――太陽の、夢を見る。
真っ青な空に浮かぶ太陽だ。雲ひとつ無い空は見渡す限りに広がっていて、その下に自分が立っている。自分がどこにいるのかはわからないが、高い場所だということはわかる。見覚えのある世界を見渡して、自分はきちんとここに「立って」いるのだと理解する。
この空が、夢でなければ。
何度も何度も、変わらぬ夢を見て……気づけばそれが叶えるべき『夢』になって。
紅蓮はゆっくりと、目を開ける。
夢は覚めて、青かった空は漆黒の闇に包まれ、空に浮かぶのは太陽ではなく巨大な月。今日もまたはるかな荒野と明けない夜が視界一杯に広がっている。
この空が嫌いなわけではない。明けない夜は覚めない夢にも似ていて、まるで今の自分のようで。外見に似合わずロマンチストなところがある紅蓮はこの漆黒の空もまたかけがえの無いものなのだと信じている。
だから、紅蓮は必ず目を閉じては耳を澄ます。この世界の温度の無い風の音を、過ぎ行く人の声を、そしてどこからともなく流れてくるメロディを記憶できるように。
夢が叶ったその時も、この場所を忘れないように。
「夢を、見ていたの?」
声は足元から聞こえた。紅蓮の足元には、いつの間にか少女が座っていた。時計塔で見た、薄青のワンピースを身に纏った少女だ。その服の薄青は、今まさに紅蓮が夢見ていた青空の色と同じだったことに気づく。
「ああ」
薄青の少女は紅蓮を見上げ、空色の瞳で微笑む。
「夢が好きなんだね」
好き。そうなのだろうか、と紅蓮は自分自身に疑問符を投げかけてみる。何度も描き続けている夢は何故か必ず胸に一抹の痛みを残す。当たり前のように夢を脳裏に描いているが、この痛みだけはどうしても好きになれずにいた。
だから、少女の言葉には答えずに別の言葉を紡ぐ。
「夢がなきゃ、この場所に立ってなんかいねえよ」
「でも、夢は覚めるよ。いつか、覚めなきゃいけないんだよ」
覚めなきゃ、いけない?
言葉の意味がわからず、首を傾げる。この前もそうだった。少女の言うことはどうしても紅蓮には理解できない。あえて理解しづらい言い回しをしているように思うこともある。
ただ、内容はともかく少女の言葉が紅蓮を苛立たせるのは確かだった。あえて少女が明言しているわけではないけれど、紅蓮の抱いている夢など無駄なことだと言われているような気がして。
「何が言いたいんだ」
棘を篭めて言葉を放つと、少女はふと眉を寄せて悲しげな表情を浮かべた。その表情に一瞬、知っている誰かの顔と重なった気がして息を飲む。
すると、つむじ風が地面の細かい白い砂を巻き上げた。反射的に目を覆い、次に視界が開けた時には薄青の少女の姿はどこにも見当たらなかった。
言うことだけ言って消えてしまう。あの不思議な少女はいつもそうだ。
「……何だってんだ」
ざ、とブーツで少女がいた場所の砂を蹴る。一瞬は砂に足跡を残すものの、すぐに風によって均され元の姿に戻ってしまう。それがまた気に食わなくて、何度も何度も紅蓮は砂を蹴った。不毛であることもわかっていながら。
この苛立ちは、何かに似ている。
ああ、そうか。
ルフランが消えた、あの日抱いた思いに似ているのだ。
「紅蓮」
声をかけられて我に返る。イーグリットが、すぐ側にまで来ていたのだ。埃っぽい風に光を含んだ銀色の髪を揺らすイーグリットは、何をしているんだと紅蓮に問うた。
「別に。悪いな、遅れて」
「構わないよ。行こう、サリがロリス橋で待ってる」
イーグリットは紅蓮の横に立って歩き出す。紅蓮もそれに合わせて歩き出した。砂を踏む二人分の足音がアトラス荒野に響き渡る。
イーグリットとサリエルを仲間に加え、『奇跡の丘』を目指して数日。歩いても歩いても、代わり映えのしない荒野が続く。捻れた形の山が遠くにいくつも聳え、時折黒ずんだ水を湛えた川が三人の足を阻む。
それでも西へ。
時折、同業者に会うこともある。その時にはルフランを見なかったか聞いてみるが、望んだような答えは返ってこない。昨日、一人だけルフランを見たという男がいたが、結局西へ行ったということしかわからなかった。
西に行くというルフランの言葉が正しかったとわかっただけでも、幸いだと思うべきなのかもしれないが。
紅蓮、と。
イーグリットが名前を呼ぶ。彼女の声は少し低めの掠れ声だが心地よい響きを持っている。紅蓮がそちらに視線を向けると、イーグリットは澄み切った薄青の瞳で紅蓮を見上げていた。
「ロリス橋の先には、何があるんだ?」
「ウォルフ山だな。あの山を越えると今度はベルジュラック遺跡が広がっているんだが……」
指差した先には、一際大きな歪んだ形の山が見える。ウォルフ山。かつて一度越えたことがあるものの、その先の遺跡群は凶悪なイクリプスが大量に現れる場所でもある。流石の紅蓮もその奥まで足を踏み入れることは出来なかった。
ルフランは……あの先に行ったのだろうか。
「それだけ、危険な場所なんだな」
イーグリットは唇を微かに動かして、呟く。その声には少なからず不安の色が滲んでいた。小さな不安がもっと大きな不安を呼ばないように、紅蓮は「ははっ」と淀みかけた空気を笑い飛ばす。
「危険は承知だ、そのくらいじゃないとありがたみも無いってもんだ」
何しろ、どんな願いでも叶うのだから。そのくらいの苦難は望むところだと紅蓮は思っている。恐れるものはない、今更失うものだってないのだからあとは前に進むのみ。
イーグリットは深く息をついて、橙色の月に視線を移す。
「それだけ強い願いなんだな。紅蓮の願いは」
「さあな、他の奴と比べたことなんてないからわかんねえけど。イーグリットだって俺と変わらないだろ」
紅蓮は当たり前のように言ったが、想像に反してイーグリットはゆるゆるとかぶりを振った。何故か寂しげな微笑をその唇に湛えて。
「……違うよ。私は、紅蓮のようにはなれない。自信が、ないんだ」
普段は背筋を伸ばし、凛と立っているのに、イーグリットは時折酷く儚く見える。白い姿が巻き上がる砂に紛れてしまいそうで、あの薄青の少女のように側にいたと思ったらどこかに消えてしまう錯覚に襲われる。
イーグリットは『奇跡の丘』について語る時だけ、傷つきやすい少女の顔をする。
そんな顔をしないでほしい……紅蓮は、拳を握り締めて思う。イーグリットが悲しそうな顔をしていると、胸が痛むのだ。
凛としていて欲しい、背筋を伸ばしていて欲しい。そして願うならば、笑って欲しい。
「っ、どんな願いを持ってるかなんて、俺は知らないけどさ」
上手い言葉が浮かばずに、視線ばかり空に彷徨わせて紅蓮は言う。
「 『奇跡の丘』にたどり着けばどんな夢でも叶うんだ。願いの強さなんて関係ないだろ……それを言ったら」
俺の願いだって。
紅蓮は口の中で呟く。イーグリットに聞こえなければいい、と心から願う。きっと自分の願いをイーグリットが聞いたら不思議そうな顔をするだろう。何故、そんなことを願うのかと問いを投げかけてくるだろう。
それを考えると、言葉に詰まる。
下らない願いかもしれないが、自分にとっては何よりも求めていたもの。長い間描き続けていた太陽の夢、諦め切れなかった夢をかけてこの場所に来た紅蓮の心はおそらく誰にも理解できない。
結局、願いなんて、夢なんてそんなものだ。
まだ冴えない顔をしているイーグリットの肩を叩いて、紅蓮は精一杯笑う。笑って、自分自身に何度も繰り返してきた言葉を放つ。
「信じるんだ。夢は叶う、叶えば全てがよい方向に向かう」
「全てが、よい方向に……か」
「そう信じないと、やっていけねえよ。これから先もな」
それは、この先で自分達を待ち受けている困難な道のりのことか。それとも……
イーグリットはふ、と微笑んだ。淡い青の瞳を細めた笑顔は、いつものイーグリットの表情そのものだった。
「紅蓮の言うとおりだ。私も、前を向かなきゃな」
「そ。じゃあ、前に向かうためにも」
――こいつらを、どうにかしようじゃねえか。
紅蓮は口元に不敵な笑みを浮かべ、立ちはだかる影を睨みつける。いつの間にか、無数のイクリプスが紅蓮とイーグリットを取り囲んでいた。
もちろん、気づいていなかったわけではない。気づいていながら、のんびりと言葉を交わしていたのだ。この程度のイクリプス、紅蓮の敵ではない。そしてイーグリットの敵でもないだろうということは、共に歩んできた数日ではっきりしている。
「来い、『迦具土』!」
普段は篭手の中に収められている武器を呼び出す。赤い光を纏った刃、古き神の名を宿した炎の刀が紅蓮の指先に吸い付く。イーグリットもまた、腕を突き出して静かに言う。
「 『フリムスルス』、行くよ」
霜の巨人の名を冠した巨大な青白い剣が虚空に現れる。イーグリットは自分の背丈ほどある剣を軽々持ち上げ、構えてみせる。
紅蓮とイーグリットは背中合わせになって、短く言葉を交わす。
「そっちは任せた」
「ああ」
そして、地を蹴る。
白い砂が巻き上がり、イクリプスの群れもまた闇よりもなお黒い体をくねらせて二人に肉薄する。紅蓮は刀を振るい、まず一体のイクリプスを両断する。そしてその時刃の軌道に生まれた炎の帯が横から近づいてきていたもう一体を消し炭にしていた。
唇には笑みを、目には闘志を。
こんな所で足止めを食らっている場合ではないのだ。赤銅の瞳が新たに迫り来るイクリプスの爪を捉え、正確に回避する。次の瞬間、返す刃がイクリプスの体に滑るように差し込まれていた。
悲鳴は聞こえなかったことにして、聞こえてくるアップテンポの音楽に合わせて口笛を吹く。倒れたイクリプスの姿は見ない。命を絶たれたイクリプスは、すぐに夜の闇に溶けて見えなくなってしまうものだから。
きぃん、と刃と刃が触れ合う音。ちらりとそちらに目をやれば、イーグリットがイクリプスの刃と化した腕を受け止めたところだった。普通ならばそのまま動きを止められ横合いから攻撃を仕掛けられてしまうところだが。
イーグリットは目を細め、小さく何かを呟く。その瞬間、イクリプスの腕が白い何かに包まれ、弾けるように霧散した。そして、間髪入れずに剣を掲げる。
紅の軌道を描く紅蓮の刀とは違い、真っ白な霧のようなものが剣から噴き出し、辺りを包み込む。その霧に包まれたイクリプスは、例外なく動きを止めてその場に立ち尽くす。イーグリットの武器が持つ力……何もかもを凍結させる、零下の霧だ。
「さよなら」
ハスキーな声と共に、イーグリットは剣を振りぬく。凍りついたイクリプスたちは皆抵抗することも出来ずに弾け跳び、先ほど吹き飛ばされたイクリプスの腕と同じように、キラキラと輝く白い破片となって空気の中に解けていく。
強いな、と紅蓮は思う。まだソムニア世界に来たばかりだというのに、イーグリットは完全に武器を使いこなし、これだけのイクリプスとやり合っている。ベテラン冒険者の紅蓮の背中を守れるほどの腕を持っているのだ。
負けてはいられない、と紅蓮は駆け出す。炎の尾を引きながら踊るようなステップを踏み、一際大きな体を持つイクリプスの懐にもぐりこむ。影の中に浮かぶ、橙の瞳と視線を交錯させて……刹那、イクリプスの胸に刀が突き刺さっていた。
刀から生まれる炎がイクリプスを包み込み、世界から完全に消滅させる。
危なげなどありはしない、この程度の相手にてこずるようでは『奇跡の丘』を見ることも叶わない。
それにしても、だ。
「きりが無いな……」
再び背を合わせたイーグリットがふうと溜息をつく。
「ホント、こんな数相手にすんのは初めてかも。厄介だな」
紅蓮もまた、刀を正眼に構えたまま肩を竦める。一体一体の強さは大したことないが、数を集められては進むことも退くこともできない。二人で一点を目指し突破するのも不可能ではないと思うが、少しばかり危険が伴う。
どうすべきか、と紅蓮が思案し始めたとき。
聞き覚えのある鈴の音が耳に届いた。一瞬聞き間違いかと思ったが、次に響いた声でそれが空耳ではないことを確信する。
「月が落ちる、夢に現を見ろ」
しゃん、という鈴の音が風の音を貫いて響き渡る。
「鳴り響け、『コテュス』!」
鈴の音と共に降り注ぐのは光の雨。月の光と同じ橙色に輝く光線の一つ一つが、その場にいたイクリプスを貫き、地面に縫いとめる。光に貫かれたイクリプスは悲鳴を上げながら次々に消滅していく。
黒色の魔術師が得意とする、広範囲の相手に攻撃を仕掛ける魔法だ。これだけのイクリプスを一度に相手できる魔術師など、紅蓮が知っている中でも一人しかいない。
「サリ!」
光の雨の出所に視線を向ければ、そこにはとんがり帽子の白ウサギが一人。一羽、というべきなのかどうかが迷いどころだ。
サリエルは自分の背丈より大きな杖を抱え、荒野の中でひときわ高く積みあがった岩の上に仁王立ちしていた。杖には銀色の鈴が無数に括りつけてあって、それが月の光を浴びながら特徴的な音色を奏でている。
「ふははは、超キュートでプリチーな俺様参上!」
「はいはい、外見だけはプリチーですねサリエル様」
ぴょんこぴょんこ岩の上で跳ねてみせるウサギビトをあっさりあしらって、刀を篭手の中に収める。今のサリエルの一撃でイクリプスは全滅していた。流石に魔法だけは一流と謳われるサリエルだ、撃ち漏らしもない。
イーグリットも剣を腕飾りに戻すと、笑顔でサリエルを見上げた。
「ありがとう、サリ。助かった」
「お前らが遅かったからな。わざわざ駆けつけてやった俺様に感謝し敬い奉るといいと思うぞ」
サリエルはぴんと耳を伸ばして、とっても偉そうなポーズをしている。ただ、どこまでも格好はウサギなので威厳も何もあったものではない。
これ、もし人間の格好してたら相当ウザい奴だろうなあ、と紅蓮は思わずにはいられない。外見とは、実はものすごく大切なものなのかもしれない。
「それでだな、紅蓮よ」
呼びかけられて、紅蓮はジト目をサリエルに向ける。岩の上のサリエルは杖を抱えたまま、相変わらずの仁王立ちなわけだが……
「何だよ」
「こっから下ろしてくれー、お願いだー!」
「登っといて下りれないのかよ!」
紅蓮は、サリエルを置いていこうかと本気で考えてみた。
真面目に考える紅蓮を見て、イーグリットがくすくすと楽しそうに笑い始める。やがて紅蓮もつられて笑い出した。悲鳴を上げるサリエルをよそに、荒野に二人分の笑い声が生まれる。
白い砂を巻き上げる風に笑い声を乗せ、三人はアトラス荒野の先、ウォルフ山を目指す。
シトラスムーン・ドリミンガール