「……鈴蘭」
「何?」
「君は、眠る気がある?」
「う、ご、ごめん」
僕の話に絶えず質問を投げかけ、気持ちよく歌ってみせたりするくらいなのだから、ろくに眠る気はなさそうだ。僕は嘆息しながらも、胸の中に浮かんだ思いを、正直に言葉にする。
「でも、本当に、元気になったみたいでよかった」
体そのものが、本当によくなったのかは別にしても、精神的に回復しているのは、悪いことではないと思う。当然、無理をされて困るのは変わらないが。
それでも……あんな、弱った顔をされるよりは、ずっといい。
鈴蘭は、一瞬、きょとんと目を丸くして、それから、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、ホリィ」
「どうして、僕が礼を言われるんだ」
「今の言葉が、嬉しかったから」
……嬉しい、のか。よくわからないな。
そう、鈴蘭の言うことや、考えることは、いつだってよくわからない。ただ、よく笑っているな、と思うだけで。
「ねえホリィ、質問していいかな」
「何」
「ホリィのお仕事の中で、大変だったり、上手く行かなかったり、したことってあるのかな。それとも……ホリィは、失敗したりしたことなんて、ないのかな。優秀だって、ジェイが言ってたもんね」
優秀、という言葉を紡ぐとき、鈴蘭は、不思議と痛みをこらえるような表情をする。それは、同僚や他の隊の兵隊が見せる「嫉妬」という感情に似ていて、それでいて、何かが根本的に違う気がする、表情。
でも、きっと、鈴蘭は何かを勘違いしている。
「……ある」
「え?」
「あるよ。一つだけ、どうしても、上手くできなかった任務」
僕だって、完璧じゃない。いっそ、頭から爪先まで機械仕掛けになれればよいのに、と思うくらい、完璧からはほど遠い。
「それは、本当は任務じゃなかったのかもしれない。僕に対する『実験』の一つだったのかもしれない。でも、とにかく僕は、それを望まれたとおりにこなせなかった」
じっけん、と鈴蘭は不思議そうに僕の言葉をおうむ返しにした。そういえば、僕がどういう立場なのか、鈴蘭には詳しくは説明したことが無かった気がする。
でも、鈴蘭の興味は、そこよりも僕の過去に向けられていたようだ。恐る恐る、問いを投げかけてくる。
「どういう、任務だったの?」
そう、あの任務だけは、ずっと、忘れられずにいる。
「片割れを、殺すこと」
ひゅっ、と。鈴蘭の喉がちいさく鳴った。
「片割れ? えと……どういうこと?」
「君には言ってなかったかもしれないが、僕には双子の弟がいる。双子だから、名前も僕と頭文字が同じ、ヒース」
記録上はヒース、もしくはヘザー・ガーランド。ただ、本人が「ヒース」と呼ばれたがっているから、僕の片割れの名前はヒース。
「ヒースは、僕と同じ遺伝情報を持つけど、僕にはあまり似ていない。わざと、僕に似せないように振る舞っているのかもしれないけど」
とにかく、片割れは、僕よりずっと賢いのに、僕よりもずっと無駄が多い。しかもその「無駄」をこよなく愛するような人間だ。
僕らに、無駄などあってはならないというのに。
望まれた役割に背を向けて、下手な鼻歌を歌いながら気ままに生きるヒースは、ある意味では鈴蘭より僕の理解を拒む存在だ。
それでいて、僕の、切り離しようのない片割れだ。
ある日、ヒースを処分すべきではないかと、上層部は言った。
「ヒースの自由すぎる行動は、上の目に余ったらしい。僕と同等の能力を持つはずのヒースが、仮に、上の命令に反するようなことがあれば危険なのは、間違いない」
「それで……ホリィに?」
「そう。でも、僕には、ヒースを今すぐに殺す必然性がわからなかった。ヒースは、塔上層の意向に、素直に従わないことがある。けれど、決定的な反抗には至ってないと思っていた」
でもそれは、どこまでも、僕の判断でしかない。一介の兵隊でしかない僕の考えなんて、任務の上では求められてはいない。
だから僕は、片割れを殺しにいった。よく研いだナイフを一本携えて。
何も知らないヒースは、調子の外れた歌を歌いながら、僕の知らない本を読んでいた。
僕と素質は同じでも、僕よりも訓練が足らないヒースを殺すのは、そう難しいことじゃない。気配を殺して近づいて、急所にナイフを突き刺すだけの、簡単な仕事。
「なのに、どうしても、出来なかった」
ナイフを握りしめたまま、どうしても、体が言うことをきかなかった。
こんなこと、生まれて初めてだった。
「そうこうしているうちに、ヒースが振り向いたんだ」
そして、手に持っていた本を閉じて。
「どうしました、ホリィ。随分辛気くさい顔してるじゃないですか」
ぼんやりと、普段どおりに笑ってみせたのだ。
「……ナイフ、持ってたんだよね」
「持ってた。それだけで、ヒースは、僕が何をしようとしていたか、全部わかったみたいだった」
殺される、というその時も。いつもと変わらず笑っていたのだ。そして、僕のよく知っている、むやみに丁寧な言葉遣いで言ったものだった。
「そろそろ潮時かと、思っていたのです。まさか、ホリィが直接来るとは思っていませんでしたが。上も大概、性格悪いですよね。僕だけでなく、ホリィをも試すつもりなのですかね」
ぺらぺらと、聞いてもいないことを話し出すのが、片割れの特徴だった。でも、一番大切なことは、言葉には出さない。
そう、その時だって。
ヒースは、それ以上何も言わずに、僕がナイフを振り下ろすのを待っていた。
それが当たり前、僕の仕事なのだから、という目で僕を眺めていた。
だけど。だけど、僕は。
「僕には、できない」
自然と、そう言っていた。
そこまでを聞いた鈴蘭が、こくりと首を傾げる。
「家族、だから?」
「それもないわけじゃない。でも、その時に僕が考えていたのは、ヒースを殺した結果、塔にもたらされる利益と不利益だったと思う」
確かに、塔の上層部から見れば、未来の危険分子だったのかもしれない。それでも。それでも。
「ヒースは、優秀なんだ。僕よりも。他の誰よりも。それは、僕が一番よく知ってる」
だって、ヒースは、僕の唯一の片割れだ。たくさんのきょうだいがいる中でも、たった一人の「双子」だ。
そのヒースを失ってどうなるかは、僕が、一番よく知っている。
でも、僕はヒースと違ってとんでもなく口下手で。唇を引き結んだまま、立ち尽くすしかなかった、その時。
「なら、殺さなければいいじゃないですか」
ヒースは、あっさり言ってのけたのだ。
でも、これは任務で、果たさなければならないことだと言うと、僕とよく似た顔を近づけて、人差し指で僕の鼻をつついた。
「できないことは、できないって言っていいんですよ、ホリィ。僕の言うことは誰も聞かないかもしれませんが、ホリィには、それができます」
それだけの、積み重ねてきた信頼がホリィにはあるのです、と。ヒースは、自分のことのように胸を張って言ったものだ。
「そう、上だって、ホリィが嫌だって言ったら止められません。疑うなら、やってみればいいじゃないですか」
嫌だ、なんて。そんなこと、思ったこともなければ、言葉にしたこともなかった。けど、その時だけは、正直に上層部に対して、自分には無理だと告白した。そして、それだけで許された。
結局、全て、ヒースの言うとおりになった。
「それで……弟さんは、今も無事なんだ」
「うん。僕以外が、ヒースを殺そうとした記録はない」
きっと、今だって。《鳥の塔》の上層で、下手くそな鼻歌交じりに、旧い本を読みふけっているに違いない。
だけど……僕は。
「ありがとうございます、ホリィ」
あの日、ナイフをしまって去ろうとした、僕の背中にかけられた声を、
「僕の価値を、認めてくれて」
忘れては、いない。
僕が口を閉ざすと、数拍置いて、鈴蘭が言った。
「なんだか不思議だけど、すてきな弟さんだね」
「そうかな」
「ホリィのこと、よく、わかってるんだろうね。優しい子なんだなあ、って思うよ」
「そうだな。僕より、ずっと優しいと思う。ヒースは、僕に足らないものを持ってるから」
僕が欠いてしまった部分を補うように。僕の背中を守るように。片割れは、僕に寄り添っている。物理的に離れている、今ですら。
そう考えている、けれど。
「ホリィも、優しいよ」
「そうかな」
「うん、優しいよ。ホリィは、気づいてないかもしれないけど」
わたしは知ってる、と。布団の下から、鈴蘭は呟く。そうも繰り返されると、流石にこそばゆいものがある。僕自身では、肯定も否定もできないだけに。
それに。
「……それでも、僕は」
今も、いつか片割れを殺す可能性を、考え続けている。
事実、上層部も、そして父さんも、僕からその役割が失われていないことを示唆していた。
あの時はまだ、片割れを排除する理由が見いだせなかっただけで。もし、ヒースの存在が塔の不利益になるとはっきりわかった時に、僕はナイフを振り下ろすのだろう。
相手が片割れであろうとも、僕にはそれができる。できるはずだ。だから、僕は常に、ヒースの前ではナイフの柄を握っている。
でも、もし、「その時」が来たら。
片割れは、どんな表情をするのだろう。
僕は、どんな表情をするのだろう。
「そんなことを、鏡を見るたびに、思うんだ」
鈴蘭は、そんな僕を、じっと見つめていた。大きく見開かれた右の目は、さながら鏡のように僕を映し込んでいて。
「……その時が、来ないといいね」
ちいさく、囁かれた言葉に。
僕は、一つだけ、頷いた。
アイレクスの絵空事