最初に異変に気づいたのは、ヤスだったのかもしれない。
普段より少しばかり遅く目が覚めて、詰め所に与えられている自室から、特に意識もせず窓の外に目をやって……息を飲む。
詰め所の入り口に、数人の男が立っていた。黒い外套は、遠目からでもわかる、塔から支給されるものだ。つまり、見知らぬ兵隊が数人。だが、その先頭に立つ男が放った声だけは、ヤスがよく知るものだった。
「おはようございます、中央隔壁治安維持部隊の皆様。朝早くからお騒がせして申し訳ありませんが、隊長のゴードン・レンブラントさんはいらっしゃいますか?」
「……エリック……?」
朝の冷たい空気によく通る声は、聞き間違えようもなく、エリックのものだった。まさか、という思いと共に、急いで着替えて部屋を飛び出す。同じように飛び出してきた外周出身の同僚が「どういうことだ」とヤスに問う。そんなこと、聞かれたところでヤスにもわかるはずもない。
階下では、名指しにされた隊長が「何者だ」やら「何様のつもりだ」やら、ぎゃあぎゃあと喚いている。これには、普段隊長の腰巾着をやっている貴族出身のぼんくらどもも、困った顔を見合わせるばかり。
その間にも、エリックとよく似た男の声が、響く。
「もし質問に対する返答がいただけなければ、私たちとしても、強硬手段に出ざるを得なくなります。その許可は既に上からいただいておりますゆえ」
上、という言葉を聞いた瞬間に、隊長のゴム鞠みたいな身体がびくんと跳ねた。そして、意を決したように、取り巻きをつれて外に出る。ヤスたちも慌ててそれに続いた。
かくして、外周治安維持部隊の構成員たちは、詰め所の入り口に現れた兵隊たちと対峙することと相成った。
そして……彼らを待ち受けていたのは、黒髪に長身の青年、エリック・オルグレンその人だった。
だが――妙に仰々しい装置で目を隠し、漆黒の軍服の上に《鳥の塔》のエンブレムを刺繍した軍用外套を羽織るその姿は、ヤスの知らないものだった。
エリックが外周の住人でない、ということは薄々感じてはいたが、まさか塔の兵隊だとは思いもしなかった。しかも……高位の兵隊に許されたピンを襟に飾るような立場だとは、到底思いも及ばない。
集団の先頭に立つエリックは、目を隠す装置を押し上げ、朗々と言い放つ。
「 『初めまして』、中央隔壁外周治安維持部隊隊長ゴードン・レンブラントさん」
いつものエリックの話し方と何一つ変わらない、訛りのほとんどない、明るい響きの共通語。だが、そこにはいつになく剣呑な響きが混ざっている。それは……ヤスや他の外周出身の連中のように、今までエリックと接してきた人間でなければ気づけない程度の響きではあったが。
口元だけで朗らかな笑顔を浮かべたエリックを睨み付けた隊長は、何とか肩を怒らせて虚勢を張ろうとしているが、何しろ一度暴行を加えた相手が、今度は軍服姿で現れたのだ。まともな対応ができるはずもなく、震える声を上げるばかり。
「貴様……この前会った……」
「ああ、申し遅れました。私、《鳥の塔》諜報部に所属するヒース・ガーランドと申します。後ろは、同じく諜報部に所属する者です」
「ガーランド、だと?」
隊長の声が更に上ずり、後ろでそれを聞いていたヤスも、背筋がぞわりと泡立つのを抑えられなかった。
ガーランド。外周でただ生きているだけならば、まず耳にしないで生涯を終えるであろう名前。そして、兵隊という形で《鳥の塔》に関われば、嫌でも耳にすることになる名前だ。
――フラスコの中の小人。
この世界に適応すべく、人間の潜在能力を引き出された新たなる人類。塔上層の無菌室で生まれ、産声を上げた瞬間から「特別」を運命付けられたエリートたち。
それが、『花冠』の名を持つ超人だ……ということを、知らない兵隊はいない。塔に逆らうもの全てを殺戮する『制圧者』、『第三の花冠』ホリィ・ガーランドの名は、今でも畏怖を持って語り継がれているのだから。
そして、ヤスの知らない名前を持つ花冠の青年は、場違いな微笑みを浮かべて言った。
「皆様には『第四の花冠』と言った方が通りがいいですかね? 私、今までホリィみたいに表舞台に立ったことがないので、知名度がいまいちなんですよねえ」
だが、知名度はなかったとしても、確かに四番目が存在する、ということだけは判明している。ガーランドと呼ばれる子供たちは、公式の発表を信じる限り、九人いるはずなのだから。
エリック――諜報員ガーランドは、口をぱくぱくさせる隊長に向かって、事務的な口調で言葉を重ねていく。
「外周住民からの度重なる陳情がありまして、ここ一年ほど、外周にて治安維持部隊の職務内容を秘密裏に観測しておりました。また、特に名前が挙がっていた隊長他数名の行動を重点的に調査させていただきました」
そこまで言って、ガーランドはにっと笑みを浮かべる。目の前で泡を食っている隊長ではなく、その後ろに立ち尽くしていた、ヤスに向けて。それを受け止めたヤスも、思わず頬を緩めて笑ってしまった。
ああ……こいつは、本当にやってくれやがった、と。
「そして、調査の結果がこちらになります」
ガーランドは手にした鞄から、紙束を取り出す。それが、調査結果を印字したものであることは、見なくとも明らかだった。それをわざとらしく、一枚一枚広げながら、隊長と取り巻き三人の罪状を澄んだ声で読み上げていく。
「恐喝、暴行、不正搾取、果てには強姦に殺人と。本当に、ろくな人生歩んでませんねあなた方」
「な……違う、そんなこと……っ、どこに、証拠が」
真っ赤な顔で、言葉にならない反論を叫んだ隊長を、ガーランドはどこまでも冷たい表情で見下す。こいつに、こんな顔が出来たのかとヤスまでもがぞっとする。
「外周には外周のルールがある、と言ったでしょう? 相互監視のシステムは、内周や塔よりもずっと優秀ですよ。塔の監視カメラや盗聴器がないからって何をしてもいいとお思いで? 最も目と耳がよいのは人間だということを、肝に銘じた方がよろしいかと」
ま、手遅れですけどね、ときっぱり告げたガーランドは、紙束と、もう一枚……塔の印が押された紙を隊長たちの前に示してみせる。それが塔への召喚状であることは、一目でわかる。
「あなた方が兵隊以前の犯罪者であることは、この通りはっきりしております。塔の上層部は、調査結果を元にあなた方を軍法会議にかけるという決定を下しました。同行いただけますね?」
質問の形で聞かれてはいるが、これは隊長たちに決定権のあるものではない。逆らえば、その時点でガーランドたちは強制的に隊長たちを取り押さえることが可能だ。それに対し、隊長は今にも卒倒しそうなほどに顔を赤くしてヒースを睨んでいたが、やがて、同じように顔色を変えて立ち尽くしていた己が部下に指示を飛ばす。
「ええい、何ぼうっとしている! このままでは、私もお前らも破滅だ! 行け! 行くんだよ!」
その声に操られるように、己が罪を明かされた腰巾着三人が警棒を引き抜き、ガーランドに向かって殺到する。
これには、流石にガーランドの後ろに控えていた、同僚と思しき兵隊も動揺したのか、鋭く声を上げる。
「ヒース」
「構いません」
冷たく言ったガーランドは、ふと、唇だけで微笑んだ。目こそ謎の装置に覆われているが、その顔は、驚くほどに整っていた。
「彼らの実力は把握済みゆえ。私一人で十分です」
仲間を下がらせ、流れるような動きで引き抜いたのは飛び出し式の警棒だ。飛び掛ってくる兵隊たちや、ヤスが持たされているものと、何一つ変わらないように見える。実際、何一つ変わらないのだろう。武器そのものは。
だが、踏み込んでくる一人目の手首をすれ違いざまに打って武器を落とさせ、そのまま振り向いた勢いで肘を鳩尾に叩き込むことで、一息もつかせずに継戦能力を奪い去る。
背面を見せたことでもう一人が脳天目掛けて警棒を振り下ろすのを、そちらを見もせずに回し蹴りで吹き飛ばす。
三人目もそのまま打ちかかっていくかと思われたが、そこまでの馬鹿でもなかったらしい。二人が一瞬で地に伏したのを見て、一度は手にした警棒を落として膝をつき、降伏した。
さすがは人を超えた人、といったところか。それは、ヤスの目から見る限りまともな動きではなかった。
ヤスをはじめ、外周出身の隊員は、そんなガーランドの動きをただ呆然と見つめていることしかできなかった。しかし、不意にかちりという不吉な音が響いて、ヤスの意識はそちらに持っていかれる。
今までただ喚いていただけの隊長が、いつの間にか、腰から抜いた拳銃をガーランドの頭に向けていたのだ。流石に、その動きはガーランドも気づいていないのか、己が倒した相手に視線を向けたままで。
「……っ、させるかあっ!」
今度こそ、ヤスを止める者はいなかった。隊長の目は完全にガーランドに奪われていたからだろう、その声を聞いても、即座に反応はできなかった。
だから。
積年の恨みを篭めて、握り締めた拳を振り抜く。
隊長は、ぶよぶよした頬を殴り飛ばされて、地面に伏す。短い指からこぼれ落ちた拳銃を、しっかりと同僚が確保したのを視界の片隅で確認する。持つべきものはいい仲間だ。
地に伏せたままの隊長は、顔を押さえてヤスを睨む。
「きっ、貴様っ、上官に何をっ」
「上官? 犯罪者の間違いだろ。俺たち治安維持部隊の役割は、外周住民の安全を乱す輩を取り締まること……だよなあ、お前ら?」
ヤスが仲間たちを見れば、それはそうだ、という風に全員が頷き、積年の恨みを篭めた視線で隊長を見下ろす。今にも、飛び出しかねない空気が流れるが、その前に、確かめなければならないことが一つ。
「おい、エリック!」
「はい?」
顔を上げたガーランドは、不敵に笑っていた。既に、ヤスが何を言おうとしているかは、伝わっていたのだろう。
「見逃してくれるな?」
「そうですね、ヒース・ガーランドによる調査任務は、既に終わっておりますので。この場で起きることに関しては何一つ上に報告しないとお約束しましょう」
言って、人差し指を唇の前に立てる。ガーランドが引き連れていた諜報員たちは呆れた顔をしていたが、しかしガーランドの決定に異議を唱える者もいなかった。
「そうこなくっちゃ、なあ!」
ヤスは、いつになく晴れやかな気分で、笑った。
一体、どこからどこまでが諜報員ヒース・ガーランドの「仕事」であったかは、ヤスにはわからない。ヤスは、廃品街に現れた浮浪者としてのエリック・オルグレンの姿しか知らないから。
だが、最低でも、エリックのあり方は何一つ、演技などではなかった。それが、今の言葉ではっきりした。
共犯者の表情で、諜報員と外周治安維持部隊の面々は頷き合って……そこから先は、もはや、誰の目にも見えきったシナリオだった。
結局、二度と戻ってくることはないであろう隊長と腰巾着が、諜報員たちの手によって引きずられていったのは、隊員たちの気が済むまで蛸殴りにされた後のことだった。
「はは、ちょーっとやりすぎですかねえ」
唯一、その場に残ったヒース・ガーランドだけが、引きずられていく隊長たちを眺めて、愉快そうに笑っていた。隊長たちを追い詰めた瞬間に見せた冷たい仮面は既に剥がれ、ヤスのよく知っている笑い方で。
隊員たちも一緒になって笑っていたが、ヤスだけは、胸に何か引っかかるものを感じて、途中で笑うのをやめた。そして、目を隠したガーランドの横顔を見やる。
「お前……本当は、すごい奴だったんだな」
「あっはは、そうは見えないでしょう? 僕も、柄じゃないって思ってるんですよ」
「その、お前が、どうして……俺の言葉なんて、聞き届けてくれたんだ」
あの時、エリックは確かに言っていた。
『それが、あなたの……あなた方の望みならば。僕は、全力でそれに応えましょう』
そして、その言葉を違えることなく、とびきりの不意打ちで果たしてみせた。だからこそ、不思議なのだ。本来、外周の人間なんかに目をかけるはずもない雲上人たるガーランドが、ここまでヤスや外周の住民を案じていたことが。
すると、ガーランドは顔を上げた。相変わらず視線は装置の下で、どこを見ているのかは判じがたかったが、道の先に広がる外周の町並みを見ていたのかもしれない。
「僕、この町が好きなんです」
町、というのは裾の町のことであり……それ以上に、ここ、外周を示しているのだということは、何となくヤスにもわかった。
「無菌室に篭ってるだけじゃ、絶対にわからない……『精一杯生きていく』ってこと。それを、教えてもらった場所ですから。そんな、この町を生きる人たちの人生を、己の権力や立場を振りかざして侮辱する輩が許せなかった。それだけです」
己の立場を振りかざしたのは、自分も同じですけどね、と。つくられた青年は力なく笑った。
「僕は、ガーランドとしては半端者でして。この名を恨めしく思ったことも、一度や二度じゃありません。でも今回ばかりは、ガーランドでよかったと、心から思いました」
その、気弱な笑顔の中に、柔らかな光が宿る。それは、あの時「わくわく」をヤスに語った時と同じ、子供のような無邪気さを残した表情だった。
「守りたいもののためだから、でしょうね。何だって利用しようって気分になれたんです。僕の名前も、身体も、与えられた立場も全て」
「……そう、か」
ガーランドの思いは、ヤスにはわからない。そういう立場に置かれたこともないのだ、ガーランドが今までどれだけ己が立場に悩まされたのかなんて、わかるはずもない。
ただ、今、この瞬間に、ガーランドが晴れ晴れとした表情を浮かべているならば、それでいいのだろうと思うことにする。
そんな中、同僚の一人が手を挙げて、問いを投げかけた。
「でも、隊長引っ張られちゃったけど、これからうち、どうなるんだ?」
その言葉に、全員が固まった。
基本的に、治安維持部隊隊長は、閑職とはいえ「隊長」の名を冠されるだけはあり、軍の中でもそれなりの階級が必要になる役職だ。ここで隊長が捕まったからと言って、次の隊長がまともな奴であるとも限らないわけで……。
その点については、何か話を聞かされているのだろうか、と塔の代理人たるガーランドを恐る恐る見やると、ガーランドは思い出したようにぽんと手を打った。
「そうそう、上に判断を仰いだところ、ひとまず私、ヒース・ガーランドがしばらくこの隊を率いてみてはどうだ、と言われまして」
『はあ?』
疑問符を唱和させる隊員たちに対し、もちろん証拠もありますよ、と綺麗に折りたたまれた紙を取り出し、開いてみせる。確かに、塔の印が入った辞令には、確かにヒース・ガーランドを本日付で中央隔壁外周治安維持部隊隊長に任ずる旨が書かれていた。が。
「お前さあ、これ、かなーり無理言ったんじゃねえ?」
「ふふっ、『無理が通れば道理が引っ込む』っていい言葉ですよね」
「多分ちょっと意味違うぞ、それ」
とにかく、相当な無理を通したんだな、とヤスは呆れ顔を浮かべる。
この町が好き、と豪語するこの変わり者のエリートは、かわいい顔と丁寧な言葉遣いに似合わず、相当押しの強い野郎なのかもしれない。
かくして、黒い外套を揺らし、隊員たちに向き直ったガーランドは、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、ぺこりと頭を下げた。
「そんなわけで……これからよろしくお願いしますね、皆さん」
正直に言えば、この男について判明していることは、ガーランドの名を持つ超人の一人であり、そしてその肩書きに似合わぬ愉快な思想の持ち主ということだけだ。果たしてこれで、治安維持部隊が変わっていけるのかは、今のところ何一つわからない。
わからない、けれど。
ヤスは、敬礼のポーズを取る。今日この時より己の上司となる、若き隊長に向けて。
「よろしく、ガーランド隊長」
きっと、明日は昨日よりは、ずっとマシな日になる。
そんな気はしていた。
終末の国から