タブレットの上に指を走らせる。普段はキーボード操作ゆえに違和感はあるが、それでもいつもの手続きだ。
潜航装置から延びるコードをいたるところに取り付けたヌイさんは、助手席のシートを倒して横になっている。一体どういう仕組みでこの何の変哲もないコードが肉体と意識とを切り離すのか、相変わらず謎に満ちてはいるが、今考えたところで仕方がない。
画面に表示されるボタンを叩いて、分離シーケンスを開始。指定した座標――車の外、フロントガラスの向こう側に、ヌイさんの意識体を投射する。
シーケンスは一瞬で終了した。気づけば、窓の外にはヌイさんが立っていた。長く伸ばした白髪交じりの黒髪を後ろで無造作に縛り、派手極まりないアロハシャツに、明らかにサイズが合っていないぶかぶかなズボン。いつものヌイさんだ。今もなお助手席に横たわっているヌイさんと、全く同じ姿をした意識体。
意識体のヌイさんは、腕を回したり、足をぶらつかせたりしながら身体の動きを確認していたが、やがて開け放した窓から「よし、上出来」という声が聞こえてくる。俺は一旦タブレットから視線を離し、窓から身を乗り出してヌイさんに言う。
「行けそうっすか?」
「だいじょぶ。鞄取って」
後部座席のやけに重たい鞄を取って、近寄ってきたヌイさんに渡す。意識体とは、本人のイメージに基づいて形作られるかりそめの肉体に過ぎない。ただ、今、一瞬だけ触れた指には、確かに人並みの温度があった。俺の気のせいかもしれないけれど。
鞄を肩から掛けて、ヌイさんは常と何も変わらぬ調子でてきぱきと問いかけてくる。
「視覚と聴覚のトレース、確認できてる?」
「できてますね。めっちゃ俺映ってるし聞こえてます」
タブレットにはコンソールのログと、ヌイさんの視界が映し出されている。つまり、タブレットを覗き込んでいる俺の姿が。潜航装置と結びつけられた意識体の視覚と聴覚は、こうして観測者に共有される。これこそが、『こちら側』の俺たちが『異界』の姿を知る最大の手段だ。
「ここを離れたらアタシにはもっちーの声は届かないんで、よろしく」
「つまり、いつも通りっすね」
ひとたび『異界』に潜ってしまえば、『こちら側』からの指示は不可能。これは、ここにある潜航装置が小型化のために機能を限定しているから、ではなく、俺たちが普段使っている潜航装置がそもそもそういうものなのだ。
「通信機能って、そんなにつけるの難しいんです?」
「んー、つけらんなくはないと思うんだけど、更にラック二段分くらい必要になるかも」
「天井突き破りますね。二つ目のサーバーラック用意します?」
「あの研究室、如何せん狭いのよねぇ」
どうも、ヌイさんなりに最低限必要な機能を選別した上での、現在の仕組みであるらしい。この辺り、実現可能かどうかを判断できるのは開発者のヌイさんだけなので、俺はどこまでもヌイさんの言葉を信じるしかないのだが。
「それじゃ、いってきまーす」
散歩にでも出かけてくるような気軽さで、ヌイさんはふらりと歩き出す。尻尾のような黒髪を背中に揺らしながら、歪みゆく道を歩んでいく。
しばらくは、運転席からフロントガラス越しにヌイさんの後ろ姿を眺めていたが、それが遠ざかっていくのを確認して、今度はタブレット端末に映し出された、ヌイさんの目を通した風景に視線を落とす。
ヌイさんは真っ直ぐ前を見て歩き続けているようだった。車の中から見えている光景は、奇妙な空の色をはじめ、いくらか現実からかけ離れてはいるが、まだ『こちら側』の住宅街だとわかる。だが、ヌイさんが見据えている先は、もはや『こちら側』の風景とは似ても似つかないものだった。
地面は波打ち、ひび割れたアスファルトから何とも形容しがたい、色も形も様々な不思議なオブジェが生えている。建造物は既にほとんどあるべき形を失っていて、有機的な何かに変容している。内側に何か血液のようなものが流れているのか、規則的に脈打つそれらは、酷く気色が悪い。俺は車の中からヌイさんの視界を見ているだけだが、ヌイさんは『こちら側』を侵食する『異界』の空気を肌で感じているに違いない。わずか、ヌイさんが息をつく音とともに。
「いやー、ほんと、派手にやっちゃったもんだわ」
と言う声が、端末から聞こえてきた。
「聞いてる、もっちー? 一人だと寂しいから、ちょっと昔話でも聞いてってよ。聞き流してくれていいから」
もちろん、俺が返事したところでヌイさんには届かない。だから、黙ってヌイさんの視界をタブレット越しに見つめる。ヌイさんはいつしか足を止めて、おそらく『こちら側』ではそれなりに背の高いマンションか何かであったのだろう、奇怪な塔を見上げていた。どうやらここが目的地である、かつてヌイさんが住んでいた家のようだ。
ヌイさんの視界を通しても、人の気配はどこにもない。ただ、蠢くものの気配はそこかしこにある。それは本来あるべきものが歪んでいる最中なのか、それとも何らかの意思を持つ「何か」がそこにいるのか。俺には判断がつかないまま、ヌイさんはもはや建造物とは言えないそれに向けて一歩を踏み出す。
「アタシ、昔っから恋って言葉が嫌いなの」
突然、何を言い出したのかと思った。もしヌイさんがここにいれば、間違いなく聞き返していたところだ。いや、確かにヌイさんの肉体はここに残されているが。
「惚れた腫れたなんて、馬鹿馬鹿しいと思ってたのよ。なんつーか、あれよ、美しくないなって。人が正気でなくなるとこを見せられても、滑稽ではあるけど気持ちいいものじゃあない」
話し出しは唐突に過ぎるが、言っていることそれ自体は、「ヌイさんらしい」と思った。ヌイさんは基本的にどのような話でも愉快そうに聞いてくれるが、俺ののろけ話だけは絶対に聞きたがらない。曰く「面白くない」から。それは、単なる僻みか何かだとばかり思っていたが――。
「この世はあまりにも楽しいことに満ちてるのに、ただ一人に狂って視野を狭めるなんて馬鹿のすることだわ」
ヌイさんの言葉は、恋に恋してる最中の俺に向けるにしちゃ辛辣に過ぎる。だが、俺への言葉というわけじゃない、ということは、次の言葉ですぐにわかった。
「……って、思ってたのよ。アレと出会うまでは」
その「馬鹿」という言葉は、まぎれもなく。
「恋って落ちるものってほんとなのね! 嫌んなっちゃう! アタシだけは絶対にそんなことないって思ってたのに!」
――ヌイさん自身に向けた、言葉なのだ。
ヌイさんはやかましく喋りながらも歩き続ける。かつて建造物であったそれに足を踏み入れれば、生物の内臓のようなぬめぬめとした空間がヌイさんを迎える。それでもヌイさんは迷うことなく、階段らしき段差に足をかける。それも、イソギンチャクの触手を思わせる何かに覆われていて、俺なら絶対に躊躇って足を止めるところだったが、ヌイさんは迷わずそれらを踏みつけて上ってゆく。
「アレと出会ってから、アタシはもうアレのことしか考えられなくなってた。どうすればアレを振り向かせられるのか。どうすればものにできるのか。すごーい、恋する乙女みたいだわ!」
本当に乙女ならよかったのだが、ヌイさんは残念ながら貧相で不気味なおっさんである。いや、当時は「おっさん」ではなかったのかもしれないが、少なくとも乙女であったことは一度もないはずだ。
「で、しゃらくさい駆け引きは向いてないから、率直に告白したわけよ。振られたらまあその時だな、って思ってた」
だが、現実は想像の斜め上どころか別次元だった、とヌイさんは笑う。
「ねえ、信じられる? そいつが、『異界』からの来訪者だった、なんて! そりゃ恋にも落ちるってもんよ、『この世の楽しみ』以上のものを見つけちゃったんだから」
地球の男に飽きたところよ、という懐かしのフレーズが頭をよぎる。いや、ヌイさんの言葉では相手が男かどうかすらはっきりしないし、『異界』の存在に『こちら側』でいう性別という概念があるのかも定かではないのだが。
「結果として、振られた……、のかしら? 今でもよくわかんない。アレは、いつの間にかいなくなってたから。アタシをめちゃくちゃにした、という事実だけを残して、ね」
めちゃくちゃ、というのは相当オブラートに包んだ表現で、実際にはヌイさんが人並みに生きられなくなる程度の「何か」が執り行われた。ヌイさんの人格をことごとく凌辱し破壊する、狂気に満ちた、冒涜的な、何かが。
「ふざけんじゃないわよ、好き勝手やるだけやってトンズラとかありえなーい!」
と、威勢の良い声とともにヌイさんの小さな握り拳が振り上げられる。窓一つないのに不思議とぼんやり明るい、ぬめぬめと脈打つ天井に向けて。けれど、その拳はすぐに力なく落ちて、指がほどける。
「――ってのは、単なる建前で。結局のところ、アタシはアレを諦めきれなかった。恨んでないって言ったら嘘になるけど、もう一度会いたいって気持ちの方が断然大きくてさ」
だから、アレを探しに行こうと、思った。
「アレから貰った知識があれば、行けるって思った。どこにでも行けるって、確信があった。いくらでもアイデアは浮かんだ。それがアタシのアイデアなのか、アレのアイデアなのかはわからない。今となっちゃ、そこに明確な区別はないんだと思ってる」
俺がヌイさんの頭の中を知るのは不可能だ。ただ、過去にヌイさん本人から聞いた話によると「常にここではないどっかに繋がってる感じ」とのことで、もしかすると今まさに、どこか遠くにいるヌイさん曰くの「アレ」と頭の中身を共有しているのかもしれない。
「でも、さっきも言った通り、アタシはまともじゃなかった。今もだけど、今以上に。だから、こんなことになっちゃったわけだしね」
言いながら、ヌイさんはぐるりと視線を巡らせる。もはや建物の構造そのもの以外に『こちら側』の痕跡がひとつも残っていない、『異界』に蝕まれた世界。ヌイさんは言ったはずだ、これが自分のやらかしなのだ、と。
「アタシは、仕事の存在も忘れて、潜航装置のプロトタイプを作ってた。体は動かなくなってくるし、何もかもが億劫になってくるし、それでも、体と頭が動く限り開発をしてた。こいつが完成すれば、アレに会えるって疑ってなかった。……あずみがうちに来たのは、その頃」
|水上《みなかみ》あずみ。俺たちのリーダーであり、ヌイさんを見出して、プロジェクトに招いた最大の功労者。
きっと当時から背筋を凛と伸ばしていたのだろうあの人は、ヌイさんのかつての同僚から「様子のおかしい」ヌイさんの話を聞きつけてやってきたのだという。その時のヌイさんの惨状を、俺は具体的に想像することはできないし、想像したくもない。『異界』の存在に惹かれて人間を辞めかける奴ってのは、いつだって見られたもんじゃないことを――俺は、俺自身の体感としてよく知っている。
「アタシの頭がおかしいってことを、あずみがわからなかったはずはない。でも、あいつ、本気でアタシの話を聞いてた。疑わなかった。それどころか、他でもないアタシの知識と技術が必要なんだって、口説いてきた」
そこで、やっとヌイさんは手を止めたのだという。「アレ」と再会するためだけにあったヌイさんの時間を、少しだけなら我らがリーダーに貸してもよいかもしれない、と思ったのだという。ヌイさんは明言しなかったが、それはきっとリーダーへの恩義であり、借りを返す行為でもあるのだろう。本気で向き合って、自分の目を覚まさせてくれた、リーダーへの。何だかんだ律儀なひとなのだ、ヌイさんは。
かくしてヌイさんは、リーダーから差し出しされた手を握ることで、『こちら側』にアンカーを打った。『異界』に引きずり込まれないように。今はまだ、向こうに行くにはちょっと早いのだ、と言って。
「そこで手を止めてなかったら、多分、アタシはとっくに『こちら側』にはいなかった」
――そして、それでよかったのかどうかは、今のアタシにもわからない。
ヌイさんはぽつりと言った。
事実として、ヌイさんは今ここにいて、まだ「アレ」とは再会できていない。どれだけ恋焦がれようとも、いくつもの世界に隔てられていては、背中どころかその影を掴むことすら難しい。それで諦めきれるならよかったのだろうが、ヌイさんは、間違いなく、困難であるからこそ燃えてしまうタイプのひとだ。
つまるところ、ヌイさんが俺ののろけ話を嫌うのは、やっぱり単なる僻みなのだ。「単なる」と言うべきシンプルさでありながら、あまりにも根が深い、僻み。もはやどこにいるのかもわからない人を思い続けるヌイさんにとって、他人ののろけ話というのは苦痛でしかないのだろう。
とはいえ、まだヌイさんの恋と挑戦は終わっていない。今この瞬間は、まだ、リーダーへの「貸し」――もしくは「借りを返す」日々が続いているから、一旦手を止めているだけで。なんなら、プロジェクトへの参加と潜航装置の作成、日々の『異界』の観測だって、「アレ」を目指すための足掛かりとして考えているに違いない。
「あずみに連れられて、アタシはここを離れた。まずは療養が必要だったから。……ただ、プロトタイプを野放しにしちゃったのは失敗だった。プロトタイプっつっても理論的には完璧だった。問題は、今の潜航装置のように、『異界』に意識体だけを送り込むシステムではなくて、無差別に『異界』の扉を開くシステムだったこと」
とはいえ、ヌイさんにとってはそれで十分だったのだろう。少なくとも、かつての、我を失っていたヌイさんにとっては。
「結果として、アタシがプロジェクトに加わったときには、もう、ここは人の住める場所じゃなくなってた」
唯一制御できるヌイさんを失った潜航装置のプロトタイプは、『異界』への扉を開き続けた。常に『異界』と接触していれば、そこもまた『異界』へと変質していく。それは、この世ならざる知識と接触し続けて不可逆的に変化してしまったヌイさん自身とよく似ている。
「お上にはめっちゃ怒られたし、今も睨まれてる。お上の許可が無いと研究所を離れられないのは、実のところこれが大きな理由でね。アタシがこういうことを『できる』ってこと、よーく知ってるのよ、あいつら」
確かに、ばかすか『異界』への扉を開く能力なんて、あまりにも危険に過ぎる。それこそ災害をまき散らすのと同義、というのは、原型も留めぬほどに歪み切ったこの土地を見ているだけでもわかる。
それでもヌイさんが限定的にでも自由を許されているのは、ひとえに「替えが利かない」の一言に尽きるのだろう。お偉方がヌイさんの危険性ともたらす利益とを天秤にかけ、かろうじて後者が勝った。それだけの話。もしかすると、それもリーダーがヌイさんの有用性をカードに交渉を試みた結果なのかもしれないが。あの人は本当に理想的なリーダーなのだ。一部の致命的な欠点を除けば。
「ともあれ、この失敗はアタシの心残りであり続けたってわけ。でも、一度開き切っちゃった『異界』への扉を閉ざすのは難しくてさ。いくつかアイデアはあったけど、形にするのも時間がかかった」
仕事も忙しかったしね、と言うヌイさんだが、そこに関しては首を傾げざるを得ない。俺はヌイさんが日々レトロゲーのRTAを配信していることも知っているし、やたら解説が上手いことも知っている。もちろん、それがヌイさんの息抜きとして必要な行為なのはわかるので、責める気にはなれないが。
そして、このタイミングでヌイさんが動いたのは納得ができる。今、俺たちのプロジェクトは凪の時期にある。それまでの異界潜航サンプルがいなくなってしまったから。観測結果の分析、仕分けなど仕事はいくらでもあるが、次のサンプルが選定されるまで、潜航装置を利用した『潜航』は行われないのだ。
だから、今がチャンスだと思ったのだろう。ヌイさんはあえて言葉にしなかったが、極端な話――、自分に何かがあっても、そこまで深刻な影響をもたらさないタイミングだとして。
思わず、タブレットを握る手に力が籠る。ヌイさんが、このまま戻ってこられなくなる可能性を考えていないはずもない。現在プロジェクトで採用している潜航手順を踏むことでリスクを減らそうとはしているが、それでも、判断を誤れば意識体は簡単に傷つき、死に至る。今まで確認されたことはないが、『異界』に完全に取り込まれて肉体とのリンクが切れることだって、可能性としてゼロとは言えない。
今、ヌイさんの命綱は俺の手に握られている。その事実を改めて認識して、自然と手のひらに汗がにじむ。
リーダーはずっとこんな重圧を背負っていたのか。相手は使い捨てを想定された異界潜航サンプルとはいえ、それでも「人間」であって。
一人の命を手に握らされるなんて、いいことじゃない。それだけは、はっきりとわかった。
「安心なさいな」
そんな、届くはずもない俺の思いに気づいたのか、否か。ヌイさんは軽やかに笑う。
「まだ『こちら側』での仕事は終わってない。だからあんたに命綱を頼んだのよ、もっちー。あんたなら、確実に引き上げてくれるだろうから」
本当に、卑怯なひとだ。
俺がヌイさんの言葉に流されるのを知っていて、俺がいざってときに断れないのを知っていて、|わざと《、、、》俺に頼んだに違いないのだ。だって、こんなの、リーダーにだって荷が重い。車の運転ができるかどうかなんてちゃちな理由じゃない――いや、ヌイさんは案外、ほんとに車が運転できるかどうかで判断してたかもしれないが。リーダーの運転、信じられないもんな。
それでも、他のメンバーの誰でもなく俺に頼んだのは、そういうことだと、わかってしまう。
「後で、飯のひとつやふたつ奢ってくださいよ」
届かないとわかっていても、語り掛けずにはいられなかった。俺はめちゃくちゃ食べるんだ、ヌイさんの財布の中身を空っぽにしてやる。どうせヌイさんが金を使うところなんてほとんどないのだし、経済を回すのだから悪い話じゃないだろう。きっと。
「あーめっちゃ何か言われてそう。後で聞くわ。そのためにもきちんとケリをつける。アタシだって、タダ働きは好きじゃないんだけど」
ヌイさんは言いながら、足を止める。そこにあったのは、扉だった。この場合は言葉通りの扉。内臓めいた気色悪い風景の中で、不自然なまでのマンションの扉。違和感しかない金属製のドアノブに、ヌイさんは迷うことなく手をかけて、
「後始末くらいは、していかないとね」
――開け放つ。
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 06:19:34〔116日前〕 残響夜行 <7627文字> 編集
――ヌイさんは、本名を|不知火諒《しらぬい りょう》という。
不知火、だから「ヌイさん」。あだ名はリーダー曰く「ヌイさん本人がそう呼べと言ったから」で、俺も成り行きでヌイさんと呼んでいる。本人が嫌がっていないから、まあいいのだろう。
ヌイさんの経歴は俺たちプロジェクトメンバーの中でも異色で、つい数年前まではフリーランスのシステムエンジニアだった、というのは聞いたことがある。つまり、『異界』の存在などまるで知らないまま生きてきたし、そのまま生きていくはずだったのだ。俺たち以外の大多数と同様に。
しかし、現実は違った。
俺も直接ヌイさんから詳細を聞いたことはない。ただ、リーダーやサブリーダーの話している内容を聞く限り、ヌイさんは、数年前に『異界』に接触したらしい。もっと正確に言うならば、『異界』からの来訪者に。
それだけでも異界研究者となる理由としては十分といえる。俺のように直接の接点がなくとも『異界』に興味を持ってこの道に進む奴がいるのだから、ヌイさんだってそういう道を辿ることになったとして、何ら不思議ではない。
しかし、ヌイさんの場合、俺とは事情が違う。
ヌイさんは単に『異界』からの来訪者に接触しただけではなく、何らかの干渉を受けたという。「干渉」の内訳は不明だが、結果としてヌイさんは「人知を超えた知識」を得た。|得てしまった《、、、、、、》と言った方がいいかもしれない。
俺たち異界研究者は『異界』についてある程度の知識を有しているが、今まで『異界』に直接アプローチをする術を持たなかった。そこを一気に打開したのがヌイさんの持つ知識と技術だ。|技術担当者《エンジニア》としてプロジェクトに招かれたヌイさんは、人間を『こちら側』から『異界』に送り込む異界潜航装置を開発してみせたのだ。
つまり、俺たちの研究は今となってはヌイさんがいなければ立ち行かない。ヌイさん招致以前のプロジェクトに戻ることは、もはやありえないのだ。そのくらい、ヌイさんの存在は大きい。
ただし、代償も大きかった。それがヌイさんが|得てしまった《、、、、、、》知識の本質だ。
|人知を超えた《、、、、、、》知識、というからには、それは人間が理解できうるものではないし、理解してはいけないものだ。だが、ヌイさんはそれを余すところなく与えられてしまった。ひとたび知ってしまった以上、知らなかった頃に戻ることはできない。
つまるところ、ヌイさんの頭の中はまともな人間のそれではない。本来ならば適切な治療と静養を必要とする類の――もっとはっきり言ってしまえば「気が触れている」のだ。
俺たちがヌイさんの言うことを理解できないのは当然だ。ヌイさんの知識は正気ではなく狂気の領域にある。理解するには同じ領域に足を踏み込まねばならないし、ヌイさんは「やめた方がいい」と真剣に言う。「そんな思いをするのは、アタシ一人で十分だから」と。
もはやヌイさんの目には俺とは違うものが映っている。ヌイさんの耳には俺には聞こえない何かが聞こえている。ヌイさんは、それを必死に取捨選択して、なんとか俺たちと足並みを揃えている。「まともな人間のふり」をしている。そうしなければ、『こちら側』で生きてはいかれないから。
それは、俺にはわからないヌイさんだけの苦悩だ。時折ヌイさん自身にも予測できない発作で苦しんでいるところからも、十二分に察することができる。
それでもヌイさんはここにいる。
俺たちのプロジェクトに力を貸すことが、己の使命であると思い極めている。
まあ、今のアタシにはそのくらいしかできることがないからね、とかつて俺に語ったヌイさんは、酷く顔色は悪かったけれど、どこか誇らしげで。俺は、そういうヌイさんのことを、それなりに好ましく思っているわけだ。
車一つが通れる程度にバリケードをずらし、改めて車を発進させる。
徐行運転で少し進んでみれば、すぐにここがまともな場所でないことはわかってきた。空がゆっくりと色を変えていく。曇ってくる、などという生やさしい変化ではない、明らかに異様な緑と紫の渦。
周りの風景も、ぱっと見はただの住宅地に見えるが、いたるところが歪み、奇妙な形にねじくれている。人の気配がまるでないのは、おそらく、既にこの土地から退去しているためだろう。そう思わないと恐ろしすぎる。
今まで資料ではいくつか目にしていたが、実際にこの目で見たことはなかった『こちら側』と『異界』が混ざり合う光景に、うっすら気分が悪くなってくる。
「結局、何があったんですか、ここで」
助手席で沈黙を守るヌイさんに、声をかける。ヌイさんは「うーん」と唸って、それから口を開く。
「どこから話したもんかなと思ってたんだけど。もっちーは、アタシがどうしてプロジェクトにいるのか、くらいは知ってたっけ」
「直接教えてもらったことはないっすけど、『異界』の存在と接触して、頭を弄くられて『異界』の知識を得た。その経験を見込まれて、リーダーにプロジェクトメンバーとして招かれたんすよね」
「そこまで知ってりゃ説明はいらないわね。で、ここはアタシが前に住んでた場所」
「プロジェクトに誘われる前に?」
「そゆこと」
今のヌイさんに家らしい家はない。研究所に暮らしているから。ヌイさんには常に監視が必要なのだ。時に自分でも制御できない狂気に陥るヌイさんを、必ず誰かが止めなければならない。その点、常に誰かしらが詰めている研究所は都合がよい、ということらしい。
では、『異界』の存在と接触する前――そして、接触してから研究所に招かれるまでのヌイさんはどこに暮らしていたのか。
その答えがこれだ。
「元々はこんな場所じゃなかったんだけど、あー、その、過去のアタシがやらかしましてぇ」
「やらかしたって、何を?」
「異界潜航装置のプロトタイプを野放しにしたのよ。当時のアタシは『異界』に潜る方法を単純に考えてた。『こちら側』への影響と『帰還する』システムの考慮がない、一方通行の『異界』への突入口を開き続けるっていうはた迷惑な代物」
それは「やらかし」なんて言葉では収まらない、もはや人為的な災害というやつだ。人類は未だ『異界』をろくに知らず、『異界』への扉を開ける方法もわからなければ、当然閉める方法も知り得ないのだから。
ただ、これに関しては、今のヌイさんを責めても仕方ない。
「……その時のヌイさんには、ろくに判断できなかったんすよね。そりゃ、しゃーない話っすよ」
今、俺と話してるヌイさんは、まだ話が通じる。だが、リーダーが出会った頃のヌイさんはほとんど意志疎通が不可能だったという。リーダーが根気よく話を聞いて、やっとヌイさんの抱えている事情がかろうじて見えてきて。それから長期の治療と療養を経てやっと意味の通る話ができるくらいになったということだから、当時のヌイさんに正常な判断が不可能だったことくらいは、俺にだってわかる。
だからこそ、今のヌイさんが、過去の自分の後始末に挑もうとしていることも。
「ありがと」
ヌイさんは少しだけ笑った。それからすぐに表情を引き締めて話を続ける。
「プロトタイプそのものが今も同じように動いてるかはわかんない。ただ、この様子だと『異界』への扉は開き続けてるし、下手するとこれ以上の規模になる可能性もある。アタシが前に見たときより侵食の規模がでかくなってるから、そう見当違いの推測でもないはずよ」
確かに、カーナビが示す目的地からまだ多少の距離がある。「目的地」がかつてのヌイさんの家であることはもはや疑いようもないが、そこから『異界』の影響がこんな場所にまで及んでいることにぞっとする。
「だから、ずっと『異界』の入口を閉ざす方法を考えてた。できる、とは思ってたけど、それなりに穏便なやり方を模索してた」
それなりに穏便、というのがヌイさんのなけなしの理性といえる。周りへの影響を考えなければいくらでもやりようはある、ということだから。
「で、『それなりに穏便な』やり方が見つかった、ってことすか」
「やり方自体は荒っぽいけど、アタシ一人が覚悟決めれば、最高に穏便」
その言い方には、ものすごく嫌な予感がした。
「何、する気なんすか?」
「難しいことじゃないわよ、プロトタイプの機能を逆転させる。ただ、仕組みを詳しく説明するともっちーのメンタルに悪いから割愛」
要するにヌイさんにしか理解しえない|人知を超えた《、、、、、、》領域の話ってことだ。ただ、ヌイさんの発言の問題点はそこではない。
「そのやり方は、ヌイさんに危険があるってことすか」
「ん、いつもやってることを、アタシがやるだけよ」
俺らがいつもやってること。それは――。
「『潜航』、っすか」
「そう。大したことじゃないでしょ?」
俺たちが『潜航』という言葉を使うときは、『異界』に潜るということ。一言で言えばそうなのだが、そこにはいくつもの課題が存在する。
例えば、『異界』から無事に帰ってくる方法だとか。『異界』で危険に陥ったときに即座に退避する方法だとか。目の前に『異界』がある以上、単に向かうだけなら不可能はないが、伴う問題点を考慮していなければ片手落ちだ。
「潜航装置もないのに……、いや、後ろの荷物がそれっすか?」
「ご名答」
布のかけられた、妙に大きな金属の箱。ヌイさんと俺とで運びこんだもの。だが、それは。
「潜航装置にしては小型すぎやしません?」
俺が普段、プロジェクトで目にしている異界潜航装置は、天井にも届きそうなサーバーラックいっぱいに収まるコンピューターの形をしている。なお、その中身は俺も詳しくは知らない。ヌイさんの手がけたものを他人が理解できないのは当然ゆえに。とはいえ、その大きさがヌイさん視点で「必要不可欠」であることは推測できる。つまり、ヌイさんであっても簡単に小型化できるものではない、はずなのだが。
「目の付け所がいいわね。そう、これは、通常の潜航装置からいくつか機能をオミットしてる。『異界』を探し出して、突入口を開く仕組みとかね」
なるほど、確かに今回のように既に扉が開いているなら、わざわざ『異界』を探査する機能も、入口を作る機能も必要ない。実のところ「異界潜航装置」と言っても『潜航』そのものより「探査」と「突入」にかなりのリソースを割く羽目になっている、というのは以前からヌイさんが愚痴っていたことだ。
「そろそろ停めて。これ以上は危険かも」
ヌイさんの声に、慌ててブレーキを踏む。ミラー越しに背後を見れば、来た道はかろうじて『こちら側』の見た目を維持しているが、今にも周囲の歪みに巻き込まれて消えてしまいそうだ。
「でも、まだ目的地までちょっとありますよ」
「ここからは潜航装置を使うわ。もっちー、前までコード延ばすから受け取ってくれる?」
俺が返事するよりも先に、ヌイさんは車を降りて、後ろに載せた装置の準備を始めてしまった。装置を稼動させるには、どうやら一緒に積み込んだポータブル電源を用いるらしい。どうしてこんなオカルト装置に電気が必要なのかは永遠の謎だ。ヌイさんに聞けば答えてくれるのだろうが、下手に聞いてこっちまで頭をやられたら話にならない。
ヌイさんの指示に従って、装置から延びる何本かの細いコードを運転席まで手繰り寄せる。そのうちいくつかは先端がシール状になっているところを見るに、これを体に貼り付けて『潜航』を行うつもりなのだろう。ここは普段俺たちが使っている潜航装置と同じ仕組みと見える。
そもそも、俺たちが『異界』へ潜るのに必要な手続きは大きく二つ。
一つ目は、『異界』の探査と突入口の生成。俺たちには知覚できない次元において、数多の『異界』が『こちら側』に近づいたり離れたりしている。その座標を特定し、アンカーを打って『こちら側』との道筋を作る手続きが必要だ。ただし今回は『こちら側』と繋がった『異界』が目前にある、というイレギュラーケースなので、この手順は割愛される。
二つ目は、『潜航』そのものになるが、『潜航』に生身の人間を使わないのが俺たちのやり方、というか、潜航装置を作ったヌイさんの方針だ。ヌイさんは人間の肉体と意識とを切り離し、その上で意識だけを『異界』に送り込む仕組みを作った。これは、人間の肉体と意識との間にある密接なつながりを利用しており、もし意識が危険にさらされた場合、一気に『こちら側』の肉体に引き戻すことが可能、という利点がある。
このイレギュラーな『潜航』でも、ヌイさんは意識体だけをここから先のエリアに向かわせるつもりとみえる、が――。
その時、後ろから馬鹿でかいファンの音が聞こえてきた。どうやら装置が無事に起動したらしい。潜航装置は、具体的な仕組みはともかくそれぞれの部品だけの話をするなら精密機器なので、適切な冷却が必要なのだ。
「オーケイ、始めましょう?」
ヌイさんが助手席に戻ってきて、シールのついていない何本かのコードを、手にしたタブレット端末から延びるタップに差し込む。ヌイさんの指先が素早く何度か画面を叩いたところで、タブレットを投げ渡される。
「観測、お願い」
見慣れた画面だ。仕事で使っている潜航装置のコンソールと、全く同じ。
指先が冷える。いくら仕事と同じことをこの場でやるだけ、とはいえ。
「ヌイさん。……ほんとに、やるつもりなんすか」
そう、言わずにはいられなかった。
ヌイさんは、大したことじゃないと言った。だが、覚悟を要するとも。そう、俺たちにとって、『潜航』とはそういうものだ。
意識と肉体を切り離すことによって、いざという時の引き上げが可能になったのは事実。だが、『異界』におけるあらゆる危険が避けられるわけではない。意識体が「傷ついた」と認識すれば当然苦痛を感じるし、意識がひとたび「死」を認識してしまえば、リンクする肉体も当然死に至る。
だから、通常、俺たちプロジェクトメンバーが『潜航』することはあり得ない。『潜航』のために選ばれた、使い捨ての、体のいい人柱である異界潜航サンプルが『異界』に赴くのだ。使い捨てと言いつつ、初代のサンプルはほぼ毎日『潜航』を行いながら二年生き延びたわけだが。あのおっさんがあまりにも優秀すぎたので、リーダーは次のサンプルの選定に頭を悩ませている。
とにかく、ヌイさんが『異界』に赴くのは、いくら正規の手順を踏んだところで危険を伴う。
「なーに、心配?」
ヌイさんは歯並びの悪い歯を見せて、笑う。
何しろ、替えの利かない人員であるヌイさんを欠くということは、俺たちのプロジェクトにとってどうしようもない損失だ。
――それ以上に。
「ヌイさんがいなくなったら、研究室が寂しくなりますからね」
俺は、その程度には、ヌイさんを気に入っている。
ただでさえ大きな目を見開いたヌイさんは、一拍遅れて心底愉快そうに言う。
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃない、もっちーったら」
ヌイさんは極めて正直なひとで、「嬉しい」と言った以上は皮肉でもなんでもないとわかるだけに、背中がこそばゆくなる。思わず身を縮める俺に笑いかけてくるヌイさんは、相変わらずちょっと怖いツラをしていたけれど。
「アタシだって、ここで終わらせる気はさらさらない。だから、もしもの時は、頼んだわよ」
そう言って、真っ直ぐな目で、俺に命綱を握らせてくる。
俺たちの仕事では、異界潜航サンプルの引き上げはリーダーの役目だ。俺は潜航装置の操作とログの監視を担当しているが、『潜航』中止の決断はリーダーの一存である。だから、こんな形で、人の命綱を握らされることになろうとは思ってもみなかった。
嫌だ、という気持ちが無いと言ったら嘘になる。流石にヌイさんが率先して動いたこの状況で、俺だけが責任を取らされることは無いと思うが、俺の判断ミスでヌイさんに何かが起こるのは、単純に寝覚めが悪い。
「ちょっとでもヤバかったら引き上げますよ」
「それでいいわ。その時はダメだったってお上に報告するだけだしね」
軽い調子で言うヌイさんに、まるで気負いというものはなさそうだった。危険に自分から飛び込んでいこうというのに、どこか浮足立っているようですらある。
いや、それはそれでわからなくもないのだが。
俺たちは結局のところ異界研究者であって、自ら『異界』の地を踏むことに、多少なりとも高揚しないといったら、嘘になるのだ。
ヌイさんがどうして『異界』とその住人に触れることになったのか、どうして俺たちのプロジェクトに参加する気になったのか、結局のところ俺は何も知らない。
知らないけれど、ヌイさんにとってその出会いが特別な経験で――それこそ取り返しのつかない狂気に陥りながら、なお、目を背けることなく『異界』に関わり続ける程度のモチベーションであることには、違いがないのだから。
「じゃ、よろしくね」
あっけらかんと笑うヌイさんに、俺は、肩を竦めて返した。
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 06:19:20〔116日前〕 残響夜行 <6996文字> 編集
ばりぼりばりぼり。助手席から聞こえてくる派手な音に、思わず溜息が出る。
「あの」
「なーに」
「人の車で遠慮なく菓子貪るのやめてくれません?」
「いいじゃないの、汚さないようには気ぃ遣ってるし。ひとついる?」
「いただきます」
赤信号で停止したところで、スティック型のスナック菓子が差し出される。油で揚げたタイプのスナックを持ち込まなかったあたり、「気を遣っている」という言葉は嘘でもないらしい。かろうじて。
受け取った菓子をぽりぽりと咀嚼しながら、助手席を見やる。すると、ヌイさんのぎょろりとした目とばっちり視線が合う。
「何よ」
「いや、何で俺、ヌイさんとドライブデートしてんのかなぁって」
「いきなり我に返らないでくれる? どうせ愛するカノジョは用事あったんでしょ、ならたまには仕事仲間のお願いにも付き合うもんよ」
そりゃそうなんですけど、と二度目の溜息を吐く俺に、ヌイさんはにこりと笑いかけてくる。本人の中では精いっぱいの「かわいい笑顔」のつもりなのかもしれないが、どう見ても悪魔じみている。頬骨の張った輪郭に肉付きの悪い頬、その血色がよかった日を俺は知らない。低い鼻と薄い唇という平坦な顔の中で、双眸だけが妙に大きく、かつ、ぎらぎらと強い光を宿している。悪魔、そうでなきゃ飢えた獣。そんな、貧相かつ不気味なおっさんであるヌイさんは、もう一つスナック菓子を差し出してくる。
「それとも、何? あずみに頼んだ方がよかったかしら?」
その口から放たれるのは、面構えにさっぱり似合わないベタベタな女言葉。声変わりを中途半端に経験したかのような高めの掠れ声が、更にぱっと見の印象を裏切っている。
スナック菓子を今度は大きめに一口。ヌイさんに倣って大げさな音を立てて噛みしめながら。
「リーダーに頼むのは完全に命知らずっすよ」
我らがプロジェクトリーダーの、見た目だけなら「クールビューティー」と言うべき凛とした姿を脳裏に描く。お世辞を抜きにしてとびきりの美女で、広い知識とよく回る頭を持つ切れ者で、俺たちのような奇人変人を束ねるリーダーシップも兼ね備える立派な人物だと思うが、あの人が車を無事故で運転できるかと問われれば、絶対に否と言い切れる。実際に乗ったことがなくても断言できる。そういう人だ。
「わかってて言ってんのよ。っつーかあいつが免許持ってるの未だに信じらんない」
「免許取るまでに何人轢き殺したんすかね」
「ねえ? 担当の教官がかわいそうだわ」
もちろん「轢き殺した」というのは言葉の綾だが、そうであってもおかしくはない、と思わせるほどの鈍くささ。あの人がどうやって免許を取ったのかは当プロジェクトの七不思議の一つだ。
「っつーか、今更ですけど、ヌイさんは免許持ってないんすか」
「持ってたわよ、取り上げられたけど」
「あー……」
確かに、ヌイさんはリーダーよりはよっぽど上手くやるだろうが、リーダーとは全く別の理由でハンドルを握らせたくない。取り上げられたのも、つまりそういうことだろう、きっと。
「信号、変わってるわよー」
いつの間にか、進行方向の信号が変わっていたようだ。一旦ヌイさんから正面に意識を戻す。相変わらず横からはばりばりとヌイさんがスナック菓子を貪る音が聞こえてくるが、この際気にしないことにした。本人が「気を遣っている」と言った以上は食べかすをまき散らすような真似もしないだろう、と信じて。
ヌイさんは俺の同僚というか、プロジェクトに参画した時期では二、三年ほど先輩に当たる|技術担当者《エンジニア》だ。ただ、この業界の研究では俺の方が断然経歴が長いこともあり、先輩というよりは年上の同僚、というのがヌイさんに対する俺の認識。ヌイさんから俺に対する認識もそう変わらないだろう。
口が裂けても友人とは言い難い、単なる仕事仲間。ただ、共にいてそれなりに心地いい、適切な距離を保った関係、と言うのが正しいか。彼女にまつわる話を蛇蝎のごとく嫌って聞いてくれない以外は、とても気安く話しやすい同僚。ヌイさんとは、そういう人だ。
ただ、いくら話しやすいからといって、お互いに全てを曝け出すような関係でもないのは、そうで。
「で、これからどこに何しに行く気なんすか。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないすか?」
俺は、ヌイさんがわざわざ休日に呼び出してきた理由を、何一つ知らないままここにいる。
次の休日に車を出してくれない? と声をかけてきたヌイさんは、言葉こそ軽い調子だったが、やけにシリアスな目をしていた。普段から研究所に住み込んでいるヌイさんが、自ら敷地の外に足を運ぼうとするのは珍しい。大概のことなら研究所で十分、と常日頃から豪語しているヌイさんだから、余計にそう思うのかもしれない。
当然ながら頼まれた時点で目的を問いはしたが、上手く誤魔化されてしまったのだ。ひとたびヌイさんのペースに乗せられればそこから逃れるのは至難の業で、あれよという間に今日この日に車を出すことを了承させられてしまったのだった。もちろんこれは、「ヌイさんならそうそう悪いようにはしないだろう」という信頼あってのものだが。この人はちょっと頭はおかしいが、自他にとって極端に不利益になることは嫌うから。
だから、今度こそ教えてもらえると思ったのだが――。
「着けばわかるわ」
と、つれないものだ。
「でも、何かあるような場所じゃねっすよね、行先」
ヌイさんがカーナビに打ち込んだ住所と、住所から割り出された目的地の地図を見る限り、単なる住宅街だ。周辺に目立った施設があるようにも見えないし、ヌイさんが何を思ってその場所を指定しているのか、全く想像がつかない。
「後ろに積んだのも何だか教えてもらえてないし。秘密主義は嫌われますぜ」
「だって、口で説明するより見てもらった方が早いんだもの。どうせ、あと十分足らずでわかるんだし」
確かに、カーナビの音声と現在位置とを照らし合わせれば、目的地まではそう遠くない。
車間距離と速度が問題ないことを確かめて、一瞬だけヌイさんに視線をやる。窓に肘をついた姿勢で真っ直ぐに前を見ているヌイさんの横顔は、いつになく険しい。こんな顔をしているヌイさんを見るのは、リーダーがヌイさんの作った装置の電源ケーブルに足を引っかけてあわや大惨事となりかけた時以来かもしれない。あの人、ろくなことしないな。
「ちゃんと前見なさいよ、危ないわね」
ヌイさんは依然として前を見たままだったが、こちらの視線には気づいていたらしく、呆れた調子で言う。
「カノジョと一緒ならともかく、こんな頭のおかしいおっさんと事故死するのは嫌でしょ、あんたも」
「嫌っすねえ」
というか、彼女と事故死するのだって当然嫌だ。嫌さの質が違う。
視線を前に戻して運転を続ける。カーナビはしばらく直進を指示しているのだが、何とはなしに様子がおかしくなってきた。
「この先、通行止め……?」
カーナビの示す道は、更に真っ直ぐ続いている。目的地まで、もう少し距離があるはずだ。だが、「通行止め」という看板を見つけて、そこから少し走ったところで、ブレーキを踏むことになる。
目につく色で書かれた「通行止め」と「危険、立ち入り禁止」の看板。そして、道路を塞ぐようにバリケードが設置されている。立ち入り禁止の理由を見る限り、バリケードの先のエリアが地盤沈下により侵入不可ということで、これは別の道を通ったとしても無駄だろう。
「ヌイさん、」
言いかけたところで、ばたん、と音がした。見れば、ヌイさんが助手席から降りて扉を閉めたところだった。そして、つかつかとバリケードの方に向かっていったかと思うと、突然バリケードをむんずと掴んで引きずり始めた。
「ちょっ、何してんすかヌイさん!?」
慌てて車を降りれば、ヌイさんがきょとんとした顔を向けてくる。
「邪魔だからどかしてんのよ。もっちーも手伝ってくれる? 思ったより重くてさあ」
確かにバリケードは大きく、重さもかなりのものだろう。下手な女性より小柄かつ華奢なヌイさん一人で運ぶのは至難だ。
しかし、手伝え、と言われても。
「この先立ち入り禁止だって書いてあるじゃねっすか。もしかして、文字も読めなくなりました?」
「もっちーったら、随分皮肉が上手くなったわね」
いや、ヌイさんの場合は本当に文字が読めていないことがあるから。そういう時はまず静かな場所で休ませないといけないのだが、どうやらこの反応を見るに、わかってやっているらしい。
「アタシ、この先に用があんのよ」
「でも、絶対危険でしょ」
これだけ大げさにバリケードで封じられているし、地盤沈下という封鎖理由も物々しい。正直なところ、ヌイさんが行きたいと言うのは自由だが、俺を巻き込むのはやめてほしい。
俺が渋っているのを察してか、ヌイさんは一体どこの通販ショップで仕入れたのか、ぶかぶかの派手なスニーカー履きの足でこちらに歩み寄ると、腰に手を当ててこちらを見上げてくる。
「ここから先が『異界』だと言っても?」
「……は?」
「地盤沈下ってのは表向きの理由。この先には、『異界』の入口がある」
――『異界』。
|此岸《しがん》に対する|彼岸《ひがん》、数多の神話で語られる天国や地獄、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。つまり「ここではないどこか」を十把一絡げにした雑極まりない呼称、それが『異界』だ。
そんなもの夢物語だろう、と言われれば、肩を竦めざるを得ない。しかし、古くから人が『異界』に迷い込む「神隠し」と呼ばれる現象は存在しているし、逆に『異界』からの来訪者とされる神や悪魔、妖怪といった存在も語り継がれている。つまり『異界』が|存在しない《、、、、、》と言い切ることは、誰にもできやしないのだ。無いということを証明するのは、いつだってあることを証明するより難しい。
なおかつ、俺たちは、『異界』が現実に存在すると知っている。
この国は、実は一般的な国民の目には触れない形で『異界』の研究をしている。『異界』の存在を知る国の上層部は、数多の『異界』のデータを取得することで『異界』の有用性を確かめようとしているのだ。その、ちょっとした国家機密といえる異界研究プロジェクトの一員が、ヌイさんであり、俺であるわけだが。
「マジすか」
「マジよマジ、大マジ」
その言い方で信じてもらえるとでも思っているのか、と溜息が止まらない。だが、ヌイさんが「マジ」というなら、それは絶対にマジなのもわかってしまう。この人は、冗談を言うことはあっても決して嘘をつかない。
「じゃあ、このバリケードは、『神隠し』防止ってことすか」
俺たちは「神隠し」を『こちら側』から『異界』へ迷い込む現象と定義している。人為的に『異界』への道筋を作るのは難しいが、偶発的に『異界』が『こちら側』と接続することはそれなりによくある現象で、そのタイミングで『異界』に迷い込み、戻ってこられなくなる人間は相当数存在すると言われる。
そう、俺の親父も――、と、浮かびかかったイメージを頭の一振りで打ち払っていると、ヌイさんが「そうよ」とバリケードの向こう側に視線を投げかける。
「お上も、『異界』への扉をどうにかするのは難しいからって、今まで物理的な人除けで何とかしてたの。まー、無理に侵入して神隠しに遭ったら、そりゃ自己責任だしね?」
ヌイさんの言う「お上」とはもちろん俺らの上司、つまり『異界』の存在を知る国のお偉方だ。国民を混乱させないために、という理由で『異界』の実在を隠蔽するわりにそのやり方が杜撰であることは俺らの間では周知の事実。目の前のバリケードだって、その一つ。確かに一定の効果はあるだろう、俺みたいな真面目で善良な一般国民に向けては。ただ、好奇心やら何やらに負けて入り込む連中の責任までは取ってくれない。自己責任とは便利な言葉だが、まさか別の世界に迷いこんで帰ってこられなくなる、なんて誰が想像するのだろう。
まあ、その辺りは俺が考えることではなく、お偉方がどうにかすることだ。俺たちの仕事はあくまで『異界』を観測してデータを取り、解析することで、それ以上でも以下でもない。
だから、目下俺が向き合うべきは、今この場における話。
「……ヌイさん、この先で、何しようとしてるんです?」
猛烈に嫌な予感がする。
その「嫌な予感」を裏付けるように、ヌイさんは、にこりと――悪魔めいた笑みを浮かべる。
「お上の悩みを解決しようって言ってんのよ」
それは、つまり。
この先で発生しているという『異界』への入口を閉ざす、ということ。
「できるんすか、そんなん」
少なくとも俺は聞いたことがない。『こちら側』から『異界』への突入口を探り当てるのはヌイさんの十八番だが、恒常的に存在する『異界』への入口を閉じる方法というのは、今まで聞いたことがない。『こちら側』と『異界』の接続は基本的には不安定で、俺たちの実験においては無理やりこじ開けても勝手に閉じるものであるから意識したことがない、ということでもあるが。
ヌイさんはバリケードに寄りかかって、小さな手を振る。
「試算では七割くらい。机上の計算なんてあてにならないけど」
どうやって、には言及しないし、仔細を説明されたとして俺には理解できないことは、お互いによく知っている。ヌイさんの思考回路は、ちょっと理解の及ばない範囲にあるから。その「理解の及ばなさ」こそがヌイさんをプロジェクトの精鋭たらしめているのも事実で、俺はそこに口を挟むべきではない。
「でも、仮にできるとして、ヌイさんに何の得があるんすか」
「何一つ得はしないけど、起こしたことに対する責任はあるのよ。何せこうなったの、アタシのせいだからさ」
「はぁ?」
「ってわけで、どかすの、手伝ってくれる?」
話が戻ってきた。「それ以上の話はバリケードをどかしてから」とヌイさんの目が語っている。
俺は、ここで引き返すこともできたはずだ。
ここで嫌だと言えば、ヌイさんは絶対に強制しなかっただろうし、嫌な顔もしなかっただろう。無理強いをするくらいなら自分が退く、その程度には話のわかる人だ。
しかし、気づけば自分からバリケードに手をかけていた。
結局のところ、俺は好奇心に勝てなかった。
このバリケードの先に『異界』があると聞かされて。その原因がヌイさんにあると聞かされて。この先に何があるのか、ヌイさんが何をしたのか、知りたいと思ってしまったのだ。
by admin. ⌚2024年8月3日(土) 06:18:49〔116日前〕 残響夜行 <5984文字> 編集
途端、何かが、扉の向こうからあふれ出す。
それを何と形容すべきか、俺にはわからなかった。色も形も定まらない、質量があるかどうかもヌイさんの視界越しには判断できない、けれどヌイさんを圧倒するほどの力をもって存在するらしい、何か。
もはや濁流というべきそれは、ヌイさんの元より小さな体を押し流そうとする。それでも、ヌイさんは不安定な床を踏みしめ、壁にしがみつき、じりじりと前に進んでいく。
ヌイさんの視界のほとんどを埋める濁流によって判別しづらいが、扉の向こう側は、さほど大きくもない空間であるらしい。おそらく、「かつてのヌイさんが住んでいた部屋」。見かけは変容してしまったが、まだ、間取りそれ自体は『こちら側』のそれを維持しているらしい。
つまり、この、無限にあふれ出てくる何らかは、侵食する『異界』そのものと言うべきもの、なのかもしれない。この部屋の奥にあるであろう、ヌイさんお手製の異界潜航装置のプロトタイプは、今もなお『異界』の扉を開き『こちら側』を侵食し続けている。
もはや壁にしがみつくのも諦めたのか、身体を低くして、ほとんど床を這うようにして、ヌイさんは何とか奥へと進んでいく。視界に入る手に、形容しがたい何かが絡みつく。そこから、肌の色がゆっくりと変化し始める。ヌイさんの意識体があるべき形を失おうとしているのが、わかってしまう。
思わず、意識体を引き戻すシーケンスを開始しようと、タブレットの上に指を滑らせた――ことを、ヌイさんが気づいたはずもない。けれど、俺の動揺を読み切ったかのように、溢れる轟音の中にヌイさんの鋭い声が聞こえてくる。
「まだ問題ない! もっちー、意識体の変化率を確認して。いつもの水準以上、もしくはアタシが変な行動し出したら引き上げて」
プロジェクトで行っている『潜航』でも、意識体が『異界』によって何らかの影響を与えられ、変化を見せることは当然あって、それを監視するための機構も当然備わっている。ヌイさんの言葉の通り、意識体の変化率を監視する画面を開く。まだ数パーセントにも満たないが、既に数パーセントの変化が起こっている、と言っても過言ではない。
意識があるべき形から変化してしまってからでは、そして、ヌイさんが狂ってしまってからでは、遅いのだ。つまり、ヌイさんの指示は何一つ正しくない。正しくないとわかっていながら、俺は、すぐさま引き上げシーケンスを行えずにいた。
ヌイさんはありとあらゆる色を混ぜ合わせた波をかき分けるように前進し続け、「あった」と掠れた声で言う。
ヌイさんの視線の先には、タワー型のコンピューターをいくつか繋いだような形の装置。一瞬そんなシルエットが見えた、というだけで実態は定かではない。何しろそこを中心に濁流が発生しているのだから。
――異界潜航装置の、プロトタイプ。
プロトタイプとは言うが、現在運用している潜航装置とは方式が違うだけで、『異界』への扉を開く、という本来の目的に関しては現在進行形で完璧にこなしている、もの。
ヌイさんが、何をしようとしているのかはわからない。ただ、肩からかけた鞄から端末を取り出し、手探りで装置に繋いだのはわかった。その間にも不定形の何かがヌイさんの手に絡みつき、染み込み、ヌイさんの脆弱な意識を『異界』の色に染め上げようとする。
顔にも降りかかるそれを手の甲で拭いながら、ヌイさんは一心不乱に端末を操作する。視界がちらついて、端末の画面もろくに見えない。俺に見えてないのだから、当然視界の主であるヌイさんにだって見えていないはずだ。それでもヌイさんは手を止めない。
タブレットの端に表示させた、意識体の変化率はぐんぐん上昇している。まだ命綱を引き上げる条件には至っていないが、このままのペースで続ければ確実に『異界』に飲み込まれる。仮に飲み込まれなかったとしても、ひとたび意識体が変化してしまえば、意識を引き上げて肉体に戻したところで、元のヌイさんではなくなっているだろうし、二度と戻ることもない。俺が、『異界』の存在に接触する前のヌイさんを知り得ないように。
ヌイさんがそれを理解していないとは思えないが、なおもオペレーションを続ける。ヌイさんの聴覚が捉える轟音とノイズでよく聞こえないが、どうも手を動かしながら何かをぶつぶつと呟いているようだった。とはいえ、これはよく聞こえなくて幸いだったのかもしれない。ヌイさんの持つ知識を下手に受け取るのは「メンタルに悪い」。つまるところ、正気の領域にない可能性が高い。
だが、変化率が、『潜航』における上限値を振り切る。時間切れだ。俺は引き上げシーケンスを開始しようとして――。
「通った!」
全ての雑音を貫くヌイさんの甲高い声。
刹那、あれだけうるさく響いていた音が止み、視界を埋め尽くしていた無数の色彩も、ぴたりと静止する。まるで、そこだけ時間が止まったかのよう。
もはや装置につないだ端末も、それを握るヌイさんの手も、元の形を失いつつあった。ひゅうひゅうと嫌な呼吸の音が聞こえてくるところを見るに、体にも影響が及んでいるのは間違いなさそうだ。
何もかもが静止した世界で、ヌイさんだけが生きてそこに存在している。
おそらく、ヌイさんは潜航装置への干渉に成功したのだ。そして、際限なく広がっていた『異界』の動きを止めるような何がしかの操作を行ったのだと、思っていたが。
静止していたのは、たった数拍のこと。
突如、視界を埋める色彩が爆発的な音とともに動き出す。先程の濁流よりもさらに激しい勢いで、今度は逆方向に流れ出す。つまり、目の前の異界潜航装置が、何もかもを吸い込もうとしているかのような挙動に変化したのだ。
そういえば、さっきヌイさんは言っていた。装置の働きを逆転させるのだ、と。その言葉通りに、溢れていた『異界』が逆再生じみた挙動で本来あるべき場所へと収束していく。その場にいるヌイさんをも巻き込んで――!
ヌイさんは手にした端末を投げ捨て、床にしがみつきながら叫ぶ。
「もっちー! 引き上げて!」
その叫び声を聞くのとほぼ同時に、引き上げシーケンスを開始していた。シーケンスの開始とともに、ヌイさんの視界を映していた画面が暗転し、音声の取得も止まる。
引き上げシーケンスとは、肉体と意識との目に見えない結びつきを利用し、空間的な隔たりを無視して強制的に意識を肉体へと引き戻す、荒っぽいにもほどがあるシーケンスだ。
しかし、流石、異界潜航装置の導入開始から二年もの間エラーらしいエラーを吐かなかったヌイさん謹製のシーケンスだ。着実に各フェーズをクリアしていく。画面を埋め尽くすログにも、エラーの文字はない。
そして、最後のフェーズも問題なくクリア、引き上げ完了を告げるログを吐いてタブレットの画面は静けさを取り戻す。
「ヌイさん、ヌイさん!」
タブレットを放り出し、助手席のヌイさんの肩を叩く。ヌイさんは未だ目を閉じたまま、動く気配を見せない。
「ヌイさん、聞こえてます?」
冗談じゃない、ここまで来てヌイさんが戻ってこなかったら、俺の寝覚めが悪すぎる。リーダーたちにもなんて説明すればいいんだ、と思った、その時。
「……っ、頭いったぁ……」
ヌイさんの表情が歪み、掠れきった声が乾いた唇から漏れる。どうやらログが示していたとおり、引き上げは成功していたようだ。
ヌイさんの瞼が開かれる。ぎょろりとした目の中で、ちいさな瞳がふらふらと彷徨う。
「大丈夫っすか? これ見えてます?」
ヌイさんの目の前で手を振ってやると、数秒の後に目の焦点が合った。
「見えてる。あー、頭痛いし気持ち悪いし……。X、こんなの毎日やってたの、信じらんない」
X。長らくプロジェクトが抱えていた異界潜航サンプル。今、ヌイさんが経験したような一連の『潜航』を日々こなし続けた、『潜航』のプロフェッショナルだ。超人と言い換えてもいい。本来「使い捨て」を想定していた異界潜航サンプルを、二年に渡って何一つ不足なく続けてきたのだから。
とはいえ、そのXは|お務め《、、、》を果たしていなくなった。そういう取り決めだったから。
で、当然ヌイさんはXではなく、あんなハイスペック超人と同じにするものではない。別のスペックは突き抜けているが、あくまでそれは「開発」に特化していて、別に『異界』に赴くのに向いているわけではない。
「動けそうです?」
んー、と言いながら、ヌイさんは横になったまま腕をあげて、手を握ったり開いたりする。
「めちゃめちゃだるいけど、問題はなさそう」
先程、ヌイさんの視界越しに見た、完全にあるべき形を失っていた手が脳裏に蘇るが、どうやら意識が肉体に戻ったことによって、本来の形と動きを思い出したらしい。手だけでなく、腕も足も、動かすのに支障はなさそうだ。
呻きながら起きあがろうとするヌイさんを、肩を押して制する。
「すげー顔色っすよ。しばらく安静にしててください」
「ごめーん、ありがと」
「治ったら飯のひとつやふたつ奢ってください。めちゃくちゃ冷や冷やしたんすからね?」
「オーケイオーケイ」
ひらひらと手を振るヌイさんは、顔色こそ最悪だが、声のトーンは普段と何一つ変わらない。ほんとにわかってるのか、この人。これだけ人のこと巻き込んどいてまるで悪びれる様子がないあたり、大物というかなんというか。
ヌイさんが目を閉じて大人しくなったのを確認して、窓の外を見やる。フロントガラスの外は相変わらずおかしな色の空と、おかしな住宅街。『こちら側』の人類を拒む光景が広がっている。
「……さっきので、解決したんすか?」
傍目には、何が変わったようにも見えない。先ほど、タブレット越しに見ていたヌイさんが何らかのオペレーションをしたのはわかったが、結局のところこの場で観測しているだけの俺には、何一つ実感が湧かない。
そして、ヌイさんも目を伏せたまま「わかんなーい」と声を上げる。
「想定通りの動作してたからだいじょぶとは思うけど、時間が経たないとなんとも」
時間をかけて『異界』がここまで広がったように、一度広がってしまったものをあるべき場所に押し込むのにもそれなりの時間がかかる、という試算らしい。これも結局のところ机上の計算に過ぎないから、時間の予測はしているけれどあてにならない、とはヌイさんの談。
「どうにせよ、結果がわかるのはまだ先ってことすね」
そゆこと、とヌイさんは言って深く息をつく。
「あー、お上にも報告しなきゃ……。めんどくさ。仕事でもないのにレポート書かされるのマジ勘弁なのよね」
「言っとくけど、俺は手伝わないっすからね」
「えー、もっちーったらつめたーい!」
「そりゃ全部ヌイさんが悪いっすからね。ここまで付き合ったんですから、むしろ褒めてもらいたいもんすよ」
「それはそれ、これはこれじゃない! アタシのレポートがぐだぐだなの、もっちーが一番よく知ってるでしょ!?」
ヌイさんは元より他人に見せるための資料を作るのを嫌うし、無理やり作らせても極めて下手くそだ。ものを作るために手を動かすのは好きだが、考えていることを人に伝わるように出力するのがとにかく億劫なのだという。そんなんだからいつまでも潜航装置の構造がヌイさん以外に説明できなくて、監査に「属人化」と苦い顔をされるのだ。ただ、クソ真面目にヤバい知識を出力されたらそれはそれで誰にも読ませられない禁書になりそうではあり、厄介に過ぎる。
「っつーか、案外元気っすね」
「そうね、そろそろだいじょぶそう。時間とらせたわね」
ヌイさんが体を起こす。まだ顔色はやや悪いが、意識を引き上げた直後よりは幾分マシになっているようで、ほっとする。この調子なら、研究所に帰る頃には元気すぎて鬱陶しいくらいのヌイさんに戻っていることだろう。多分。
倒していた背もたれを起こしながら、ヌイさんはぶつぶつ言う。
「落ち着いたら装置そのものも回収しないとね。悪用されても困るし」
「できねーっすよ、ヌイさん以外には」
そりゃそっか、と不敵に笑ってみせる横顔は、どこまでも普段通りのヌイさんだ。
ヌイさんが改めて助手席に収まったのを確認し、俺もシートベルトを締めてキーを差し込む。こんな奇天烈な場所に置かれていても、俺の愛車はしっかり動いてくれそうで胸を撫でおろす。こんなとこで周りと同じように歪んでしまっていたら、彼女に何て言えばいいんだ。いや、「この子、前よりかっこよくなったんじゃない?」とか言い出しそうなところはあるが。
シートベルトを締めながら、ヌイさんが「ああ、そうそう」と顔を上げる。
「今日のこと、他の連中には黙っててね、特にあずみには。上には許可取ってるけど、アタシの独断だから」
「だと思いましたよ」
だって、リーダーがあらかじめヌイさんの意図を聞いていたら絶対にリーダー自ら出向いていただろう。メンバーの責任はリーダーの責任でもある、とかなんとか言って。ついでに、人為的に開いた『異界』への興味を隠しもせずに。リーダーは極めて優秀なリーダーではあるが、結局のところそういう人だ。異界研究者には俺を含めてろくなやつがいない、というのは今に始まったことじゃない。
誰の家かもわからない民家の車庫に車を突っ込んで、切り返す。どうせもう誰も住んでいないのだ、咎める奴もいない。
「あとさ、もっちー」
「何すか?」
車の鼻先を元来た方向に向けたところで、ヌイさんを見る。ヌイさんは、未だちょっとばかり青ざめたツラながらも、妙にうきうきした調子で言う。
「久しぶりに外に出たんだし、ちょっと寄り道したいなー。この近くにハードオフがあって、ジャンク品のラインナップがなかなか」
「はいはい、今すぐ研究所に帰ってレポート書くんすよ。飯は書き終わった後に奢ってもらいますからね」
「やだー! いやぁー!」
ぎゃあぎゃあ喚くヌイさんをよそに、アクセルを踏む。もちろん、目的地は我らプロジェクトの拠点である研究所だ。
「折角外出許可出たのに! そのまま帰るなんてありえないと思わないの!? ねえ!?」
「いやー、俺はヌイさんじゃないんで」
「信じらんない! 鬼! 悪魔! もっちー!」
何なんだよその三段活用。何度目かもわからぬ溜息をついて、空っぽの住宅街を走り抜けていく。やがて、先ほど通過したものものしいバリケードが遠くに見えてくる。『異界』が完全に消えるまで時間がかかる以上はバリケードも戻しとかないと危険だな、と思ったところで、不意に、ヌイさんが口を開いた。
「ありがと、もっちー。付き合ってくれて、嬉しかった」
意外なまでに殊勝な声音に、思わずそちらを見てしまう。対向車も後続車もいないし、わき見運転を監視するような人間もこの場にはいないから、ちょっとくらいは許されると信じて。
かくして、ヌイさんは真っ直ぐに俺を見ていた。口元は少しだけ微笑んでいるように見えたけれど、その目は真剣そのものだった。
「アタシ一人で行ってもよかったんだけど。……まだ、もうちょい、『こちら側』に未練はあるからさ」
――だから、ありがとうを。
ヌイさんの言葉に、俺は、すぐには口を開くことができなかった。
そう、いつだって『異界』に行くのはそう難しくはないのだ。「行きはよいよい帰りは怖い」という古い歌のように。もしくはごっそり消えた異界研究の先人たちのように。問題はどこまでも「帰る」こと。ヌイさんが潜航装置のプロトタイプを弄ったあの瞬間、俺が引き上げなかったら、ヌイさんの意識はそのまま逆回しの渦に飲み込まれて、『こちら側』から消失していただろう。その状態から改めて引き上げが可能だったかと言われれば、正直自信がない。
ヌイさんは元よりそれを予測はしていたのだろう。だからこそ、俺という観測者を連れて来た。自分の命綱を握らせるために。
どうしようもなく勝手な人だ。振り回されるこっちの身にもなってほしい。
だが。
「どーいたしまして」
命綱を握らせていい、という程度の信頼を寄せてもらえていることは、素直に喜ばしく思ってしまう。その程度にはちょろい自覚がある。
バリケードを戻すために一旦車を降りれば、空はすっかり見慣れた色で、周囲もありきたりな『こちら側』の景色に戻っていた。滞在時間は大した時間ではなかったはずだが、なんだかとても疲れてしまった。研究所に戻ったら、ヌイさんのレポート作成を監視しながらめいっぱい甘いものを食べたい。美味い肉でもいい。とにかくカロリーが欲しい。心からそう思う。
それから――。
「ヌイさん」
「んー?」
体の動きを確かめるかのように大きく伸びをしていたヌイさんが、声だけで返事をする。下手にこちらを見られても困ったので、よかったと思う。ヌイさんの目を見ていると、何もかもを見透かされているような気がしてくるから。
「ヌイさんは、いつか、いなくなるんすかね。『こちら側』から」
ヌイさんは言った。まだ、もう少しだけ『こちら側』に未練がある、と。
では、もし、その未練がなかったら?
今日の出来事とヌイさんが語った話は、そのシミュレーションをするには十分に過ぎた。
責任感の強いヌイさんのことだ、やらかしの後始末をする、という選択は変わらなかっただろう。だが、帰り道のことは何一つ考えなかったに違いない。一人で向かって、一人で解決して、そして誰にも知られぬままに姿を消していたはずだ。ヌイさん曰くの「アレ」を探して。
かくして、ヌイさんはこちらに振り向き、「そうね」と俺の言葉をあっさり認める。
「あずみへの借りを返しきった頃には。あと、もっちーにも」
「俺?」
「世話になってる礼くらいはさせてよ、今日のことだけじゃなくてさ。アタシみたいな頭のおかしいおっさんの話に付き合ってくれるだけでも、得難い仕事仲間なんだからさ」
そう、どうしようもなく勝手だが、それはそれとして義理堅く、律儀で、クソ真面目。ヌイさんは、そういう人だ。
俺はバリケードに手をかけながら、わざと肩を竦めてみせる。
「じゃ、今日でまた貸しが一つ増えましたね」
「そ、アタシからすりゃでっかい借りよ。だから、アタシがいなくなるのは、相当先」
「ならいいんすけど。その間に、潜航装置についての資料は全部まとめといてくださいよ。監査がうるせーんすよ」
「ああーそんなの考えただけで憂鬱すぎるぅー」
見るからに「がっくり」という仕草をするヌイさんを横目に笑う。ざまあみろ、というやつだ。
まあ、もし本気で資料作成に着手するようなら、手を貸すのはやぶさかではない。今日のレポートは絶対に手伝わないと決めているが。唸るヌイさんの目の前でミニストップのアップルマンゴーパフェでも食ってやろう。そうしよう。
「ねーもっちー、飲み物くらいは買って帰ろ? 研究所の自販機、ろくなのないじゃない」
「まあ、そりゃそっすね」
本当にクソみたいなラインナップの自販機を思い出して、こっちまでげんなりする。それこそ水以外を求めるなら、敷地の外のコンビニに行った方が数百倍マシというレベル。一体どこから集めてきたんだ、あの銘柄も怪しいジュースの数々。
二人がかりでバリケードを引きずって、元の位置に戻して。人除けの物理的な結界には、もうちょっとだけ頑張ってもらうことにする。
「じゃ、行きましょ。喉乾いたし疲れたし」
言いながらも、ヌイさんはバリケードの向こう側を振り返る。このまま『異界』が完全に閉ざされた後に、この先がどうなっているのか。それは、時が過ぎなければわからないことで、今の俺にはとんと想像もつかない。
ただ、一度『異界』の存在に触れて変質したヌイさんの目には、俺に見えている以外のものが見えている――ことも、ある。だから、もしかしたら、ヌイさんは既に問いに対する答えを知っているのかもしれない。
とはいえ、今、この場でそれを聞く気にはなれなくて。
「何飲みます?」
俺が声をかければ、ヌイさんは小走りに車の方に戻ってきて、言う。
「アタシ、大吟醸がいい。最近ビールとチューハイだけで飽きてたのよね」
「ふざけんなよレポート書けよ」
「酒飲みながらでも書けるわよ! ほら今日は時間外だしさぁ、許されるって」
ヌイさんの言うことをいちいち真に受けていたら話が進まない。それなりの付き合いになったし、これからも長い付き合いになる、ということらしいので、俺はもうちょっとヌイさんを適当にあしらう技術を身に着けた方がいいのかもしれない。
「ひとまず研究所近くのコンビニでいっすよね、何かしら売ってるでしょ」
「はーい」
ヌイさんも流石にそれ以上のわがままを言う気はなかったらしく、元気な返事とともに車に乗り込む。俺も運転席に戻って、それからバックミラーでバリケードがきちんと道を塞いでいることを改めて確認し、それから。
「どしたの?」
きょとんとした顔のヌイさんが、助手席に座っていることを、確かめて。
本人が言うとおり、まだここにいるということを、確かめて。
「いーえ、何でもねっすよ」
俺たちのあるべき場所に帰るために、アクセルを踏む。