に寒かったりしない?」
「ああ、大丈夫大丈夫」
ひらひらと手を振って返そうとして……手の中に何かを握り込んでいることに気づく。そっと開いてみれば、そこにはくすんだ銀の懐中時計があった。
『お前は、お前の運命を生きろ』
氷色の瞳が、記憶の奥底で笑う。
「あれ、それどうしたの? そんな時計持ってたっけ?」
「ん……まあな」
『風』の言葉には曖昧に返して、視線をある一点に向ける。
小さな丘の上に、ぽつりと置かれた石碑。雲間から射し込む光に照らされる、まだ新しい誰かの墓がそこにあった。そこに眠る一人の男の姿を脳裏に思い描きながら、彼は目を伏せて呟いた。
「……ありがとな」
やっと自らの足で立てたのだ。自分はこの場所で生きていく。最後まで生き抜いてみせる。
レベンタートの妖精使いは自分自身の時計を握りしめ、改めて心に誓う。
――俺はこの『楽園』で、誰でもない俺の物語を紡ごう。
レベンタートの妖精使い