目を、閉じる。
何もかもが闇に閉ざされた世界に響くのは、遠いざわめきとどこからともなく聞こえてくるどこか懐かしいスウィング・ワルツの音色。地面がふわふわ揺れるような不確かな感覚は一瞬のこと、次の瞬間には自分が人の波の中にいるのだと目を閉じながらでも実感できる。
呼吸をゆっくりと整えて。
――いち、にい、さん。
頭の中で三つ数えて目を開ける。
真っ先に目に飛び込んできたのは巨大な門と煉瓦造りの町並み、そして全てを照らし出す巨大な橙の月。空の半分を覆うかのような満月は今日も地平線近くに浮かんでいる。
昨日も満月はそこにあったし、明日もきっと同じ。
夜の明けない世界『ソムニア』は今日も、橙の月に照らされてここにある。
ソムニア唯一の都市『ヴェルヌ』の巨大な門の前で、紅蓮は温度の無い風に着流しにも似た独特の装束を揺らし立ち尽くす。その横を、談笑しながら鎧を纏った男と法衣姿の女が行き過ぎていく。
これもまた、いつもの光景。
自分と同じ望みを持ってソムニア世界を訪れた冒険者の始まりの地がここヴェルヌなのだ。
人々のざわめきと出所のわからないワルツの音色を背負い、紅蓮は今日も町へと伸びる石畳に一歩を踏み出した。
「紅蓮、私は『丘』を見つけました」
ルフランがそう言ったのはつい最近のように思えるし、遠い昔のようでもあった。
ルフランは紅蓮と同じ冒険者で、腕の立つ白色魔術師で、紅蓮にとっては最後のパートナーとも言える存在だった。波打つ蜂蜜色の髪を温度の無い風に靡かせ、巨大な月に背を向けたルフランは、その時確かに笑顔を浮かべていた。
「本当か!」
紅蓮が身を乗り出すようにして問いかけると、ルフランは深く頷いた。だが笑顔はその瞬間に少しだけ翳ったように見えた。次の言葉を言うべきかどうか迷ったのか、刹那のためらいの後に綺麗な形の唇を開く。
「でも、もう紅蓮と一緒には行けません」
その言葉を紅蓮が理解するまでには、数秒を要した。
ここまで一緒にやってきながら、最後の最後の一歩を拒絶されたのだ。今まさに冒険者の誰もが求め続ける『奇跡の丘』への道が開けたというのに。
「なっ……何でだよ! 一緒に夢を叶えるって言ったのに、何で今になって!」
「ごめんなさい。でも、理由は言えません」
ルフランの笑顔が示しているのは、確固たる拒絶の意志だった。紅蓮は言葉を失いその場に立ち尽くすしかなかった。
しばしの沈黙が流れ……何とか言葉を搾り出す。一緒に行けないのであれば、せめて聞いておきたくて。
「ルフラン。どちらに行くんだ」
「西へ」
月がかかる方角へ。
橙に染まる白い法衣を揺らして、ルフランは紅蓮に背を向ける。
「さよなら、紅蓮」
ぽつり、落とされた声は、風に溶けて消えていった。
呼び止めようと思った、追いかけようと思った、その肩を掴んでルフランが何を言おうと無理やりついて行こうとも思った。ただその時には「思う」だけで、どれも実行に移すことは出来なかった。
だから、ルフランが消えた今になっても考え続けていた。
今、紅蓮はヴェルヌの中心街にある、町一番の高さを誇る時計塔の上に立っていた。ここでルフランと別れたきり、ルフランの行方はわからなくなった。かつてのルフランの仲間達に聞いても誰も彼女がどこへ消えたか知らないという。
きっと、彼女は辿り着いたのだ。
夢を叶える地……『奇跡の丘』へ。
果たしてルフランがどのような夢を持っていたのか、紅蓮は知らない。夢を聞かないことがソムニアの冒険者のルールでもあるからだ。
ただ、どんな夢であれ冒険者は強く描いた夢を持ってこの世界にやってくる。
そして、世界のどこかにある『奇跡の丘』を目指しあてのない旅をするのだ。
手がかり一つない、あまりに先の見えない旅路の中で希望を失い『丘』を諦めてしまう冒険者も数多い。紅蓮のかつての仲間もほとんどは既に冒険者を廃業し、その後どうしているのかは誰も知らない。
それでも、紅蓮は決して諦めなかった。
絶対に『奇跡の丘』に辿りつき、叶えなければならない夢があったから。
時計塔からは月明かりと魔法の灯によって輝くヴェルヌの市街が一望でき、その先の闇に包まれた未開の荒野まで見渡せる。ルフランは西の門から町を出て荒野の向こうに消えていったという。それが、最後の目撃情報だ。
ごうん、という鐘の音が塔を揺らす。その音はヴェルヌ全体に広がり、変わらぬ夜の世界に時を報せる。その響きに身をゆだねながら、紅蓮は口の中で呟く。
「待ってろよ、ルフラン」
声の届かぬ場所にまで行ってしまったルフラン。理由も告げずに去ってしまった彼女に対して苛立ちや疎外感、それに同じ『奇跡の丘』を目指す者としての劣等感を覚えなかったわけではない。
だが、紅蓮はその全てを受け止めて笑う。
赤銅色に煌く少年のような瞳は真っ直ぐ荒野に向けられ、その向こうのまだ見ぬ『丘』までをも透かして見ようとしていた。
ルフランは誰もが諦めていたあの場所に行った、そして自らの夢を叶えたのだ……ならば自分が『丘』にたどり着けない理由はない。ルフランの行方は未だつかめないが、それでも彼女の行った道を辿ればいつかは自分もそこに辿りつけるという、妙な確信があった。
「俺は、お前の背を追う」
鐘は鳴り続ける。
紅蓮は衣の裾を翻し、時計塔を下りようと月に背を向ける。すると、そこに何かがいることに気づいた。
柱の影に立っていたのは、見知らぬ少女だった。暗闇の中でもそれとわかる薄青のワンピースを着た少女は、柱に体の半分ほどを隠したまま同じ薄青の瞳でじっと紅蓮を見つめている。
――いつから、そこに?
紅蓮が問う前に、少女の小さな唇が動く。
「気をつけて」
耳を潰しそうなほどの鐘の音の中でも、確かに鼓膜を震わせる声。
「夢は、いつか覚めるから夢だよ」
胸が、鳴る。
何故か妙な焦燥を覚えて紅蓮は何かを言い返そうと口を開く。しかし、そこにいたはずの少女はどこにもいなかった。まるで影に溶け込んでしまったかのように。
軽く目を擦ってみたが目に異常は無さそうだ。ならば、今見たものは一体何だったのだろうか。気配も無く唐突に現れ、言葉だけを投げかけて消えた薄青の少女。
本当にそこにいたのかと疑うほどに儚く、幻と思うには確かに記憶に焼きついていて。紅蓮は軽く頭を押さえて今見て聞いたことをもう一度頭の中で再生する。
少女が放った言葉。
――夢は、いつか覚めるから夢だよ。
「それは、違うだろ」
脳裏に描くという点では同じかもしれないが、紅蓮が見ている『夢』は眠りの中で見る儚い幻ではない。何度も何度も頭の中で描き続けてきた、遠い理想にして唯一の願い。
寂しげな色をした薄青の瞳を振り払うように、紅蓮は勢いよく振り返り橙の月を睨む。永遠の夜に包まれたソムニアを照らす巨大な月は、紅蓮にも柔らかな橙の光を投げかけている。
ある意味では少女の言うとおり、今の自分は途方もない望みを抱え、覚めない夢を見ているかもしれない。夜のまま時間が止まったこの世界と同じように。
吹きすさぶ温度のない風を感じながら、紅蓮は笑う。
――この夢を現実にするために、俺は『奇跡の丘』を目指すんだよ。
「そうだろ、ルフラン」
問うても返事はない。既に先に行ってしまった彼女の存在自体が、問いに対する答えだ。
紅蓮は今度こそ月に背を向けて、時計塔の螺旋階段に歩を進める。
橙の月は無言で、去り行く紅蓮を見守っていた。
シトラスムーン・ドリミンガール