レベンタートの妖精使い

海の章/セント・エルモの火

「やあ、また会ったね……って、どうしたの?」
 見覚えのある旅人に声をかけられて、レベンタートの妖精使いは返事をする代わりに一つ、盛大な溜息を漏らした。どんよりとした、それどころかどす黒い空気を漂わせながら。声をかけた男も、ちょっとまずいところに来たなあという表情を隠しもしなかった。
 遅ればせながらどん引きされていることに気づいた妖精使いは、小さく首を振って答えることにした。
「ああ、悪い。実は連れと喧嘩してな」
 連れというのはもちろん『風』のことだ。普通の妖精使いと妖精の関係ならば妖精は契約主である妖精使いに絶対服従であり、「喧嘩」など起こりようもないが……あくまで彼と『風』の関係は「旅の道連れ」であり、それ以上でも以下でもない。
 その上、自分勝手で我の強い『風』と言葉だけ取れば乱暴な妖精使いである。一ヶ月に一度はささいなことで大喧嘩をして、『風』が何処かに消えてしまう。今回ばかりはこちらから探しに行くことなんてしないぞ、と決めた妖精使いだったが……流石に半月近く姿を見せないままでいられると、自分なんてどうでもよい存在なのだと突きつけられたようで、落ち込まずにはいられない。
 妖精使いは、言葉こそ乱暴だが、実際にはとてもナイーブな心の持ち主だ。
 ぽつりぽつりと語られる事情を聞いた旅人は、赤い目を細めて妖精使いの肩を優しく叩く。
「いいじゃないか、喧嘩するほど仲がいいっていうし」
「これでよく仲がいいなんて言えるな」
「腹を割って喧嘩できるだけいいさ。オレなんて、その機会も二度と巡ってこないからね」
 旅人は言って、苦いものを飲み込んだような表情で笑う。その視線は遥か遠く、澄み切った風の海の先を見つめているようで……
 妖精使いは、一瞬躊躇いこそしたが、はっきりと言葉を紡ぐ。
「死んだのか」
 すると、旅人はゆっくりとかぶりを振って、言った。
「殺したんだ」
 妖精使いは別段驚くこともなく、視線だけで旅人に話の続きを促す。それが旅人にとっては意外だったようで一瞬真紅の目を見開いたが、すぐに力ない笑みに戻り言葉を紡ぐ。
「と言っても、オレが直接手を下したわけじゃない。だけど、結果的にはオレのせいでそいつは死んだ」
「何故?」
「そうだな……当時の自分には大切な理由があって、どうしてもそいつには死んでもらわなきゃならないって、熱に浮かされたように思ってた。けれど、不思議だな。今ではその理由すら思い出せない」
 ただ、自分のせいでそいつは死んだ、その事実だけが胸に引っかかって離れずにいる。
 そう言って額を押さえて壁に寄りかかる男を、妖精使いは地面に座り込んだまま見上げていた。そのアクアマリンの瞳には同情の色も無ければ、嘲りの色も無い。それこそ凪いだ水面のごとくありのままに、赤い旅人を映しこんでいる。
「忘れてしまう程度の理由で殺されたそいつは、何を思ってたんだろう。そいつには、未来があった。夢があった。それを、オレは誰よりもよく知っていたはずなのに」
 それがわかるほどに、近しい存在だった――最低でも、自分はそう思っていた。
 妖精使いは、言葉を落とす男をただ見つめるばかり。言葉を放つことも、頷くこともせず、ただただ「聞いている」。
 旅人はそんな妖精使いの瞳を覗き込んで、我に返った。もしかすると、妖精使いの瞳の中に映しこまれた自分自身を見たのかもしれない。
「ごめん、こんな話をするつもりじゃなかったんだ。ただ……オレのようにならないためにも、きちんと相棒とは話をした方がいいよ。喧嘩するにしろ、仲直りするにしろ、自分の思いを伝えなければ、何も始まらない」
 ――そして、「終わる」ことも出来ない。
「オレみたいに、終わらないままの物語を、胸にしまい続けることになるよ」
 旅人はそう言って、寂しげに笑った。妖精使いはゆっくりと瞬きをしてから、立ち上がる。立ち上がっても、旅人の方が頭一つくらいは背が高かったため、「見上げる」ことには変わりなかったけれど。
「それは違うんじゃねえか」
 妖精使いは遠浅の瞳を細めて、言った。旅人は首を傾げて「何がだい?」と問う。
「上手く、言えねえけど。何もかも、何もかも。終わらせるのは必ず自分自身だろ」
 旅人から視線を逸らし、妖精使いは言葉のひとつひとつを区切って言う。
「出会いと違って、別れってのは何処までも一方的で勝手なもんだ。ここに立つ自分の視点からすれば、どんな形の別れであれ『相手が去った』ようにしか見えねえんだから」
 だから……本当の意味で物語を終わらせるのは、自分自身。
 それを『終わり』と定義できるかどうかにかかっているのではないか。
 妖精使いは言って空を仰ぐ。その仕草を見た男が、はっとした。その横顔を、何処かで見たことがあるような気がして。
「別に、終わらせないことを悪いと言うつもりもねえ。ただ、手前に関して言うならば、とっとと終わらせるに限るぜ」
「……えっ?」
 呆然とする旅人の声を遮るように、ざあ、と風が吹く。海の匂いを含んだ北の風。風の中で、妖精使いは笑みすら浮かべて真っ直ぐに旅人を見据える。その瞳の色は、先ほどまでの明るい遠浅の海ではなく――何処までも怜悧で、何処までも透き通った、氷河のアオ。
「百年も二百年もくだらねえ感傷に囚われてんじゃねえ、ってこった。死人に手前を縊る腕なんかねえ、己で己を縊ってんじゃねえか? 馬鹿馬鹿しい」
 高らかに放たれる声すらも、一瞬前までの妖精使いとは違う。
 それは、旅人の遠い記憶の中にある「誰か」の声。
「何はともあれ手前は生きてんだ。生き続けなきゃならねえんだ。それならとっとと賞味期限切れの物語なんて終わらせちまえ、そして」
 とん、と。
 妖精使いの手が、旅人の胸に触れる。男が見下ろすと、妖精使いは笑っていた。男の記憶のままに、何処までも自信に満ち溢れた笑みで。
「 『俺』が届かなかった未来を、その目に焼き付けてこい」
「まさか……君、は」
 旅人の声に、妖精使いは応えない。その代わりに、再び風が吹く。目を覆いたくなるほどに激しく、身を切るような風。けれど、何故だろう。その風の中で、高らかに笑う声が聞こえたような、気がした。
 やがて、風が収まると、妖精使いが「あ?」と首を傾げて旅人の顔を覗き込んだ。その瞳の色は、先刻までのアクアマリンの色に戻っている。
「俺、何か言ってたか?」
 呆然とする旅人の前で、妖精使いは目をぱちぱちさせながら軽く頭を振る。「最近、どうも調子がおかしくてな」と呟きながら。
「連れに言わせてみると、立ったまま寝てるとか、寝言言ってるとか。ったく、ぞっとしねえ」
「寝言……あれが?」
「あれって何だよ。俺、本当に変なこと言ってたんじゃねえだろな」
 妖精使いは半眼になって旅人に問う。旅人は、しばし驚きの表情で固まっていたが、不意に「あはは」と笑った。その表情はやけに晴れ晴れとしたもので、妖精使いは不思議そうな顔をする。
「何だ、急に陽気なツラになって」
「いや、君のおかげで目が覚めたよ。そっか、どんな物語でも幕を引くのはオレ自身か……」
 旅人は、真紅の髪を風に靡かせて微笑む。その瞳の向けられた先は、空。風が生まれる場所、そして風が還っていく場所。まるで、そこに昼の空にも一際明るく輝く星を見つけたような……妖精使いにこの男の心などわかるはずもなかったけれど、綺麗な線を描く横顔は、そんな表情に見えた。
 だから、妖精使いは仏頂面に微かな笑みを載せて言う。
「ま、今そういうツラが出来るなら、上出来なんじゃねえか? 俺はアンタの過去には興味ねえしな」
「はは、そんなもんかな。それにしても、君と話してると色々と驚かされるよ」
「それは、褒めてんのか……?」
 妖精使いは複雑な表情を浮かべて見せるが、旅人はただただ楽しげに笑うばかりだった。
 そうして、妖精使いは旅人と別れた。別れ際、旅人にこれから何処に行くのかと聞いてみると、旅人は『北へ』とだけ答えて、そのまま通りの向こうに消えていった。
 しばらく、人ごみの中でも目立つ紅の後姿を見つめていた妖精使いだったが、その姿が完全に見えなくなると、ふうと溜息をついて空を見上げる。
「さ、俺も目下の悩みを解決するか」
 そのためには、まずアイツを探さなければならないけれど。
 妖精使いは大きく伸びをすると、潮風を背中に受けてゆっくりと、しかし確かな一歩を踏み出した。