『ゲーム』がいつ頃から広まったのか、正確なことは何も知らない。世間の噂に疎いというよりも、噂を教えてくれるような仲間が雫にはいなかったから。
初めてその話を聞いたのだって、小夜からだった。
もしもどんな夢でも叶うなら、何を願うだろうか。
考えなかったわけでもない。小夜に対しては誤魔化して「思いつかない」なんて言ってみたけれど、本当に夢が叶うのなら雫が願うことは一つだったはずだ。
ただ、もし叶うその瞬間になって同じ夢を言葉に出来るのかと言ったら……きっと、言えないと思う。
右の頬を撫でる。元の形をすっかり忘れてしまった、焼け爛れた皮膚の感触が指先に伝わる。
こうなってしまった日のことは、全くと言っていいほど思い出せない。ずっと気を失っていて、目覚めたら病院のベッドの上だったから。
けれどもその日から雫の人生が一変したのは事実だった。火傷の痕と大切なものを全部失ってしまった空っぽな心を抱えて、毎日を空虚に消化するような日々。
そこから救い出してくれたのが他でもない小夜だった。
やっと新たな生き方を受け入れられると思ったのに、道を開いてくれた小夜の姿がなかったとしたら。
そんなのは、悲しすぎる。
悲しすぎるではないか……それが、『小夜の夢』だったとしても。
軽く頭を振って、暗くなりがちな思考を追い払う。小夜のためには、自分が暗くなっていてはいけないと思う。小夜が目覚めた時に、笑って迎えてやらなくてはならないのだから。
何度か瞬きをして、建物に切り取られた空を見上げる。今日も病院の中庭から見る空は遠く、澄んだ青に染まっている。秋の空だ。はるかな空を見上げたまま、雫はぽつりと言葉を放つ。
「また、会ったな」
「……え、あっ」
視界の片隅にいた少年が慌てる。どうも、建物の影からずっとこちらの様子を窺っていたらしい。あえて気づかないフリをしていたが、多分そのまま放っておけばずっとこちらを見ているだろうな、と思うと声をかけずにはいられなかった。
眼鏡の少年はバツが悪そうな顔をして雫の側まで歩いてくる。雫は少年を見上げて微かに笑う。
「声、かけてくれればいいのに」
「その、何か、考え事しているのかな、と思って」
確かに、色々と考えてはいた。意識はしていなかったが、かなり難しい顔をしていたのかもしれない。それは声もかけづらいだろう。顔の傷と無愛想な表情のせいで相当とっつきづらいと小夜にも散々言われていたのだから自覚すべきだろうなとは思っているものの、なかなか難しい顔をする癖は抜けないものだ。
何とも居心地悪そうにもじもじしている少年を見ていると、こちらから何か言わなきゃならないのだろうなと思う。どうもこの少年、雫と負けず劣らず喋るのが苦手なように見えたから。
「横、座れば?」
「いいんですか」
「立ってるのも疲れるだろ」
雫が手で自分の横を示してやると、少年はこくりと頷いて横に座った。だからと言って、お互いに何か話題があるわけでもなく。雫は足元を風に吹かれて転がっていく、ひとひらの葉を見つめていた。
どのくらい、沈黙が続いていただろうか。少年が「あの」と多少くぐもった声で話を切り出す。
「お見舞いですか」
「うん。知り合いが入院しててさ。ただ、向こうは私がいることにも気づいてないとは思うけど」
どういうことですか、と少年は目を丸くして横から雫の顔を覗き込んでくる。真っ直ぐに見つめられることに慣れていない雫は、思わず視線を逸らしながらも言う。
「ずっと眠ってるんだ。原因もわからなくてさ……だから、私が見舞いに行っても何にもならない」
「そんなことは、ないと思います」
ぽつり、小さな声で少年は呟く。
「今は眠ってて声も聞こえないかもしれないですけど。目が覚めた時に一人じゃないって、幸せです」
――絶対に。
囁くようでいて、妙に力の篭った言葉が雫の耳に届く。横目で少年を見れば、少年は眼鏡の下の瞳を空に向けていた。切り取られた青い空の、先の先まで透かそうとするかのように。
その横顔に、どこかで見たような表情を垣間見る。
一体、どこで見たものなのだろうか。そんな風に考えながら、雫は聞いていいものかどうか迷いながらも問いを少年に投げかける。
「君は、ここに入院してるのか」
「はい。生まれつき体が弱いんです。それで、ずっと」
ずっと。その言葉が妙に引っかかって、雫は問い直す。
「どのくらい?」
「ずっと、です。家にいた記憶なんてほとんどありませんよ」
少年は唇に薄く笑みを浮かべて言い放つ。
家にも帰れないまま、日々を病院の小さな部屋の中で過ごす。当然学校にも行けなければ、友達と遊んだりすることもできないのだろう。それどころか、友達と言える友達も作れなかったのかもしれない。
考えているうちにいたたまれなくなって少年に頭を下げる。
「ごめん、悪いこと聞いたな」
「え、いえ、こちらこそ変な話してごめんなさい」
少年は慌てて両手を顔の前で振り、つとめて明るく言った。
「僕、家には帰りたくないんです。息苦しいだけですから」
「そう、なのか」
「それなら、ここにいた方が数倍マシです。ただ」
できる限り雫を不安がらせまいと明るく言っているつもりだったのだろう。だが、笑顔に落ちている影はどうしても隠せていなかった。
「目が覚めた時に一人なのは、ちょっと辛いですけど」
目覚めた時にはベッドの側に親や友人の姿はなく、見守ってくれているのは自分をただの病人としてしか見ていない医者と看護士だけ。そういう朝を何度も何度も繰り返してきているのだろう。
考えてみれば、確かに辛い。雫にとっての当たり前が、この少年にとっては全く当たり前ではないのだ。むしろ、当たり前であることが何よりもの幸福なのかもしれない。
「だから、お見舞いは嬉しいはずです。僕はそう思いますよ」
「そっか。ありがとな」
果たして、寂しげな笑顔を見せる少年を見舞いに来てくれる人はいるのだろうか。
あえて問うつもりはなかったが、そう思わずにはいられない。病院だけが自分の世界だなんて、想像しただけで息苦しくなってくる。この中庭から空を見上げたって、建物に切り取られた狭い空しか見えないというのに。
雫は目を閉じて、思案する。
数秒の間思案して、考えるまでもないと気づく。
「そうだ……君の名前。聞かせてくれるか」
「え?」
「私はトキワ・シズクっていうんだけどさ。君の名前、聞いてなかったから」
少年は驚いてしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがて我に返って言った。
「僕は、カミジョウ・リョウタロウです」
そういえば、小夜の病室と同じ階、階段の一番近くにある病室に『上条遼太郎』という名前が書かれた札を見た記憶がある。階段の側ということもあって、何となく頭に引っかかっていたのだ。
雫が指摘すると、少年はこくりと頷いてそれが自分の病室だと言った。
「そっか。なら、明日も顔出すよ。友達も同じ階だし」
「いいんですか」
「いいも悪いも。自分がそうしたいだけだし」
雫がぶっきらぼうな口調で言うと、遼太郎は一瞬きょとんとした後に、少しだけ顔を赤くして「ありがとうございます」と頭を下げた。
礼を言われる理由はないし、そんな風に改まって言われるとこっちまで背筋がこそばゆくなる。雫は何だか顔に血が上ってくるのを感じながら、立ち上がってそっぽを向く。もちろん、赤くなった顔を隠すためだ。
「じゃあ、今日は行くよ。もう一度知り合いんとこに顔出してくる」
「あのっ、トキワさん!」
「……何?」
「よかったら明日、トキワさんの学校のこと教えてもらえませんか。僕、学校ってほとんど行ったことなくて」
ちらりと視線を戻せば、遼太郎はどこかはにかむような笑顔を見せていた。そんな話でいいのならば、いくらでも話せる。多分、遼太郎の期待するような学校生活とは無縁ではあるが。
「もちろん」
雫は再び遼太郎から視線を外して口元に微かな笑みを浮かべる。近頃色々あって沈んでいた心が、少しだけ軽くなったような気がする。こんなことを考えては眠り続けている小夜に悪いかなと思いつつも、今の気分は悪くない。
「それじゃあまた、上条くん」
ひらひらと後ろに見えるように手を振ると、声が後ろからついてきた。
「はい! また明日、トキワさん」
――また明日ね、朱鷺サン。
一瞬、あの日の屋上で聞いた小夜の声が被さったような気がして、一度は軽く感じられた胸に小さな痛みを生む。
それを遼太郎には悟られまいと、雫は早足に中庭を後にした。
シトラスムーン・ドリミンガール