扉を開けた途端、耳に飛び込んできたのは明るい声だった。
「こんにちは、トキワさん」
「よ、元気か?」
病人に「元気」というのもちょっと変かもしれない。そんな他愛もないことを考えながらも、雫はベッドの上で嬉しそうに笑う遼太郎を見やる。
「今日はそれなりに。最近は調子いいんですよ」
以前の遼太郎を知っているわけではないから何とも言えないが……ずっと退院できない、という点から考えてもかなり重い病気を抱えていることには違いない。そんな中、雫を笑顔で迎えられるのだからまだ具合は悪くないのだろうなと判断する。
それにしても殺風景な病室だ。
病室にしてはかなり広いが、ベッドは遼太郎のもの一つだけ。ベッドの周りに普段使うもの……最新型のコンピュータや色々な種類の本だ……が集められているだけに、がらんとした空間が余計に広く感じてしまうのかもしれない。
とりあえず、近くにあった椅子を引き寄せて座る。椅子はしばらく使われていなかったのだろうか、薄く埃が積もっていた。
遼太郎は分厚い眼鏡をかけなおすと、ちょっとだけ笑顔を曇らせて言う。
「こんな風に誰かが来てくれるの、久しぶりなんです」
親や親戚は、顔を出そうともしないのか。当然の疑問が頭をよぎったが、それを言葉にする前に遼太郎が答えを言葉にした。
「僕、家族にも嫌われてて。僕なんていないも同然なんですよ」
「何だそれ。本当に家族なのか?」
「そういう家もあるんです」
吐き捨てるように言って、遼太郎は口を閉ざす。雫もそれ以上は聞かないことにした。相当複雑な事情を抱えた家庭なのだろうな、とだけ認識して本題に移る。
「それで、学校の話だっけ?」
「あ、はい。すみません、わざわざ」
頭を下げようとする遼太郎を遮って、雫は笑みを向ける。
「いいんだ。でも君が期待するような話はできないよ」
何しろ、自分は学校という空間において相当浮いている存在なのだから。だが、そう前置きしたにもかかわらず遼太郎は期待に満ちた目で雫を見ていた。それだけで何だかこそばゆくなってくる。
「そうだな。私は西高の二年なんだけどね。結構色んなところを点々としてて、こっちには今年引っ越してきたばかりなんだ。友達らしい友達もいない」
元々男っぽいぶっきらぼうな口調と無愛想な顔、加えて顔の半分を覆う不気味な火傷の痕だ。遠巻きにされて当然なのだが、と言うと遼太郎は不思議そうに首を傾げてみせた。
「そんなに不気味ですか?」
「君がそう思わなくても、周りはそう思うんだよ」
実際に不気味だと誰かから聞いたことはないが、想像することは容易い。何しろ、誰もがこの顔を見た途端に気まずそうな顔をして口を閉ざしてしまうのだから。迷わず感想を言ってくれたのは遼太郎と、もう一人だけ。
「だから、初めは学校がつまらなくて仕方なかった。毎日、ただそこにいるだけって感じでね。そんな時に一人だけ私に話しかけてくれた小夜って奴がいて、そいつが今ここに入院してるんだ」
小夜と出会ってからは、自分も随分変わったと思う。
ぱっと見る限りふわふわしていて頼りなく見えたけれど、小夜は決して雫を恐れることも無かったし、穏やかに笑いながらも決して自分の意見を曲げない少女だった。そして、雫の顔を見て素直に感想を言ってくれたのも今までは彼女だけだった。
小夜はふわりと笑って、言ったものだ。
『うん、ミステリアスな感じ』
……今考えてみると、やっぱり小夜も雫と同じく感覚が常人からはずれていたのかもしれない。記憶が正しければ小夜もいつも一人で教室の隅に座っていた。誰もが遠巻きにする雫と違って他の人と会話を交わさないわけではないが、ふと気づけば一人でぼうっと窓の外を見ているのだ。
そんな二人だから馴れ合うわけでもなく、たまに言葉を交わして、たまに一緒にご飯を食べて、たまには一緒に屋上に行く。いつしかそんな関係になっていた。
性格だけ言うならば全くと言っていいほど違う二人が何だかんだで一緒にやってこられたのはお互いに深く踏み込まずに適度な距離を保っていたからかもしれない。
「いいお友達なんですね」
「ん……何がいいのかなんてわからないけどな。でも、一緒にいるときには気が楽だった」
「そういうお友達、ちょっと羨ましいです」
遼太郎は雫に微笑みかける。ただ、雫は素直に微笑み返せないままでいた。
今の雫には『友達』という言葉がよくわからない。小夜をそう呼んでいいのかもわからなければ、どういう関係性を持った相手を友達と呼ぶべきなのかもわからない。それに、友達という言葉は雫からしてみれば鈍い痛みも孕んでいる。
もちろん、雫が抱く感情もその理由も知らない遼太郎は無邪気に微笑んだまま、新たな問いを投げかけてくる。
「今は何か楽しみなこととかありますか?」
「うーん。部活もやってるわけじゃないし、何か他に活動をしているわけじゃないし。唯一の楽しみと言ったら、空を見ることかな」
つい、と視線を窓の外に向けると、遼太郎もつられるように窓の外の空を見た。今日は空に薄く雲がかかってしまっていて、段々と暮れていく空も色づいては見えなかったけれど。
「空、ですか?」
「放課後、小夜と屋上に行って空を眺めるんだよ。屋上から見る空は遮るものがなくて、三百六十度見渡せるから。本当は入っちゃいけないから、バレないようにこっそり行くんだけどさ」
だから、小夜との記憶は思い返してみればいつも夕焼けと共にある。彼女は放課後の屋上から見る夕焼けが好きだったから。
「昼と夜の境目っていうのかな。小夜はそういう時間の空を見るのが好きなんだ。実のことを言えば、私はちょっと苦手だけど」
「苦手? 綺麗だと思いますけど」
「綺麗だよ。綺麗だとは思う」
けれど。
普段は絶対に語らないようなことではあったが、空を見上げたまま雫は無意識に言葉を紡いでいた。
「昔、って言っても数年前だけど、火事で友達が皆死んじゃったんだ。この火傷もその時のもの」
指先でそっと、火傷の痕に触れてみる。かなり大規模な火事で、当時は大きなニュースになったはずだ。それを遼太郎が知っているとも思わなかったから、あえて深くは語らなかったが。
「その時のことはほとんど覚えてないんだけど、綺麗な夕焼けだけが目に焼きついててさ。だから夕焼けを見ると、どうしてもその時のことを考える」
そして、また。
綺麗な夕焼けの記憶を最後に、眠りについてしまった人がいる。
あの時のように二度と会えなくなったわけではない、毎日顔を見ることだってできる。だが呼びかけても肩をゆすっても、目を開けていつものように笑ってはくれないのだ。
小夜の横に立っていると、胸の奥が詰まるような錯覚に囚われる。それが辛くてここに来るのを止めてしまおうかとも思ったが、自然と学校の帰りには小夜を見舞いに来てしまう。
『ね、朱鷺サン』
綺麗な声でそう呼んでくれるのを期待する自分が、いる。
結局のところ自分は小夜のことを心配しているというより、自分のことしか考えていないのだ。自分の心が楽になるために、小夜が目覚めるのを期待している。そう思うと自分がとてつもなくみっともない奴のように思えて、恥ずかしくなってくる。
それでも……目覚めて欲しいと願う気持ちは否定したくなかった。
泣いても叫んでも神様に願っても戻らないあの時とは違って、まだ雫が願うだけの余地は残されているのだから。
「……トキワさん?」
「ごめん。話す側が考え込んでちゃ世話ないな」
遼太郎の声で、雫は我に返って数回頭を振る。どうにせよ、考えているだけでは何も変わらないのだ。遼太郎に視線を戻すと、彼は分厚い眼鏡の下からじっと雫を見つめていた。大きな瞳はまるで鏡のようだと思う。
果たして今の自分は、遼太郎の瞳にはどういう風に見えているだろう。
「話すの、辛いですか?」
遼太郎は心底申し訳なさそうな顔をして問いかけてくる。別に、話すことは辛くない。単に、話しながら考えてしまっただけだ。過去のこと、そして今のこと。確かに話していて寂しくなるけれど、話すという行為を通して自分の感情を再確認することができる。
「辛くはない。むしろ……話せてちょっと楽になったよ」
つまらない話をして悪かったね、と言うと遼太郎は慌てて首をぶんぶん横に振った。
「つまらなくないですよ! トキワさんのお話、すごく面白いです」
「はは、上条くんは優しいんだな」
からかうように言うと、遼太郎はくそ真面目な表情で雫を睨む。睨むといっても微かに眉を寄せる程度でさっぱり怖くは無かった。
「僕、本気で言ってるんですよ?」
「悪い悪い。こうやって、話ができる相手もいなかったからさ。聞いてくれてありがとな」
「こ、こちらこそですよ! 元々話して欲しいって言ったのはこっちですし! それに、嬉しいんです……友達ってこんな感じなのかなって思って」
遼太郎ははにかむように微笑んでみせる。その表情に、また微かな胸の痛みを覚えて遼太郎には気づかれないようにそっと胸を押さえる。
「その、もし迷惑じゃなければ、ですけど。僕も、トキワさんの友達になっていいですか?」
友達。
その言葉の意味もはっきり答えられない自分がこんなことを言えた義理ではないかもしれないけれど。雫は思いながら、苦笑にも似た笑みを遼太郎に投げかける。
「そうだな、友達ってのは、お願いするもんじゃないと思うぞ」
「えっ! そう、なんですか」
遼太郎はあからさまに愕然としたようだった。この少年は、雫以上に「友達」という言葉がどのようなものなのかわかっていないのだろう。それはそうだ、遼太郎は今までこの場所からほとんど出たこともないのだから。
だから、雫は穏やかに笑んで遼太郎の頭を軽く叩く。
「君が友達って思えば友達だ。それだけでいいんだと思うよ」
「でも……でも、トキワさんは迷惑じゃないですか、こんな」
こんな、の後の言葉はほとんど聞こえなかった。それでも言いたいことは十分に伝わったと思う。何も遼太郎が遠慮することはないのだ。雫は笑みを深めて、自然に言葉を放っていた。
「迷惑じゃない。君に友達だと思ってもらえたなら、嬉しい」
今の自分はまだ、素直に遼太郎を「友達だ」と言うことができないけれど、嬉しいと思う気持ちは間違いない。遼太郎はぱっと顔を上げてから、少しだけ頬を赤くして満面の笑顔を浮かべてみせた。
「わ、あ、ありがとうございます!」
友達というよりは弟という感じだが。
雫はくすりと笑みをこぼし、椅子から立つ。そろそろ家に帰らなくてはならない時間だ。遼太郎は少しだけ残念そうな顔をしてみせたが、すぐに笑顔を取り戻して言った。
「あの、また来てくれますか」
「約束するよ。明日来られるかどうかはわからないけどな」
それを聞いた遼太郎の表情に一瞬影が走る。眼鏡の下の瞳が揺らぎ、何ともいえない表情がよぎったのを雫は見逃さなかった。
「上条くん?」
声をかけてみると、遼太郎はあたふたとしながら雫を上目遣いに見上げた。
「あ、いえ……その、待ってます」
「ああ。それじゃあ、またな」
「はい、また」
どこか残念そうに手を振る遼太郎に手を振り替えして、雫は病室の扉を開ける。その際ちらりと振り返ってみれば、遼太郎はまだ雫の方をじっと見つめていた。
――寂しいのだろうな。
寂しいに決まっている。雫とてあんな空間に一人きりで閉じ込められていたら、発狂の一つもしてしまいそうだ。遼太郎はもうその生活に慣れてしまっているのだろうが……寂しい、ということには慣れないのだろう。
出来る限り、明日も顔を出してやろう。そう思って廊下に一歩を踏み出した途端。
血相を変えた看護師が廊下の先、小夜の病室から飛び出してきた。そして廊下に出ていた雫の姿を認めると声を上げた。
「あ、あなた、原田さんのお友達よね?」
「はあ、小夜に何か……」
「原田さんの容態が、急に悪化して……っ」
息が、止まる。
直後、雫は小夜の病室に駆け込んだ。
ベッドの上で、小夜は苦しげに息をついている。今まで静かに眠っていただけに、この容態の急変には誰もが混乱しているようだった。医者と看護師たちはそんな小夜を囲み色々と処置を施しているようだが、事態が好転する様子はない。
看護師によれば小夜の親にも連絡が行っているようだが、小夜の家は病院から遠い。ここに到着するまでにまだ少しかかってしまうだろう。
雫はその横で苦しむ小夜を見つめていることしかできない。小夜の苦しみを和らげる術など雫にあるはずもないのだから。
――いや、違う。
立ち尽くしている場合じゃない。
今、自分にできることが、あるはずじゃないか。
「……くそっ!」
こんなものに頼るしかないなんて腹立たしいにもほどがあるが、今はつべこべ言っている場合ではない。
そこに一縷でも望みがあるのなら、藁にでも何にでもすがってやる。
看護婦の制止の声を振り切って部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けて建物の外へ出る。鞄の中から携帯を取り出して電源を入れ……ポケットの中から、くしゃくしゃになってしまった名刺を広げる。
緑野。あの胡散臭い男の名刺には、しっかり携帯の番号が書かれている。
焦りながらも、番号を間違えないように一つずつ確かめながらボタンを押していく。十一個のナンバーを確かめて、通話のボタンを押す。呼び出し音がもどかしい、早く繋がってくれと祈っていると、三回目のコールが途中で途切れて、願っていた声が聞こえてきた。
『もしもし』
「緑野さんですか? 朱鷺羽です! 小夜が、危ないんです!」
『病院だな。すぐに向かう。それと』
雫の断片的な言葉から正確に意図を受け取る緑野の声は静かで、それでいて確かなものだった。雫も不思議と心が落ちついてくるのを感じながら、緑野の次の言葉を待つ。
『君は、原田さんの側で声をかけてやってくれ。それだけで、少しは変わるはずだ』
「そんなことで、何が変わるって」
『 「そんなこと」が、今必要なんだよ』
雫の言葉を遮った緑野は言い切り、一方的に通話を切ってしまった。取り残される形になった雫はしばらくは何も答えなくなってしまった携帯を見つめていたが、すぐに気を取り直して強く顔を叩く。
しっかりしろ、雫。
緑野の言葉を一から十まで信じることはできないけれど。
側にいて小夜のためになれるなら、いくらでも側にいればいいではないか。元よりそのために自分はここにいるのだから。
雫は泣きたくなる気持ちを無理やり胸の奥の奥に押し込んで、自分が地面を踏んでいる感覚を確かめながら、もう一度駆け出す。
小夜。
どうか、無事で。
シトラスムーン・ドリミンガール