レベンタートの妖精使い

海の章/竜王遊び

 ある日の、ある町の、とある酒場で。
 レベンタートの妖精使いは、眉根を寄せて目の前に置かれた色鮮やかに塗り分けられた立体的な盤面と、その上に並ぶ白と赤の駒を睨みつけていた。そして、妖精使いの正面に座る貴族然とした男は、妖精使いとは対照的に何処までも悠然と微笑んでいた。
 双竜砦――楽園では一般的な遊戯だ。「森」、「山」、「海」などいくつかの種類が存在する「戦場」を組み立てて作られた盤面に、「王」を頂点とした「軍」を模した駒を展開する。そして、一つ一つ特徴の違う駒を動かし、相手の「王」を取ることを目的とした、一対一の遊戯である。
 これが単なる遊戯なら、これほど頭を悩ませることも無いのだが。
 妖精使いはがしがしと頭をかいた。酒場に集った客からの、期待と逆らいがたい圧力に満ちた視線が背中に刺さる。当然だ、この一戦には妖精使いを含めたここに集う客、全ての金が賭けられているのだから。
 これは、所謂「賭け砦」なのだ。
 賭け事は得意な妖精使いだが、それはあくまで骨牌など――要は、イカサマが可能である遊戯――に限る。別段イカサマをしなくとも弱いわけではないのだが、勝とうと思うなら迷わず卑怯な技も使うのが妖精使いである。騙される方が悪いのだ。
 しかし、双竜砦は純粋な頭脳戦、得意の手妻は通用しない。
 思わず、溜息が漏れる。
 ただ、そもそもの原因は、自分がこの男に興味を持ってしまったという点にある。荒くれが集う場末の酒場には珍しい身なりの良い男だということもあったし、それでありながら妙に場慣れしているような態度も気になった。
 そして……何よりも、集う男たち相手に双竜砦を仕掛けては、見事な腕で相手を打ち負かし、有り金を全て奪っていく鮮やかな手際に見とれてしまったのだ。
 そこで、この男と目が合いさえしなければ。周囲の連中の、今にもこの男を殺しかねんばかりの負の情熱が、こちらに向けられさえしなければ。しかし、妖精使いは逃げられなかった。逃げる間もなくこの席に座らされ……今に、至る。
「もう、馬鹿だなあ。『双竜砦なんてやったことない』とでも言えばよかったのに」
 肩の上に舞う『風』が呆れた声を立てる。「まあなあ」と口の中で答えて、更に溜息。ただ、やれるか、と聞かれて「やれない」と答えることが出来ないのは、それこそ無駄で余計な男の矜持、と言う奴なのかもしれない。
「一応、勝負の前に確認させてくれ」
 妖精使いは低い声で言う。これは、目の前の男に、というよりは周りの連中に聞かせるための言葉だ。
「お前が勝ったら、俺の有り金全部持っていく。俺が勝ったら」
「私が今までに持っていったものは全部チャラにしてあげるよ。それに加えて、私の持ち金を全て君に差し上げる。問題ないね?」
 妖精使い的には大問題なのだが、周りの連中はぎらぎらとした目で頷くばかり。妖精使いにしか聞こえない『風』の「やれやれ」という声が、やけに耳に付いた。
「さあ、君が先手だよ」
 男は紅玉のような瞳を細めて、妖精使いの緊張など知ったこと無いと言わんばかりの軽い口調で言い放つ。
 さて、どうするか。
 双竜砦はそこまで複雑な遊戯ではない。難しくないからこそ、奥が深いのだ。勝てないまでも、どうすれば周囲の殺気立った連中を納得させる程度の勝負が出来るか、そんなちょっと消極的な考えを巡らせていた時、不意に頭上から声がかかった。
「面白そうなことやってんじゃん、羨ましい」
 ぱっと顔を上げると、ちょうど妖精使いの頭の上から盤面を覗き込むようにして、奇妙な影が立っていた。
 空と海の境を思わせる青色の法衣で全身を覆い、顔もフードでほとんど隠してしまっている。そのため、それ自体がまるで青い影法師のように見えなくも無い。フードから覗く薄い唇はニヤニヤと笑みを模り、至極愉快そうだ。
 わ、と『風』が驚きの声を上げる。妖精である『風』ですら、この影の存在に今まで気づかなかったのだ。
「……暇なのか、カミサマ」
 妖精使いは、そんな影の顔を見上げて呆れた声で呟いた。すると、カミサマと呼ばれた影はけたけたと笑って、酷くざらついた声で言った。
「暇なのよ、カミサマ」
 カミサマ。いつも妖精使いの側にいる『風』とは異なり、ごく稀に妖精使いの前に忽然と現れる「何か」だ。妖精と同じで普通の人には見えない。ただ妖精である『風』に言わせてみれば自分たちのような妖精とも全く異なる存在だという。
 故に、妖精使いはこの青い影を「カミサマ」と、楽園には無い音で呼ぶ。
 一体アイツは何と喋っているのだ、と周囲の人々の視線が微かに訝しむようなものに変わる。とはいえ、妖精使いが『レベンタートの妖精使い』であることは誰もが承知しているため、それ以上の追及は無い。
 相手の男にも『風』やカミサマの姿は見えないのだろう、少しだけ不思議そうに首を傾げている。
 そして、空気を読む、という素晴らしい言葉を知らないらしいカミサマは、妖精使いにしか聞こえないうきうきとした声で言った。
「困ってるなら、俺様が知恵貸そうか?」
「は? お前が? ……いや、そうか。お前は得意そうだな、こういうの」
「そうそう、なのに皆俺様と打つの嫌がるからさあ。な、この子超強いんだろ、勝負させろよ」
 ――そりゃ嫌だろ、未来が見えるカミサマと勝負するなんて。
 妖精使いは苦笑しつつも「ま、ありがたくお任せしようか」とカミサマに言って、それから相手に向き直る。
「悪い、ちょっと今ここに知り合いが来ててな。こいつ、すげえ双竜砦が得意だから勝負させろって言うんだが……代わりに打ってもらって構わんか?」
「へえ、それは面白そうだね。賭けの条件は変わらないけど、それでもいいなら構わないよ」
「ありがたい。じゃ、頼んだぜ、カミサマ」
「はいよ」
 言って、カミサマはろくに盤面を見ないまま、下手くそな歌を歌うように妖精使いに駒を動かす指示を与え始め――
 
 やがて、妖精使いの白い駒が、相手の赤い王を追い詰めた。
 
「おや、詰んでしまったね」
 相手が苦笑と共に「私の負けだ」と宣言する。その瞬間、固唾を呑んで盤面を見守っていた周囲の男共がわっと沸いた。妖精使いが顔を上げてカミサマを見ると、背の高い青い影はへらへらしながら言う。
「もう一手先を読まれてたら危なかったわあ。なかなか楽しかったぜ?」
「……って、こいつは言ってる」
 妖精使いは嫌々ながらもカミサマの言葉を相手に伝えると、相手は微かに肩を竦めた。
「いやいや、まるでこちらの手が完璧に見透かされてるようで、全く歯が立たなかったよ。それにしても、とても楽しい勝負だった」
 さて、負けは負けだからね、と立ち上がった男は、酒場の男たちから奪った金を遠慮なくばら撒いた。その瞬間、酒場はものすごい騒ぎになった。自分が失った分よりも多くの金を手に入れようと躍起になる愚かな男たちを横目に、妖精使いはぐったりと机の上に突っ伏す。
「あー、何か疲れた」
「君は、彼らの仲間には加わらないのかい?」
「別に金が欲しくてやってたわけじゃねえし」
 金なら、それこそイカサマ賭博でもすりゃいくらでも稼げるからさ、と呟くと、横に立っていたカミサマが嫌そうな顔をした。このカミサマ、ふざけた態度を取る割には妙なところで生真面目なのである。
 男はふっと笑うと、「それでは、君にはこれを」と胸のポケットから何かを取り出して、妖精使いの手に握らせた。妖精使いはそっと手を開き、そこに載せられたものを見た。
 『風』がわあ、と声を上げる。
「きれーい。これ、駒だよね」
 竜を模った駒……双竜砦の「王」だ。透き通った紅の石を切り出して作ったのだろうか、握ってみると見た目よりも重く感じられる。竜の姿は普通の駒よりもずっと細かく彫られていて、今にも動き出しそうだ。
「どの程度の価値があるかはわからないけど、珍しいものではあると思う。是非持っていってくれたまえ」
 男は机の脇に立てかけていた杖を手に立ち上がる。そして、優雅な足取りで靴音を鳴らしながら、なお騒然としている酒場から立ち去った。それがあまりに自然な所作だったため、妖精使いは引き止めることも忘れて呆然と見送ることしかできなかった。
「なーんか、変わった人だったね」
 『風』が首を捻って言ったことで、妖精使いもやっと我に返った。
「お金が欲しくて賭けしてるのかなーって思ったけど、負けたら簡単にばら撒いちゃうし。何でこんな賭け砦なんて仕掛けてたんだろ」
「ま、金持ちの高尚な暇つぶしだろうな」
 そう答えたのは妖精使いでなく、カミサマだった。
「蜃気楼閣の竜王様も、俺様に似て随分お暇と見える」
「確かに暇人のすること……って、ちょっと待て、竜王って!」
 カミサマはくつくつと声を漏らす。
「あれ、わかんなかった? あんな綺麗な赤い目をしてるのって、それこそ竜王の血族くらいでしょうに」
 存在しない都、裏切りの国、蜃気楼閣ドライグ。実際には海の底を行く機巧要塞であるドライグ王国を治めるのは、楽園の秘密を知る赤き瞳の一族『竜王』。そのくらいは、妖精使いも知っている。知っているが……
 カミサマは愉快そうな声を立てて笑いながら腕を組み、こつこつと細い顎を無骨な指で叩く。
「ま、元々黙って海の底に眠ってるようなお方じゃないもんねえ。それとも、竜王様が出張るだけの事件でも起こってるのかしらん」
 いや、そんなことはどうでもいい。
 それよりも、
 ――今の竜王って、確か「女」じゃなかったか。
 何処からどう見ても男にしか見えなかった遊び人――竜王の姿を思い返し、妖精使いはもう一度、手に握った王の駒を見つめてしまった。