[He]
気だるい、ブルー・ノートの旋律が耳に響く。
彼は机の上に突っ伏したまま、窓から吹き込む一陣の風にぱらぱらとめくれていく古い手帳を見つめていた。何をするでもなく、ただ、見つめているだけ。
やがて、手帳はあるページを開いて止まる。
『出会いを祝福して ミューズ・トーン』
周囲が黄ばんだ紙の上に踊るのは、色あせない青い文字。
少々斜めに倒れた癖のある文字だが、読みづらくはない。そして、彼はこの文字を書いた人間の指の形までを克明に頭の中に描くことが、できた。
どれほど昔の話だろう、と思う。
遠い日の話であることは確かだが、正確にいつの出来事だったのかと問われても彼はおそらく口を濁すことだろう。時間は残酷なほどに正確なものだが、時にその存在自体が複雑に溶けあい、曖昧になっているような錯覚に陥ることがある。そんなことを思うのは自分だけだろうか、と苦笑して目を閉じる。
いつの出来事かは思い出せない。
ただ、この手元に残された手帳の祈りとサイン、そして耳に残るブルー・ノート。
これらが呼び覚ます記憶はいつでもあの瞬間の色彩を持って彼の脳裏に蘇る。埃っぽい空気も、口にした紅茶の味も、人々の浮かれたざわめきも。
その時目の前にいた一人の女性の、笑顔も。
そうだったな。
彼は目を閉じたまま微かな憂鬱の旋律に身をゆだね、思考する。
いつも、最後に思い出すのは彼女の笑顔。
そして、最初に思い出すのは、滅び行く世界の白い空。
喜劇『世界の終わり』