レベンタートの妖精使い

海の章/大陸横断橋

 楽園は、広大な海の上に浮かぶ無数の島で出来ている。
 広大な陸地というものに欠ける環境だからだろう、移動手段はもっぱら船と飛空艇であり、陸上の乗り物の発達は著しく遅れている。
 だが、一時期世間を大いに賑わせた『エメス』の脅威も去った今、ユーリス神殿の立案でユーリス神聖国とライブラ共和国との間に巨大な橋をかけ、その上に魔道機関で走る巨大な列車を走らせようとしている。
 そして、今年の夏にはその工事も完了するという――
 レベンタートの妖精使いは、そんな他愛の無い話を垂れ流す魔石ラヂオの声に耳を傾け、その他の音を耳に入れないように心がける。
「……ですから、何が嫌なのですか?」
 それでも、耳に入ってきてしまうのは少女の声。もうそろそろ「女」と呼んでもいい年齢に差し掛かっているはずだが、鈴を鳴らすような透き通った声を聞く限りはやはり「少女」と表現する方がしっくり来る。
 妖精使いは「はーあ」と大げさに溜息をつくと、少女の方には目を向けないまま、肩を竦めてみせる。
「何も、嫌ってわけじゃねえよ。ただ、ばつが悪いって言ってるだけだ」
「なら、一緒に来てもいいじゃないですか」
「だーかーらー、行かないとは言ってねえだろ。今はそういう気分じゃねえ、って話」
 それじゃあ結局変わらないですよ、という少女の声を、妖精使いはわざと無視する。こんな進展の無いやり取りが、もう半刻近く続いている。妖精使いの横に浮かんでいる『風』は、ひとところに留まることを苦手とする風の妖精らしく、「あーきーたー」とじたばたしている。
 妖精使いとしても、こんな不毛な会話を延々と続けている気はない。なかなか飲みきれなかった甘ったるい果物ジュースを一気に飲み干すと、グラスを置いて立ち上がる。少女からは視線を外したまま。
「とにかく、お前の言うことを聞く気は無い。俺は、あくまで俺の好きなように動く。それが、結果的にお前の思う通りになるかもしれない……それでよしとしてくれよ」
「むう」
 少女は納得いかない、という声を上げる。まあ、それはそうだろうな、と妖精使いも微かに眉を寄せる。妖精使いの言葉は、「気が向かなければ絶対に少女の言うとおりにはしない」という意味でもある。
「どうして、そんなに頑ななのですか」
「言っただろ、ばつが悪いんだ。言い換えるならば、こそばゆいんだ。わかるか」
 言いながら、わかんねえだろうなあ、と妖精使いは嘆息する。妖精使いの想像通り、少女はもう一度「むう」と声を立てるが、今度の「むう」には疑問符が混ざっていた。
 わからないなら、わからないでいいのだ。その方が、妖精使いとしてはありがたい。
「じゃ、俺は行くぜ。またレベンタートまで迎えに来るなよ、頼むから」
「はい、それはしません。あなたは記憶喪失ですからね」
 ――そういうことに、しておいてあげます。
 少女は付け加えて、くすりとおかしそうに笑った。そこで、初めて妖精使いは少女を見た。
 少女は、ゆったりとした純白の法衣を揺らして、ヴェールの下から微かに覗く、鮮やかな色の瞳で妖精使いを見つめていた。身に纏った法衣は、ユーリス神殿の中でも高位の聖職者にのみ着ることが許されるもの、に似ている。似ている、というのはそれよりもずっと美しく豪華なつくりをしている、ということである。
 いくらここがユーリス神聖国首都センツリーズといえ、こんなごろつきが集まるような酒場に似合う人種ではないことくらいは一目瞭然。当然、客の視線は全て少女……そして、少女としつこく話を続けていた妖精使いに向けられている。
 妖精使いが席を立ったのは、この居心地の悪さに耐え切れなかったから、という理由も少なからずあった。
 全くしつこい奴だ、と妖精使いは思いながらも、自然と口元を緩めていた。誰の目も構うことなく、己の思うままに背筋を伸ばして立つこの少女を見ていると、ただただ面倒くさくてこそばゆくて、どうしてもぐだぐだと結論を先延ばしにしてしまっている煮え切らない自分が、酷くくだらなく思えた。
 だから。
「そうだな……夏になったら、考えてみる」
「本当ですか?」
 ぱっと少女が顔を輝かせる。妖精使いは「考えるだけだ」と口を尖らせて言ってから、ほんの少しだけ笑ってみせた。
「俺は詭弁を弄するし嘘だってつく。信用すんなよ」
「はい。でも、あなたが勝手に動くように、わたしも勝手に信じます」
「は、そうだな。そりゃあ確かにお前の自由だ」
 妖精使いは大げさに肩を竦めて、少女に背を向ける。酒場の扉を開けると、妖精使いの横をすり抜けて、白い法衣の男たちが「やっと見つけましたぞ!」 「何故こんなところにいらっしゃるのですか!」などと口々に言いながら少女の周りに群がった。そんな中、少女はけろっとした顔で妖精使いに手なんぞを振っていた。
 相変わらずのんきな奴。
 妖精使いは溜息をつき、通りに出た。やっとのことで外の空気に触れた『風』が「ぷはー」と息を付く。
「もう、息苦しいったらありゃしない! アンタもとっとと話つけなさいよ、ぶつぶつぐだぐだ、情けないなあ」
「あーあー、悪かったっつの」
 自覚しているだけに、『風』の言葉が胸に痛い。『風』はしばらく妖精使いの心を無自覚にえぐるような言葉を並べてみせていたが、彼女のいいところは言うだけ言えばすぐにいつもの調子に戻ることだ。やがて気が済んだのか、妖精使いの顔をまん丸の目で覗き込んで、小首を傾げてみせる。
「もしかしてあの子が、前に言ってた子? 突然レベンタートにやってきて、昔の仲間に会わせようとした、っていう」
「そ。ったく、忙しい身だってのにわざわざご苦労なこって」
 妖精使いは言いながら、振り返って通りの向こうを見た。そこに聳え立つのは、空に向かって伸びる世界樹を背景にした白亜の建物、ユーリス神殿の本殿である。もう少女の姿も、少女を迎えに来たのだろう聖職者たちの姿も何処にも見えなかったけれど……きっと、神殿に帰っていったのだな、ということくらいは想像がついた。
 『風』はふうん、といいながらも首を傾げる角度を深くする。
「何か、偉そな服着てたもんね。すごい子なんだ?」
「そうだな……今の楽園では、一番偉いかもしれねえな」
 そういう風には見えないし、実際あの少女はそういう柄でもないけれど。
 妖精使いはその事実がおかしくて、微かに唇を歪めてみせる。
「アイツはな、『架け橋』になるんだとさ」
「架け橋?」
「ああ。人と人が、下らんことで争わねえように。例えば『世界の始まり』とか『女神の嘘』とか、んな馬鹿馬鹿しいことを火種にした喧嘩を終わらせるために。アイツは、考えの違う連中との間の架け橋になるって決めて、神殿で仕事してるんだって言ってた」
 ほー、と『風』は感心半分、呆れ半分と取れる声を立てる。
「随分立派な心がけじゃん。アンタも見習えばいいのに」
「嫌だね、面倒くせえ」
 妖精使いはあっさりと『風』の言葉を却下した。もちろん、妖精使いがそういう人間だと言うことは百も承知の相棒だ、「そりゃそうだよね」と言って空へと舞い上がる。
「さて、と。次は何処に行くかな」
「ね、橋っていえば、さっきラヂオで言ってた橋でも見に行かない? あたし、遠目でしか見たことないからさあ」
 なるほど、それは面白そうだ。妖精使いは小さく頷き、『風』を伴って歩き出す。
 世界樹の方角から吹く香り高い風は、いつもより少しだけ早い春の到来を告げている。
 
 そう――きっと、夏もそう遠くない。