シトラスムーン・ドリミンガール

ドリミンガール:02

 ――何故、自分はこんな場所にいるのだろうか。
 雫はグラスの中に浮かぶ氷を睨みつける。病院に程近いお洒落な喫茶店で、名前も知らない男と向かい合っているこの状況。全くもって異常という他ない。
 ジト目で男を睨んでみると、男はシンプルだが洒落た装丁のメニューを示して笑う。
「あ、俺の奢りだから気にしないで頼んでよ。ここのケーキは俺のお勧め」
「いや、そうじゃなくて、私に何の用なんですか」
「話はケーキ食いながらでもできるだろ。俺、腹減っててさあ」
 ――そういう問題か!
 雫は叫びたくなるのを何とか堪えてメニューを手に取る。さっさと席を立って帰ってもよかったし、本当は声をかけられた時にも即座に断ろうとしたのだ。だが、男がその時囁いた言葉には、雫をこの場に縛り付ける確かな力があった。
『眠り病について、少し話したいことがある』
 原因もわからぬ眠りに落ちた小夜。医者も匙を投げるような奇病について、この見るからに怪しい男が何かを知っているとも思えない。ただ、もし本当に何かを知っていたら……その「もし」が雫の中に生まれて消えなくなってしまったのだ。
 雫の内心など知らず、男がカウンターの向こうにいる店主に向かって声をかける。
「マスター、今日のケーキは?」
「今日の日替わりは特製ミルフィーユ、『必殺☆木の葉落とし』だ」
 何だ、その奇妙奇天烈なネーミングは。まず「必殺」なんてミルフィーユにつける言葉じゃない。その上この店主、どこからどう見ても金髪碧眼の外人なのに日本語が堪能すぎる。一体どこからツッコミを入れればいいものか真面目に悩む雫をよそに、男は当たり前のように言った。
「じゃ、俺はいつも通りケーキセットで。君は決まった?」
「……同じでいいです」
 メニューをきちんと見る気も起きなかったし、こっそり『必殺☆木の葉落とし』が気になったというのもある。マスターは「あいよ、ケーキセット二つな」と居酒屋のオヤジを思わせる威勢のいい返事をしてカウンターの奥へと引っ込んでいった。
 一体あの人何人なんだろうなあ、とどうでもいい考えが雫の脳裏をよぎって消える。
 男は出された水を一口だけ含んでから、どこまでも胡散臭い笑みを雫に向けた。
「さて、と。悪いな、突然こんなとこにつれてきて」
「悪いと思うならさっさと話をしてください」
「まあまあ、物事には順序ってものがあるからな。そういえば、君の名前も聞いてなかったことだし」
 順序を綺麗さっぱり無視しているのはそっちじゃないだろうか。
 雫は思うが流石に口には出さない。この男は鷹揚に笑ってこそいるが、雫が変なことを言ったことで機嫌を損ねる可能性だってある。最近はただでさえ頭のおかしい連中が多いのだ、急に豹変して襲われたりしたら洒落にならない。慎重であるに越したことはない、はずだ。
 男はスーツの内ポケットからケースを取り出し、その中から一枚の名刺を抜き取る。
「俺はミドリノという。これが名刺な」
 差し出された名刺を受け取る。そこに雫の知らない会社の名前と住所、携帯の電話番号、そして『緑野』という文字を認める。一体何の仕事をしているのかは、この名刺からは判断できなかった。
 胡散臭いことこの上ないが、名乗られたのだから一応礼儀として名乗り返すべきだろう。雫はそう判断して自らの名前を告げる。
「私はトキワ・シズクと言います。原田小夜のクラスメイトです」
「トキワ? どうやって書くんだ?」
 答える代わりにテーブルの上に備え付けてあったナプキンを一枚拝借し、鞄に差してあったボールペンで『朱鷺羽雫』と記してみせる。
「へえ、これで『トキワ』か。珍しいな」
「よく言われます」
 緑野の言葉に苦笑を浮かべる。苗字が珍しいからといって、何が変わるわけでもない。それよりも早く話を進めたかった。
「それで、緑野さんは小夜の親戚か何かですか」
「いや、俺は赤の他人」
 さらりと緑野が言い切ったものだから、雫は開いた口が塞がらなかった。数秒くらい。ついでに緑野が何を言ったか理解するには、開いた口を塞ぐまでの時間にプラスもう数秒かかった。
「えっと、つまり何ですか。緑野さんは小夜のことを全く知らずにあの病室にいたんですか」
「あの病室にいる子が眠り病なのは知ってたが、原田小夜って名前はここに来る直前まで知らなかったな」
 胡散臭さ、最高潮だ。
 目の前の男が医者には見えないし、名刺にも医者だとは書いていない。とっても胡散臭い会社員、それどころか会社員かどうかも怪しい。もちろん渡されたこの名刺が本物だとも限らないわけで。
「すみませんっ、私」
「はい、ケーキセット二つ、お待たせしましたー」
 席を立とうとしたその時、明らかに空気を読んでいない店主がケーキセットの載ったトレイを捧げて雫と緑野が向き合うテーブルにやってきた。そしてテーブルの上には珈琲の入ったカップと、意外と普通の見た目のミルフィーユ『必殺☆木の葉落とし』が二人分置かれる。
「……あの、緑野さん」
「食べなよ、話は食べながらだ」
 緑野はニコニコしながら珈琲とミルフィーユの皿を雫の前に押し出す。完全に席を立つタイミングを失った雫は、仕方無しにフォークを手に取った。ケーキを目の前にして席を立つのは店主にもケーキにも失礼だし、と自らに言い訳しながら。
 『必殺☆木の葉落とし』をフォークで切り分け、一切れ口に入れる。秋らしい、栗の入ったミルフィーユだ。生地の独特な感触とマロン風味のクリームの適度な甘さが絡み合い、美味しい。こんなに美味しいケーキを出してくれる喫茶店が近くにあるとは、思いもしなかった。
 こんな妙な男と一緒でなければもっと美味しかったかもしれないのに。
 その妙な男、緑野はブラックのまま珈琲をすすり、唐突に言葉を放つ。
「実は、原田さんのような症例が彼女のほかに数件ある」
「え?」
「原因不明。検査では異常なし。ただ『眠っている』だけ。俺はそういう症例の患者を調べてる。病気そのものを調べるってよりは、眠ってる人間の身辺調査だがな」
 探偵みたいなもんだ、と肩を竦めて言う。
「それが仕事なのですか?」
「いや、趣味。報酬も当然なし」
「暇人ですね」
「フリーだもんよ。無職的な意味で」
 ちなみにその名刺は前の仕事のもん、と緑野は言ってからからと笑う。嘘には聞こえないが、自分で自分の身元を余計に怪しくしてどうするのだろうか、とも思わなくはない。
 これ以上緑野の素性について聞いていると本筋を忘れそうなので、雫は無理やり話を戻そうと試みる。とてつもなく怪しいのは確かだが、今は小夜のことが優先だ。
「それで、暇人の緑野さんは私に何かを教えてくれるつもりですか?」
「ああ……ただその前に、朱鷺羽さんに聞いておきたいことがある」
 緑野が急に改まった口調で言ったため、雫も自然と背筋を正す。一瞬、沈黙が生まれる。壁にかけられた時計が鳴らす、針の音がやけに大きく聞こえる。
 やがて、緑野は薄い唇を開いて言った。
「朱鷺羽さんは『夢を叶えるゲーム』を知ってるか」
 胸が、鳴った。
 何故。
 何故、その話が?
「知ってるか」
 もう一度、念を押すように緑野が問う。いや、緑野は今の反応で十分気づいている。雫が「知っている」ということに。二度目の問いは本当の意味の問いではなく「確認」に過ぎない。
 雫は力なく、一つ頷く。
『もしも、夢が叶うなら。朱鷺サンはどんな夢を見る?』
 そう、別れの日に小夜が問うたのは、『夢を叶えるゲーム』の話が出たからだ。
 それは最近急激に広まっている都市伝説のようなものだ。突然差出人のわからないメールで送られてくる奇怪な『ゲーム』の噂。噂によって『ゲーム』の中身は別々に語られているが、どの噂でも『ゲーム』を添付しているメールの文面はただ一つ。
『このゲームをクリアした人の夢を叶える』
 小夜は度々冗談のように『ゲーム』の話をしていた。そんなものありえないのに、と付け加えながら。
 だが、それが一体何の関係があるというのか。
 雫の声にならない問いを正確に受け止めた緑野は、ぎょろりとした目を伏せ口元だけで笑む。
「原田小夜については知らんが、眠り病に陥ったのは皆『夢を叶えるゲーム』のプレイヤーだ」
「え……」
「実際に夢を叶えるか否かは別として、『ゲーム』自体は確かに存在している。故に、彼女のことを知る朱鷺羽さんに聞きておきたいんだ。原田小夜は、『ゲーム』のプレイヤーだったか?」
 問われて、雫は言葉を失う。
 だって、そうだろう。
 小夜は口では絶えず『ゲーム』の存在を否定していた。ただ、否定しながらも必ずどこか遠くを見ていた。雫には決して理解できない夢を抱えて、その夢が叶う日を待ち望んでいるようにも見えて。
 そんな、小夜の姿を見ているのが辛かった。
 小夜が『ゲーム』のプレイヤーだったか。その質問には答えられない。小夜が言葉にしなかった以上、雫は正確なことは何一つ知らないから。十分想像することはできるけれど……それをこの男に話す理由は無い。
「知りません」
 きっぱり言い切って、緑野が何かを言い出す前に切り返す。
「それが、小夜の眠りに何か関係あるとでも? 仮に小夜が『ゲーム』のプレイヤーだとしても、ただの『ゲーム』がそんな病気を引き起こすとでもいうのですか?」
「……もし、俺がイエスと言ったら?」
 緑野の言葉に、雫はかっとなって立ち上がる。
 この男は、自分をからかっていたのだ。そうとしか考えられない。
 おかしいではないか、『ゲーム』をプレイした人間が眠りの病に落ちるだなんて。それこそおとぎ話、いや漫画のような出来事だ。それならば、雫だって同じ病に冒されていてもおかしくない……緑野にはあえて言っていないが、雫もまた『ゲーム』のプレイヤーなのだから。
 店主に軽く礼をして、無言で雫は緑野に背を向ける。これ以上の会話は無意味、無益。一度わかってしまえば簡単だ。握った名刺だって道で捨ててしまおうと思う。
 店の出口に向けて歩き出す。そんな背中に、緑野の声がかけられる。
「悪いな、今は信じてもらえるだけの証拠がない。だが」
 あくまで、穏やかで。諭すような響きがそこにあった。
「君や原田小夜に何かあったら、すぐに連絡してくれ」
「失礼します」
 答えることすらも拒絶して、雫は喫茶店を後にした。扉を閉める時に鳴ったカウベルの音が、未練がましく雫の背中を追いかけてきて余計に苛立ちが増す。
 一瞬でも信じようとした自分が馬鹿だった。
 小夜のために何も出来ない自分が歯がゆくて、空回りしているのだ。あんな怪しい男の言葉に惑わされるなんてどうかしている。早足で歩きながら、火傷の痕の残る右手でがりがりと頭を掻く。長い髪が、涼しくなり始めた風に揺れる。
 ただ、歩きながら脳裏をよぎるのは最後に聞いた小夜の言葉。
 夕焼け空に溶けて消えた、悲しい夢の話。
『私、夢があるの』
『もし、夢が叶うなら』
 夢を噂の『ゲーム』にかけて、一体小夜はどうするつもりだったのだろうか。
 あの『ゲーム』が眠り病の正体だなんて、そんな馬鹿な話を信じる気にはなれなかったけれど、それだけがどうしても今の今まで引っかかっている。
 小夜があの『ゲーム』に執着していた理由。
 最後の最後に、雫に『ゲーム』の話をした理由。
 それだけが知りたくて、雫もまたあの『ゲーム』のプレイヤーになったのだから……
 雫は道の真ん中で立ち止まり、空を見上げる。あの日と同じ、橙色の夕焼け空がそこにあった。あの日の屋上で、小夜が背負っていた空だ。
 少しだけ迷ってから、手の中のくしゃくしゃになった名刺をポケットの中に突っ込んで。
 そのまま、雫は家への道を駆けていった。