喜劇『世界の終わり』

ブルー・ノート(2)

[She]
 
 どうしたものだろうか、と彼女は思う。
 少々心配性に過ぎる夫を上手く誤魔化し、ちょっとした変装をして外に出てきたところまではよかったのだ。普段よりも人の多い通りを歩いても、彼女の存在に気づく者はいなかった。街のいたるところに貼られたポスターに、大々的に彼女の顔が描いてあっても、だ。
 何て愉快。
 帽子を目深に被り、彼女は湧き上がる微笑みを抑えることができずにいた。
 何て、素晴らしい日だろう。道行く人々の表情は普段の辛気臭さを微塵も感じさせず、皆穏やかな色を湛えている。埃っぽく、古臭い建物の立ち並ぶ表通りは常にない活気に満ち満ちている。
 これほど素晴らしい日を迎えることができた自分は幸せ者だ。
 毎日が幸せでないわけではない。彼女にとっては、生きている一日一日が幸福に満ちている。ただ、今日はそれを普段以上に感じている……そう、それだけの話だった。
 だから、「それ」に出会ったときも、彼女は笑っていた。
 「それ」が強く彼女の手を引き、そびえ立つ廃ビルの狭間へと導きいれた瞬間も。
 そして。
「ミューズ・トーン、ですね」
 真剣そのものの低い声で、聞きなれた名を呼ばれた時ですら。
 聞きなれているはずなのに、今日街に出て初めて聞いたその名前に彼女は思わず声を上げて笑った。何がそんなに楽しいのか、とばかりに目を丸くする「それ」の顔を見て、彼女は余計に笑いをこらえることができなくなった。
「そうよ。何か御用かしら?」
 いたずらっぽく笑み、彼女は言った。
 まさかそんな反応を返されるとは思っていなかったのだろう、「それ」……彼女も見覚えのない、一人の男だった……は呆然と彼女を見ていたが、やがて表情を真剣なものに戻し、はっきりと言った。
「貴女は、今日の独奏会に出てはいけません」
 そこで初めて。
 彼女は、どうしたものだろうか、と考えた。
 男は彼女の肩を強く掴み、真っ直ぐに彼女を見据えていた。その目は、彼女の明るい茶の瞳とは対照的に、影を落とす大樹の色。年のころは見たところ彼女とそう変わらないようだったが、精悍な顔立ちには年齢に似合わぬ、老いにも近い何かが含まれているようにも見えた。
 初対面の人間を必要以上に観察するのは悪い癖だと、彼女は心の中で苦笑する。
「どういうこと?」
 彼女は微笑み、落ち着いた口調で言う。普通ならば、知らない男に手を引かれた地点で悲鳴を上げて逃げ出すようなものだ。ただ、残念ながら彼女は普通ではなかったし、それ以前に彼女はこの男が自分に危害を加えるようなこともない、ということも何となくではあるが感じ取れた。
 彼女の感覚は、時に理論よりも確かである。
 男はあからさまな戸惑いを浮かべた。彼女の落ち着きぶりが、不可解なのだろう。
「……驚かないのですか?」
「今さら。それとも、きゃあきゃあ騒いでもらいたかったの?」
 冗談っぽく彼女が言えば、「まさか」と男は激しく首を横に振る。当然、こんな人気のないところに連れ込んだのだから、騒がれることがこの男の本意でないことくらいは彼女にもわかる。
「別に、私も驚かないわけじゃないの。だけど、それ以上に、貴方の目が綺麗だなって思って」
 彼女が素直に思ったことを口にすると、男の方が驚きに言葉を失った。初対面の女にそこまで言われるなど、誰が想像するだろうか。
「からかっているのですか?」
「いいえ、本当にそう思っただけ。ごめんなさい、変なこと言って」
「い、いえ」
 完全に毒気を抜かれてしまったのだろう、男は彼女から目を逸らし、あらぬ方向を向いた。肩に乗せられた手も、力を失うのがわかる。
「……それよりも、独奏会に出てはいけない、というのはどういうことかしら?」
 彼女は微笑んだまま、言った。男はそこでやっと我に返ったのか、再び手に力を入れなおし、語気を強める。ただし、一度逸らされた目は、今もまだ彼女の目を直視することはできずにいる。
「理由などどうでもいいでしょう、とにかく、貴女を独奏会に出すわけにはいかないのです!」
「どうでもよくないわ。何故?」
「それは、っ」
 男は答える代わりに目を伏せ、唇を噛んだ。
 そこで、彼女も初めて気づいた。男の唇から血の気が失せていることに。いや、それだけではない。肩に乗せられた手も小刻みに震え、こちらの目からほんの少しだけ視線をはずした瞳は、小さく、揺れている。
「それは……」
 ぽつりと呟いた声は擦れ、続きを紡げずに。
 表通りのざわめきが、遠い。
 彼女は小さく息をつき、痛みをこらえているような表情を浮かべる男に、改めて笑いかけた。
「温かいお茶でも飲む?」
「え?」
「だって、そんな格好じゃ、寒いんじゃないかしら?」
 彼女は男の着ている服を指して言った。ただでさえ寒冷なこの地域で、薄く、しかも所々が擦り切れたシャツを一枚羽織っているだけでは、寒いに決まっている。ただ、男の方は言われて初めて気づいたのだろう、羞恥に軽く頬を赤くしながらも、首を横に振る。
「そんなことは関係ないでしょう」
「関係大有り」
 彼女は、きっぱりと言った。
「私もこんなところに突っ立ってたままじゃ、寒いの」
 今度こそ、男も、何も言えなくなった。