幸福偏執書庫

シアワセモノマニア(青波零也)の小説アーカイブ

降り、来たるもの
 Xの瞼が開かれる。
 目の前に広がっていたのは、人でごった返す交差点だった。辺りを見回してみれば、交差点の只中に立ち尽くしていたのだと気付く。立ち尽くすXの肩に誰かがぶつかって、舌打ちと共に早足に歩き去っていく。
 そうしているうちに、横断歩道の向こう側にある歩行者用信号がちかちかと点滅し、Xは慌てて交差点を渡りきる。次の瞬間には信号が赤に変わり、一瞬前まで人が歩いていたそこを車がものすごいスピードで通過し始める。スピーカーから響く、トラックが目の前を走り抜ける轟音。
 Xの視界を映し出すディスプレイは、広い道の向こうにビルが立ち並ぶ風景を切り取っている。どこかに似ているようで、それでいて私の知る土地ではない。スタッフには『こちら側』の風景との同定を進めるように指示し、視線をディスプレイに戻す。
 Xは、しばしぼんやりと走り去る車を見つめていたが、やがて動き出した。とはいえあてがあるわけでもないらしく、どこか頼りない足取りで、人波の只中を行く。その「人」も我々の知る人と何一つ変わらず、周りから聞こえる声も我々の知っている言葉で。
 ここが本当に『異界』なのかと、疑うほどの『異界』であった。
 
 
 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
 ただ、今回の『異界』はその言葉から想像される風景とはまた異なる光景を我々に見せていた。極めて『こちら側』によく似た景色。けれど、それはXの肉体から離れた意識体が見ている光景だということは間違いないことだった。
 Xは人の流れに揉まれるようにしながら歩いていく。歩いても歩いても風景はさほど変わりなく、ビル群とごった返す大勢の人。車道には無数の車が行き交っており、その誰もが自分の目的のために動いているのだろう、異質なはずのXには見向きもしない。もしくはXが異質に見えていないのか。この世界のありさまからすると、後者の可能性が高いとは思う。
 あらかじめXに我々が課している指示は、「できるかぎり自分の目と耳で『異界』の状況を確かめる」ことであり、Xはいつも従順に私たちの指示を果たそうとする。今もそうで、歩きながらも絶えず辺りを見回すことで『異界』の風景を私たちに伝えている。
 もちろん、『こちら側』によく似た『異界』は極端に珍しいものではない。むしろ、我々からアクセスできる『異界』にはそのような『異界』の方が多いかもしれない。並行世界、それは『こちら側』に最も近い『異界』である、というのが我々の間における通説だ。
 ただ、『こちら側』と「よく似ている」だけで、何かが異なる可能性は否定できない。注視する必要はあるだろう。
 ――と、思った、その時であった。
 突然、スピーカーからサイレンが鳴り響いた。消防車のそれに似ていたが、遥かに圧のある音の合間に、女性の声が繰り返し告げる内容は、このようなものであった。
『第三種危険生物が接近中。市民の皆様、慌てずに避難行動を行ってください』
 ……その意味を理解するよりも先に、ディスプレイに映る世界が一変した。
 人々が急にうねるように一方向に向けて流れ出したのだ。その流れに乗り遅れる形になったXは、辺りの罵声や悲鳴を聞きながら、その場に取り残される。車の流れもいつの間にか止まっていて、車から降りた人々が「避難」と呼ぶべき行動を始めていた。
 そして、波が引くように人の姿が街から消える。否、それでも完全に消えているわけではなかった。Xと同じように取り残された人間がぽつぽつと辺りに見えていて、Xはそのうちの一人――歩道の端に腰を抜かして倒れていた、年配の女性の腕を取る。
「大丈夫ですか?」
 Xは女性の体を支えて立たせてやる。女性は震えながらも、何とか自分の足で立ち上がってXに礼を言う。
「ありがとう、助かったよ。さあ、早く逃げようじゃないか」
「逃げるって、何からですか?」
 Xの言葉に、腰の曲がった女性はちいさな目を丸くしてXを見上げた。
「……お兄さん、何処から来たんだい? 怪獣を知らないなんて」
「怪獣?」
 あまりに現実味のない言葉――確かにここは自分の生きている「現実」とは別の世界なのだが――にXが間の抜けた声を上げたとき、上空を何かがよぎったのが、道路に落ちる影でわかった。鳥ではない。鳥にしては巨大すぎる、何か。
「ああ、早く逃げるんだよ!」
 女性が慌ててXの手を引く。Xは女性の身体を支えて、足並みを揃えて進んでいく。少し進んだところに「避難所」と書かれた分厚い扉の建造物が存在しており、その扉を開いたところで女性は立ち止まった。
「本当にありがとうよ。さあ、入ろう」
「いえ」
 Xは首を横に振った。
 私がXの顔を見ることはできない。私が観測することができるのは、Xの「視界」だけだからだ。けれど、何となくわかった。Xは、うっすらと、唇を歪めたのだろう、と。
「まだ、外に数人、残っていました」
「ちょっと、お兄さん!」
 呼び止める声にも構わず、そっと、女性の肩を押して避難所の中に導いてから、Xは扉を閉める。
 そして、駆け出す。次に倒れていたのは若い男性だった。あの怒涛の人波の中で怪我をしたのか、片足を押さえて道路の上に倒れ込んでいる。
「立てますか。手をこちらに」
「お、おう……、ありがとう」
 膝をつき、男性の手を引いて、肩にかけさせる。そして、男性の体重を体全体に乗せるようにして立ち上がる。
「避難所はすぐそこですから。頑張ってください」
 Xは彼には珍しく、ことさら明るい声で言った。男性を不安にさせないように、だろう。だが、男性は怯えた顔を隠しもせずに辺りをきょろきょろと見渡している。
 先ほどから、スピーカーにはサイレンの音の中に奇妙な音が混ざるようになっていた。それが何なのかわからぬままに男性を引きずりながら歩いていると、一際大きな影が地面に落ちたのが、見て、とれた。
「き、来た!」
 男性が悲鳴を放つ。Xが見上げれば、ビル群に切り取られた青い空を背景に、翼を持った、蜥蜴めいた生物――怪獣と呼ばれていたそれ――がまっすぐこちらに向かって落ちてくるのがわかった。
 それは人ひとりなど簡単に飲み込めるほどに大きな口を開く。サイレンに混ざっていた異音と共に、ぼたぼたと口から涎が地面に落ちる。それは酸を含んでいるのか、落ちた場所から白い煙が立つ。
「ひえ……っ」
「せめて、建物の中まで逃げれば……!」
 Xは男性を抱えなおして走り出す。だが、足を怪我した男性を連れてでは、どうしたって速度は出ない。建物の入り口まであと数歩というところで、Xが振り返る。既に怪獣は目の前にまで迫り、二人に向けて爪のついた腕を振り上げていて――。
「引き上げて!」
 私の命令と、その腕が振り下ろされるのはほとんど同時だった。
 ディスプレイとスピーカーにノイズが走り、それから。
 
 
 結論から言えば、引き上げは問題なく成功した。
 Xの意識は『異界』から肉体と意識体を繋ぐ命綱によって無事に引き上げられた。意識体にダメージがなかったことも、エンジニアとドクターによって確認されている。ぎりぎり私の指示が間に合ったということだ。
「X」
 Xは寝台の上に腰かけ、俯いたまま沈思している。もしくは何かを言おうとして、ただ「許可されていない」から発言しないだけなのかもしれなかった。Xは、私が許可するまで発言をしない。別にこれは私が指示したわけではなく、長い囚人生活で身についた「処世術」であるらしかった。
 その上で私は、正直これを口に出していいものか迷ったが、しかし率直に伝えた方がいいと判断し、口を開く。
「あなたが助けても助けなくても、おそらくあの人は助からなかったわ」
 Xがぱっと顔を上げる。言葉にしなくても、その目に非難の色が混ざっているのは私にもわかった。とはいえ、Xにしても、自分がやろうとしていたことの意味がわからないわけでもなかったのだろう、すぐにまた俯いた。
「発言を許可するわ。言いたいことがあれば言っていいのよ」
 私の言葉に、Xは俯いたまま低い声で呟いた。
「わかっては、います。あれでは、私も、彼も、助かりませんでした」
「わかっていても、手を離さなかったわね」
 Xもわかっていたはずだ。もし、怪獣を目視した時点で手を離していれば。あの男性を見捨てて逃げていれば。Xだけ逃げ延びることは、不可能ではなかったはずだ。
 それでも。
「見捨てられません」
 Xはきっぱりと言い切ってみせるのだ。
「それが、無駄なことになろうとも。そうせずには、いられませんでした」
「そう」
 こういうやり取りをするたびに、私は、Xという人物がわからなくなる。
 その手で多くの人を殺してきながら、同じ手で人を救おうとする。そうすることに何一つ疑いも迷いも無いということ自体がXの異常性なのかもしれなかった。
 ただ、私はそういうXのことを、おそらく不愉快には思っていないのだと思う。
 だからだろうか。ほとんど無意識に、
「……あなたは、正しいことをしたわ」
 そんな言葉が口をついて出て。
 Xはきょとんと目を見開いて、それからほんの少しだけ、強張った表情を緩めて言った。
「そうだと、いいですね」

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