ヴェルヌの門を一歩出れば、闇が支配する未開の荒野が広がっている。
夜闇の魔物『イクリプス』が跋扈する土地でもあり、普通の人間はヴェルヌに集まり身を寄せ合って暮らしている。そして荒野を行くのはその先にあるという『奇跡の丘』を目指す命知らずの冒険者だけだ。
当然紅蓮はその「命知らず」のうちの一人である。
荷物を背負い、旅をするには頼りなくも見える軽装で荒野を行く。辺りは夜の闇に包まれてこそいるが、今日は月が出ているため結構遠くまで見渡すことができる。
町の近くはある程度冒険者の出入りもあるため、舗装こそされていないが冒険者の靴によって踏み固められた道がある。町の近くでは凶悪なイクリプスも少ないため、紅蓮は鼻歌交じりに歩く。
何気なく空を見上げれば夜空には雲ひとつなく、この調子ならばしばらく月が隠されることもない。曇りや雨となるとランタンを用意しなければろくに歩くこともできないのだから、月が出ているうちにできる限り先に進んでおくべきだろう。
ルフランがこの道を通ったことは確かだ。ただ、そこから先どうするかは紅蓮もまだ決めていない。もしかするとこの先で出会う冒険者が何かを知っているかもしれないし、誰もルフランの行方を知らないかもしれない。
どちらにしろ、ルフランの足取りが途絶えても手探りで探していけばいい。
願いを諦めなかったルフランは辿りついたのだ、自分が辿りつけないはずはない……紅蓮には妙な確信があった。根拠のない自信と言い換えてもいい。あまりに楽観的だということも理解しているつもりではある。
だが、この世界に生きる冒険者たちは皆そうやって『奇跡の丘』を目指している。
時に手がかりの少なさに絶望しかけ、時に根も葉もない噂に踊らされ。それでも諦めない者だけが辿りつける領域、それが『奇跡の丘』だと紅蓮は思っている。
そう思わなければ、やっていられないというのもある。
紅蓮の足はヴェルヌの西側に広がるネブラルム荒野を抜け、アングイス海を臨むアガルム岬へと向けられる。アガルム岬は月がよく見える場所ながら、時折大量のイクリプスが出没する場所のため駆け出しの冒険者にとっては危険な地でもある。
冒険者になって長い紅蓮にとっては、散歩がてらに訪れるような場所であるが。
ルフランは、果たしてここに来たのだろうか。
白い衣を纏ったルフランが、今もなおこの崖の上に立っているような気がして。そしてこちらを見て微笑んでいるような気がして、ぶんぶんと頭を振る。
もう、ルフランはここにはいないことだけは確かだ。こんな所で立ち止まることなく、ずっと先に行っているはずなのだ。
ルフランが去った場所に長居する理由はない……ここから西に伸びる道を行こうと思い、一歩を踏み出した時。
何かがぶつかり合うような音が、微かに鼓膜を震わせた。
――何だ?
誰かが、イクリプスと戦っているのかもしれない。紅蓮ほどの冒険者となればこの近辺のイクリプスの方が近寄ってこないものだが、旅を始めたばかりの冒険者がこの岬に足を踏みこんでしまったのだろうか。
音は南西の方角から聞こえてくる。どうしようか考えている間も剣戟の音は止まない。そして、次の瞬間に紅蓮の耳にはっきりと届いたのは、人ならざる者の咆哮。
紅蓮は呆然とその場に立ち尽くしたまま、呟く。
「……マジかよ」
イクリプスの咆哮であることはわかる。だが、これほどまでに激しい咆哮を上げるイクリプスなど、この近辺に現れるはずもない。
紅蓮は迷わず駆け出した。もちろん、声が聞こえてきた方角に向かって。
全力で駆けているうちに、巨大な影が見えてきた。月明かりに照らされたそれは、闇を固めたような姿をした夜闇の怪物、イクリプス。捻れた角を生やし、振り上げた丸太のような腕からは鋭く長い爪が生えている。
「何で、こんな所にデカイ奴がいんだよ!」
ここまで巨大なイクリプスは町の側には生息していない、はずだ。最低でも紅蓮は一度も目にしたことがない。だが、そのイクリプスは確かに存在し……足元にいる誰かに向かって今まさに黒い爪を振り下ろそうとしていた。
ちっ、と舌打ち一つ。
紅蓮は右手をかざして、声を上げた。
「来い、『迦具土』!」
右手を覆う手甲から赤い光が放たれ、集束する。ぐっと手を握り締めれば、握り締めた場所は柄となり、伸びた光は細くしなやかな刃へと変わる。光が収まった時には手の中に一振りの刀が握られていた。
地を蹴り、イクリプスと誰かの間に割って入った紅蓮は「下がれ!」と叫ぶ。
容赦なく紅蓮に向けて振り下ろされる、イクリプスの腕。だが、紅蓮は赤銅色の瞳に黒い腕を映し、表情一つ変えずにゆらりと刀を構える。刃と闇の爪が触れた、ように見えた瞬間紅蓮の姿は数歩横に移動していた。
空を切り、そのまま地面へと叩きつけられる爪。その腕に向かって紅蓮は刀を一閃させる。
やすやすと腕を切り裂く刃、その軌道は赤い尾を引き刹那の後に空気を含んで炎と変わる。傷口からあふれ出した炎は容赦なく膨張しイクリプスの全身を包まんとする。
再びの咆哮が耳を貫く。それは悲鳴と言ってもよかったかもしれない。イクリプスの闇を固めた体の中で、唯一色を持つ橙の瞳が紅蓮を映す。紅蓮は炎の中から次の一撃を放とうと、もう一歩を踏み込むところだった。
ああ、という力の無い声がイクリプスの口から漏れた。
一瞬、紅蓮の足が止まる。こちらを見つめるイクリプスの瞳から、一瞬敵意が消えうせたように見えて、無意識にためらいが生まれてしまった。
たった一秒足らずのためらいのうちに、炎に包まれたイクリプスの姿が虚空に掻き消えた。行き場を失った刀が空を切り、刀が生む炎の帯は一瞬前までイクリプスのいた場所を焦がすだけだった。
倒したわけではない。おそらく、空間を渡ってどこか別の場所へ移動したのだろう。
「……逃げたか」
紅蓮はふう、と溜息をつくと刀を振った。再び赤い光に変じた刀は、手甲の中に吸い込まれて消える。
「おい、大丈夫か?」
言って振り向くと、巨大な青灰色の剣に体を預けていた人物が頷く。
「何とか。助太刀感謝する」
答えたのは紅蓮よりも年下に見える少女だった。長い銀色の髪を後ろで一つにまとめ、細身の体を鎧で覆っている。怪我らしい怪我はないが、酷く疲労していて肩で息をついている。
見たことのない少女だ、と思う。冒険者になってそれなりに長い紅蓮は古参の冒険者をほとんど把握しているため、もしかするとまだソムニアに来て間もない冒険者なのかもしれない。
「一体何があったんだ? あんなデカイのに襲われるなんて」
「私にも何が何だかわからないんだ」
少女は掠れた声で言った。淡い色の瞳が紅蓮を見上げる。そこに怯えや恐怖の色はなく、貫くように真っ直ぐな視線が紅蓮を射る。
「私が来た時にはあの人が襲われていて。それで、助けようと思ったんだが」
力が足りなかった、と呻く。ただ、あれだけ巨大なイクリプスと対峙しながら傷一つ負わず対等にやり合っていた、というだけでも相当な腕だ。
「で、あの人って?」
紅蓮が聞き返すと、少女は「あの人」と転がっている大きな岩を指差す。正確には、その岩の後ろに倒れている何かを指したのだろう。
紅蓮は恐る恐るそちらに近づき、岩の裏にいるものを見た。
そこには、確かに人が倒れていた。ただ、人間の形はしていなかった。
倒れていた人物は、ケモノビトだった。しかも、ソムニアの冒険者には珍しいウサギビトだ。
その名の通り服を着て二足歩行するウサギで、身長も人間の腰ほどしかない。人間よりも感覚が鋭く指先が多少器用な代わりに、力も体力も魔法を扱う能力も人間に劣るため町から出て冒険者となるものは少ない。
つまり、目の前に倒れているウサギビトの冒険者は相当の変わり者である。
そしてこの変わり者を、紅蓮はよく知っていた。
「あー……サリエルか」
「知り合いなのか」
「まあな。ウサギの魔術師なんてサリくらいしかいねえよ」
紅蓮は少し離れた場所に落ちていたウサギビトの帽子を拾う。魔女が被るようなとんがり帽子で、もちろん鍔には長い耳を出すための穴が開いている。帽子を被せてやれば、黒を基調とした服装も相まってどこからどう見ても古風な魔法使いに見える。
ウサギであることが唯一にして致命的に古風な魔法使いのイメージからかけ離れているが。
「生きてる?」
紅蓮の横までやってきた少女は不安げにサリエルの顔を覗き込む。紅蓮は呆れ顔で肩を竦めてみせた。
「大丈夫、気絶してるだけだ」
「よかった」
心から安堵の息をつく少女。その横顔を見るとどきりとする。強張っていた表情がふわりと解けたその瞬間が、あまりに可憐で。
紅蓮は少女から露骨に視線を逸らし、サリエルを見る。本来は真っ白なはずの毛並みも、哀れ土埃に塗れて薄汚れてしまっている。月の淡い光の下ではよく見えないが、明かりの下で見たらもっと酷いだろう。
「それにしても、こいつがやられるとはな」
詳しいことは、こいつから聞いた方がいいと紅蓮は思う。少女はサリエルが襲われているところに駆けつけただけで、巨大なイクリプスが出現した理由などわからないはずだ。
しかも、サリエルといえば才能で人間に劣るウサギビトながら努力と根性で高位の黒色魔術師まで登り詰めたという筋金入りの変わり者だ。そのサリエルが町に程近い岬でイクリプスにやられるなど、マトモな事態ではない。
「とりあえず、目覚めるのを待つしかねえな」
ぽんぽんと帽子を叩いてやると、サリエルは「むぅ、あと五分寝かせろー……」とか何とか唸る。殺されかけていたのにのん気なものだ、と苦笑すると横にしゃがみこんでいた少女もくすくすと笑った。
再び見とれかけていた自分に気づき、紅蓮は慌てて言葉を放つ。
「あ、ああ、そうだ。俺、名乗ってもいなかったな。俺は紅蓮。アンタは?」
少女は倒れるサリエルから紅蓮に視線を向けた。凛々しくも柔らかな薄青の瞳が笑む。
「私は、イーグリット」
イーグリット。耳慣れない響きの名前を口の中で一度呟いてから、紅蓮は問いを重ねる。
「イーグリット、か。見ない顔だが、いつここに?」
「ここに来たのはつい最近になる。まだわからないことの方が多いよ」
イーグリットの視線が、ふと月に向けられる。西の空にかかる、動かない月。時間が正しく流れているのかもわからない、永遠に変わらない空。
紅蓮も自然とそちらを見る。あの月の下に目指す場所があるのだ。誰もが目指す、夢の叶う場所。
「 『奇跡の丘』を目指して、か」
紅蓮の当然といえば当然の問いに、イーグリットは何故か一瞬黙った。
「……そう、だな」
「違うのか?」
「いや、私は『丘』を目指してる。ただ」
長い睫毛を持つ瞼が、伏せられる。
「私の夢はあなたとは全然違うのだろうな、とは思う」
そんなのは当たり前だろう。人によって心に秘めた夢が違うのは当然だ。紅蓮はそう言おうとしたが、イーグリットの横顔を見ていると放ちかけた言葉を飲み込まざるを得なかった。イーグリットはもう、笑ってはいなかった。辛そうに、橙の月を見つめている……
あえてイーグリットの夢を問う気はない。ただ、妙に彼女の言葉が心に引っかかった。
紅蓮は何でもいいから声をかけなければならないと唇を開きかけて。
「うわああああっ、俺様マジに殺されるーっ!」
突如響いた甲高い声に、遮られるハメになった。
シトラスムーン・ドリミンガール