病室は、静かだった。
少しだけ開いた窓から吹き込む風が、カーテンに波を作っている。
そんなそよ風に長い黒髪を揺らし、セーラー服姿の雫はベッドの横に一人立ち尽くしていた。
ベッドの上には眠る少女……クラスメイトの原田小夜。
一週間前には共に笑い合っていた小夜が、覚めない眠りに落ちたのはほんの数日前のこと。事故に遭ったわけでも、病気になったわけでもない。
ただ、「目覚めない」だけで。
原因は不明、医者も首を傾げるのみ。何をしても目覚めない、まるでおとぎ話の姫君のような深すぎる眠りに落ちてしまったのだ。
規則正しい寝息を立てる小夜の顔は少しだけやつれ、腕からは点滴のチューブが伸びている。その様子をじっと見つめる雫の目には、何とも言えない感情が宿っていた。
「……小夜」
低い声が、雫の唇から漏れる。
「何があった?」
もちろん小夜は答えない。呼吸の音だけが、雫の耳に届く。
雫は胸の中に沸き起こるやりきれない思いを振り切るように、小夜に背を向けた。
『ね、朱鷺サン』
脳裏に蘇るのは小夜の声。小さく囁くようでいて、何故か耳の奥深くに響いて離れない不思議な声。
ああ、そうだ。最後に小夜と話したのは学校の屋上だった。
本当なら立ち入り禁止の扉を越えて、町を見渡せる屋上に立った小夜は、沈み行く太陽を背に笑っていた。
『もしも、夢が叶うなら。朱鷺サンはどんな夢を見る?』
『さあね。いきなり言われても思いつかないな』
『朱鷺サンらしいなあ、もう』
ふわふわと、ウェーブのかかった髪を揺らして小夜はくすくす笑う。それから、雫に背を向けて夕日を見やる。橙色に輝く太陽は、世界をも橙色に染め上げている。小夜は屋上から眺める世界が好きなのだとかつて言っていた。
放課後の、夕焼けに染まる世界が好きなのだと。
そう、言っていた。
『私、夢があるの。こんなこと言ったら、朱鷺サンは怒るかもしれないけど』
そうだな、小夜。
怒っているよ。
あの時も、今も。
雫はぐっと唇を噛んでから、部屋を出ようと扉に手を触れる。その瞬間、雫が力を入れなくとも扉がすっと開いた。ふと顔を上げるとそこには一人の男が立っていた。
若い男だ。二十代半ばくらいだろうか。ひょろひょろとした体躯と顎に薄く生えた無精髭が、きっちりしたスーツ姿には恐ろしいまでに不似合いだ。ついでに、無個性な顔の中でぎょろりと目だけが大きくて……
その不気味な目が、雫をじっと見つめていた。
見られている。何を見られているのかなんて、決まっている。雫は視線を逸らして顔の右半分を手で隠そうとするが、その前に男が言った。
「お見舞い?」
思ったよりもずっと穏やかな声だった。それでも「はい」と答えながら雫は真っ直ぐ視線を合わせることができずにいた。
「失礼します」
「ああ」
何てことはない短い挨拶を交わし、雫は早足に病室を後にした。入れ違いに男が病室に入り、扉を閉ざす。
あの男は一体誰なのだろうか。おそらくは小夜の親戚か何かだろう。父親にしては若すぎるし、小夜に兄弟はいなかったはずだから。
それにしても不気味な人だった、と思う。あの目の不気味さもさることながら、不思議と存在が希薄に感じられた。雫は霊感などさっぱりだが、実際に幽霊などというものがいたら、あんな感じなのかもしれない。
――幽霊、か。
ふと、扉が閉ざされた病室を振り返ってみる。
下らない想像を認めるつもりはないものの、いらない想像力が働いて仕方ない。単なる見舞い客だろうに、人聞きが悪いにもほどがある。
ぐるぐる巡る思考を振り切って、歩き出す。廊下を行くのは薄い色の制服を着た看護婦や、入院している人々ばかり。いつ来ても病院の空気は苦手だ。時間が止まり、淀んでしまっているような錯覚を覚えて息苦しい。
その空気から少しでも逃れるために、雫は自動販売機で紙パックのジュースを買うと、中庭に出る。病院の中庭は広く、花壇には秋の花が咲き始めていた。
隅のベンチに腰掛け、ストローをパックに差す。
『ね』
ある時、教室の隅の机にうつ伏せになっていた雫の頬に触れた、ジュースの冷たさ。
その感覚は今も克明に思い出すことができる。
『ジュース。飲まない?』
あれは、雫が転校して少し経った頃だっただろうか。
常に教室の隅で丸まっていた自分に、初めて声をかけてくれたのが小夜だった。初めはそんな何気ない言葉からだったけれど、その何気なさが雫にとっては何よりも嬉しかった。
この顔と生まれついての無愛想さのせいで友達と呼べる友達もいなかった雫にとって、こっちの高校で初めてまともに話すことができた相手が小夜だった。
冷たく甘い液体を喉の奥に流し込んで、ゆっくりと暮れつつある空を見上げる。
これ以上、悲しい思いはしたくない。大切に思ったものを失うのは御免だと、思う。
小夜と出会ってから、少しずつ周りとも打ち解けられてきたのだ。無意味に聳えていた壁を少しずつ解かして、自分から一歩歩み寄れるようになってきた頃だったのに。
今度は、小夜が全てを閉ざしてしまった。覚めない眠りという形で。
自分の時には小夜の何気ない言動が全てを変えてくれたけれど、今はどうだ。自分に何が出来るというのだろうか。見舞いに来たところで何が変わるわけでもなく、無為な時間が過ぎていくだけではないか。
くしゃり、という音が響いて雫は我に返る。
まだ半分以上中身が入っていたジュースのパックが、足元に落ちていた。ストローから漏れ出す甘い液体が、ローファーを浸していく。
もう何もかもがどうでもよく感じられて、雫はただジュースが足元に零れていく様子を見るともなしに見つめていた。
「あの」
不意に声が降ってきて、雫は視線だけそちらに向ける。
すると、目の前にポケットティッシュの袋が差し出された。見れば、一人の少年が雫の前に立っていた。今までそこにいたことに気づかなかったことが不思議なくらいだ。
「これ、使いますか」
「あ、ありがとう」
ぼうっとしていただけなのだが、困っているように見えたのかもしれない。それに、汚れた靴を拭くものがないのは事実だったため、素直に厚意を受け取ることにした。
ここに入院している患者なのだろうか、薄い青みがかかった服に身を包んだ少年は、分厚い眼鏡の下でじっとこちらを見つめている。雫は何となく居心地の悪さを感じながらも、落としたジュースのパックを拾い上げると、靴をティッシュで拭いた。
顔を上げると、少年と目が合った。
流石に少年も自分がじっと雫の顔を見つめていたことに気づいたのか、ふいと視線を外して「ごめんなさい」と小さく呟いた。少年に悪気が無かったとわかりきっている分、雫としても別段悪い気分にはならない。だから雫もつとめて柔らかな笑みを返し、言った。
「これ、気になった?」
指先で、右の頬に触れる。正確に言うならば、顔の右全体を覆っている酷い火傷の痕に。
ほとんどの人間は、雫を見る時には彼女の顔というより火傷の痕を見る。そして、火傷の理由を気にしながらも傷痕からは目を逸らして、絶対に火傷の話には触れようとはしない。まるで禁忌であるかのように。
そして「何故隠さないのだ」と言いたげな目でこちらを見るのだ。
隠せば隠したで、何を隠しているのか知りたがるくせに。
そういう好奇心にさらされるくらいなら、傷痕を見せていた方がまだマシだと思っている。見せるも隠すも自分の勝手だろう、ならば雫はありのままで生きようと決めているのだ。
とはいえ、やはり視線にさらされることが苦手なのは、変わりがなくて。
「……怖いかな。やっぱり」
時には少し気弱な言葉を漏らしてもみたくなるのだ。言っても、何にもならないというのに。しかも相手は名前も知らない、通りがかっただけの少年だ。そんなことを聞かれても困るだけに決まっている。
気を取り直し謝罪の言葉を述べようとすると、先に少年が口を開いた。
「怖くないです。ただ、ちょっとびっくりしただけで」
雫は、ふと目を上げる。少年はあくまで神妙な表情で雫を見ていて……
「はは、びっくりした、かあ」
思わず、声を上げて笑ってしまった。
少年が余りに素直に「びっくりした」と言ってくれたものだから。当の少年は何故雫に笑われたかわからなかったのだろう、憮然とした顔をしてみせたけれども。
面と向かってこの顔の感想を言ってくれた人なんて、今まで一人もいなかったのだ。
「ごめんごめん。なるほどね、びっくりさせたなら悪かったよ」
「すみません、そういうつもりじゃ」
「いいんだ。はっきり言ってもらえた方が、ありがたい」
頬を赤く染めて謝罪する少年に向かって言って、立ち上がる。立ち上がってわかったが、少年の背丈は随分小さかった。雫の身長がこの歳の女子にしては高いのも事実だが、それを差し引いてもかなり小柄だ。お陰で、年下だとは思うがどのくらい下なのかもよくわからない。
小学校高学年から中学生くらいだとは思うが……その見立ても正しいか否か。
まあ、少年の年齢がわかったところでどうということはない。これからも小夜の見舞いに来た時に顔を見るかもしれないが、その程度。
「それじゃ、ありがとね」
ひらひらと手を振って去ろうとすると、少年の声が背中から追いかけてきた。
「はい、また……」
『また』、か。
雫はふっと息をつく。何を根拠に『また』と言えるのだろうか。別に自分はあの少年に会いに来たわけでもないし、偶然少年の方から話しかけてきただけだ。次に雫が来るのがいつかなんて、あの少年が知るはずもない。
思いながら、振り向くと。
眼鏡の少年はその場に立ち尽くしたまま、こちらを見ていた。
深く考えることはない、単に別れの言葉として『また』と言葉にしただけだ。意識して『さよなら』と『またね』を使い分ける奴などいないだろう。雫はそう結論付けて、早足に建物を突っ切って正面出入り口へと向かう。
――別れの言葉に執着するのは、別れを恐れる人間だけ。
どうしても『また』という言葉を気にしてしまう自分を、無理やりに定義しながら。
出入り口を抜けて、秋の涼しい風を感じる。中庭ともまた違う空気を吸って、吐いて。妙に波立った心を落ち着かせようとする。
すると。
「すまない、そこのお嬢さん」
横から声がして、雫はゆっくりとそちらを向く。お嬢さん、と呼べる人間が周囲に見当たらなかったからだ。
見れば、そこに立っていたのは先ほど小夜の病室にいたはずの不気味なスーツ男だった。男は明らかに雫を見つめたまま、満面に胡散臭い笑顔を浮かべて言った。
「君、原田小夜さんの友人だよね。ちょっと時間貰えないかな?」
シトラスムーン・ドリミンガール