シトラスムーン・ドリミンガール

シトラスムーン:03

 声を上げたのは、もちろん二人の前に転がっていた毛玉だった。
 毛玉もといウサギビトのサリエルはぱっと飛び起きると大きな赤い瞳をぐるぐるさせながら喚きちらす。
「俺様食っても上手くないぞ骨と皮だけだぞ出汁も出ないぞだからウサギ鍋はやめれー!」
「落ち着けっつの」
 紅蓮は呆れ顔でサリエルの頭を軽くはたいた。サリエルはぐるりと視線を紅蓮に向けると、鼻をひくつかせながら甲高い声で訴える。
「殴ったね! 親父にもぶたれたことないのにっ……ってあら、見覚えのある顔」
「おはようさん、サリ」
 やる気なく手をひらひらさせる紅蓮。もちろんその目は明らかなジト目だ。状況がしっかり把握できていないサリエルは辺りをきょろきょろ見渡して、何とか自分の身に起こった事態を理解しようとしていた。
「何で手前がここにいんだよ紅蓮? あと、俺様確かありえんスケールのイクリプスに襲われてた気がするんだが」
 体のサイズに不釣合いな大きな手でずれた帽子の向きを直すサリエル。相変わらず可愛らしい外見に似合わず口の悪い奴だな、と紅蓮は苦笑せざるを得ない。
「あの馬鹿でかいのは追い払ったぞ」
「む、お前なぞに助けられる覚えは無いが感謝くらいはしてやらないでもないぞ」
「感謝するならイーグリットにしてやれよ。この子がお前を見つけて、イクリプスから庇ってくれてたんだから」
 サリエルはそこで初めてイーグリットに目を向けた。ウサギビトの表情は人間の目からは判別しづらいが、多分笑ったのだろう。
 きょとんと目を丸くするイーグリットに向かって、サリエルは帽子を取り、まるで姫に対する騎士のようにうやうやしく膝を折る。
「イーグリットと言ったか。俺の命の危機を救ってくれたこと、心から感謝する」
「何か俺の時と全然態度違くねえかサリよ」
「はっ、レディに対する礼儀だろうが」
 レディに対する礼儀とか何とか、かっこつけて言っているが所詮外見がウサギのぬいぐるみなので何とも説得力が皆無。果たして、イーグリットがどう受け取ったのか気になってちらりと横の彼女に視線を走らせると……
 イーグリットはキラキラ目を輝かせて、ぽつりと呟いた。
「か、可愛い……」
「え?」
 サリエルが不思議な顔をした瞬間、イーグリットが無造作にサリエルの体を抱き上げていた。
「うおおっ」
 そして、めちゃくちゃに撫で回し始めた。
「すごいな、きちんと動くんだな、もこもこでふわふわだな! すごいなー、いいなー」
 ものすごく嬉しそうにサリエルをぐりぐりするイーグリット。何だかサリエルが嬉しいんだか苦しいんだかよくわからない顔で悲鳴を上げている。
 今までクールで淡々としていたイーグリットの豹変には、紅蓮もちょっとたじろいだ。男っぽい口調や外見に似合わずどうやらふわふわしたものが好きなようだ。
 それにしても。
「イーグリット。可愛いのか、これが」
 外見はともかく、中身がアレなサリエルを『可愛い』と言い切ることは、最低でも紅蓮にはできないのだが。イーグリットは紅蓮の言葉にかくんと首を傾げてみせる。その仕草がちょっと可愛く見えてしまったのは内緒だ。
「可愛くないか?」
「いや、イーグリットがいいならいいんだけどな」
「ええい持ち上げるな抱きしめるな撫で回すな、俺様はぬいぐるみじゃねえんだぞー!」
 いくら抵抗しても、元より非力なウサギビトである。重戦士のイーグリットにがっしり抱きしめられていては腕から脱出することも適わない。単に足をじたばたさせるだけで終わる。
 しばらく、サリエルがイーグリットにいじくり回されるのを生暖かく見守ってから、紅蓮が話を切り出した時にはサリエルの定位置はイーグリットの膝の上となっていた。
 羨ましい構図だと思わなくもない。
「で、どうしてお前はあんなでかいイクリプスに襲われてたんだ?」
 イーグリットに抱きしめられたまま、サリエルは耳を伏せてその裏をがりがりと掻く。
「そいつは俺様にもわからん。ただ、最近よくイクリプスに追い回されんだよ。普段縄張りになってねえはずの場所でイクリプスに遭遇したり、今日みたいに場違いな奴に襲われたり、な」
「そういうことって、よくあるのか?」
 まだこちらに来て間もないイーグリットは、紅蓮に顔を向けて質問を投げかけてくる。少しだけ考えてみるが、今までにそのような話は聞いたことがない。イクリプスは基本的に自らの縄張りからはほとんど動かず、地域によって強さは決まっているはずなのだ。
「俺もそれは初耳だ。サリ、何かイクリプスの怒りを買うようなことしたのか?」
「さあなあ」
 サリエルは大げさに肩を竦める。ポーズだけ取れば相当気障だが、やっぱりウサギなので可愛いだけである。役得だ。
「あんな無感動な連中のどこをつつけば怒るのかもわからんよ」
「そりゃ一理あるか……」
 イクリプスという怪物は、形こそ皆違えど揃いも揃ってつやの無い黒い姿で表情を窺うこともできない。その生態は謎に包まれていて、縄張りに入った冒険者を襲うことだけが確かな特徴とされていたのだが。
 ――誰かを特定して襲うイクリプス、か。ぞっとしないな。
 紅蓮は溜息をつき……それから、先ほどの巨大イクリプスを思い返す。思い出してみれば、あのイクリプスは自分が割って入った瞬間に戦意を失ったように見えた。普段ならば絶対に感情を移さない無機質な橙の瞳を覗き込んで、紅蓮は確かにそう「感じた」のだ。
 不可解だ。不可解に過ぎる。
「ま、考えてもわからんことをぐだぐだ悩んだって仕方ねえ」
 神妙な顔ながらサリエルは言う。イーグリットの手に頭を撫でられながら、ではあったが。
「今回やられたのは単純に俺様のミス。次は絶対に油断しねえよ」
「……どうだかな。アンタ、意外と詰めが甘いとこあるし」
「甘々のお前に言われたかないわい」
 紅蓮の言葉にぷうと頬を膨らませるサリエル。で、そのような顔をすると余計にイーグリットにぐりぐりされ、また奇妙な悲鳴を上げるハメになるのだが。
 そのイーグリットは、しばらく黙って二人の会話を聞いていたが、二人の言葉が途切れるのを待っていたのかもしれない。少しの沈黙の後に口を開いた。
「あの、二人はどういう知り合いなんだ?」
「前に、一緒に旅してた頃があったんだよ」
 もちろん、『奇跡の丘』を目指す旅だ。当時冒険者の中でも同じくらいの実力だった自分とサリエルと……ルフラン。その三人で荒野を歩いた時のことは今でも鮮やかに思い出せる。背中を任せられる相手と共に行くのは、心強かったと今でも思う。
 ただ。
「 『意見の相違』ってことで数日で別れたんだけどな」
「意見の相違?」
「実のことをいや、知的好奇心こそあれ俺様は『丘』に執着はなくてな。そっちの紅蓮についてけなくなっちまったんだよ」
 サリエルにびしりと指さされて、紅蓮は言葉に詰まってしまった。否定はしない。できるはずがない。
 『丘』を探すことに焦った自分が空回りした結果、数日でサリエルが仲間から外れることになったことは事実なのだから。
 イーグリットは不思議そうな顔をして紅蓮を見つめた後、上からサリエルの顔を覗き込む。
「サリエルは、夢を叶えたいとは思っていないのか」
「んー、叶うならいいけど。ただ、俺様の夢は誰にも叶えられん」
 神様だって叶えられねえのさ。
 そう言ってサリエルはくすくす笑う。これが、共に旅をしていた頃から変わらぬサリエルの口癖なのだ。夢を叶えるためソムニアの地を踏んだ冒険者とは思えない考え方かもしれない。
 そして、この言葉を聞くたびに、紅蓮は苛立ちを覚える。
 自分の夢とて簡単に叶うようなものではない。それこそ、神ですら叶えられるかどうかもわからないこと。普通なら決して叶わない夢だからこそ、『奇跡の丘』を目指すのだ。
 紅蓮にとって『奇跡の丘』は最後の希望であり、おそらく『丘』を目指すほとんどの冒険者も変わらない、はずだ。
 その中でサリエルだけは夢見る前から諦めてへらへら笑っている……そんな気がして、妙に苛立って仕方ない。
 湧き上がってくる苛立ちは胸に秘め、紅蓮は出来る限り平静を努める。当時もそうしてきたはずだったが、サリエルは敏感に紅蓮の苛立ちを受け止め、自ら仲間から離れていったのだ。
 顔を上げれば、サリエルがこちらを見ている。
 普段はふざけた言動ばかりしているサリエルだが、ただふざけているわけでもない。大きな赤い目が見つめているのは、物事の本質に当たる部分。
 そう言ったのは、確か。
「そういや、紅蓮。ルフランはどうした。一緒じゃねえのか」
 サリエルは不意に言った。紅蓮は「え」と間抜けな声を上げてから、少しだけ眉を寄せる。去り行く白い後姿のイメージが、再び脳裏に蘇る。月に向かって消えていった、ルフラン。
 今どこにいるかもわからない、かつての相棒。
「最近別れたよ」
「はっ、とうとうアイツもお前についてけなくなったってか?」
「違えよ。アイツは、『丘』を見つけたんだ」
 一瞬、沈黙が流れた。その沈黙の中で、サリエルがかくんと顎を落としたのだけはわかった。
「……マジかよ」
「マジだ」
 紅蓮はサリエルに説明した。
 ルフランは『丘』を見つけたと言ったが、同時に紅蓮の同行を拒んだ。ただ、「西へ」とだけ言い残して去った。その後どこに向かったのかは誰も知らない、と。
「西、か」
「俺はルフランの足取りを追っている。西へ……そっちへ行けば『奇跡の丘』に辿り付けると信じてんだ」
 紅蓮は月を見上げる。橙色の月を。
 その下に『奇跡の丘』を隠し続けたまま、月は煌々と世界を照らし上げている。
 何度目かもわからない沈黙が場を支配する。どこからか流れてくる寂しげなメロディだけが耳に入るものの、意識はメロディラインを正確に捉えてくれない。
 紅蓮の心はただ、月と『奇跡の丘』、またそこに辿り着いたのだろうルフランの背中に向けられていた。
「紅蓮」
 サリエルがぽつりと呟いた。紅蓮はふとそちらを見る。サリエルは真っ赤な目を月に向け、帽子から突き出た耳をぴくりと動かした。
「俺様も連れてけ」
「何だ、気が変わったのか」
「変わっちゃいない。言っただろ、俺様は夢を叶える気はねえが、知的好奇心はあるってな」
 『奇跡の丘』のアテがない状態ならともかく、存在するとわかったならば行かない理由は無い。サリエルは言ってにぃと歯をむき出す。ウサギビトは普段無表情なだけに、笑うと少しだけ怖い。
「それに……ルフランが気になる」
「ルフランが?」
「何、こっちの話だ。お前が嫌がっても俺様ストーキングしちゃるからな、覚悟しとけ」
 サリエルの言い分は相当勝手なものだったが、紅蓮は笑みをもってそれに応える。思いは違えど目的は一緒。ならば同行を拒む理由も無い。
 それに、『丘』を目指す紅蓮の目的も、いまや夢を叶えるためだけではない。サリエルと同じ意味かどうかは知らないが、ルフランの行方が気になっているのもまた、事実だった。
「いや、頼もしい。よろしく頼むよ」
「む、素直なお前とても気持ち悪い」
「黙れこのチビウサギ」
 軽口の応酬をしていると、イーグリットがためらいがちに口を開いた。
「なあ……私も、連れて行ってくれないか」
 紅蓮は口を噤み、イーグリットを見る。サリエルもまた、膝の上からイーグリットを見上げた。
 イーグリットは透き通った薄青の瞳で、真っ直ぐに紅蓮を見据えていた。貫くほどに鋭く、折れることのない力が視線に篭っている。
「西に。『奇跡の丘』に」
 その視線を受けて、紅蓮はにっと笑む。心に抱いているのがどんな夢であろうとも、自分達の目的は一つ。
 それならば。
「大歓迎だ。よろしくな、イーグリット」
 同じ目的を持つ仲間に、手を差し伸べない理由はない。
 イーグリットはほんの少しだけ微笑んで、紅蓮の差し伸べた手を握り返した。
 握った手の温度が感じられなくとも、そこに仲間がいる。今こうして手を握っている、それだけわかれば、紅蓮には十分だった。
 十分すぎた。