シトラスムーン・ドリミンガール

シトラスムーン:05

『紅蓮って、いつも一生懸命ですよね』
 閉じた瞼の裏に映るのは、白い衣を纏った女。波打つ蜂蜜色の髪を温度の無い風に靡かせたルフランは、いつもどこか寂しそうに笑っていたのだと思い出す。
『そうか? これが普通だと思ってたんだが』
『一生懸命ですよ。それに、前向き』
 こんな話をしたのは、確かサリエルと別れた直後だったような気がする。当時の自分はサリエルの『奇跡の丘』に向ける考え方が気に食わなくて、そんなサリエルを認められなかった自分に一番苛立っていた。
 人によって考え方が違うのなんて当然だ。実際には『奇跡の丘』の存在を疑う冒険者の方が多いのもわかっていたつもりだったのに、仲間だったサリエルが『奇跡の丘』を否定するような発言をするのがどうしても許せなかった。
 サリエルにその気が無くても、紅蓮は「裏切られた」と感じていて……故に、別れることになった。この結果を導いたのは自分。自分の子供っぽい思慮のなさがサリエルとの決裂を生んだのだと後悔していたのがこの頃だ。
 だから、そんな自分を「一生懸命」だとか「前向き」と評価するルフランが理解できなくて、紅蓮は「はは」と自嘲も篭めてルフランの言葉を笑い飛ばした。
『まさか。どう見れば俺がそういう風に見えんだよ』
『私から見れば。本当に、羨ましい』
 ルフランは紅蓮から視線を逸らして背を向ける。その瞬間に見せた表情に、一抹の影が見えたのは気のせいだったのか、否か。
 背を向けて、時計塔の欄干に手を載せたルフランは、西の空に浮かぶ橙色の月めがけて声を放つ。
『羨ましいですよ。きっと紅蓮が叶える夢は、明るい夢なんだろうなって思う』
 確かに、明るいと言えば明るいのだろう。ただ、結局ルフランには言えなかったけれど、実際には自分が見ている夢なんて……
「なーにぼうっとしてんだアホたれが」
 ぱこん、といい音を立てて頭を叩かれる。尾を引くのが鈴の音だったから、何で叩かれたのかは見ずともわかる。紅蓮は目を見開いて、背後に控えていたウサギを睨む。
「サリ、武器で殴んじゃねえ!」
 サリエルはウサギの顔にハードボイルドな雰囲気を漂わせ……十中八九は錯覚だが……鈴を括りつけた杖を肩で支えていた。
「ふ、俺様は背が低いので武器がなければお前の頭も叩けんのだ。敬え!」
「何でんなハードボイルドに情けない宣言してんだよ! 敬わねえよ!」
 サリエルの言動は半分以上が冗談に満ちている。これで冒険者としては優秀なのだからタチが悪い。以前サリエルと共に行動していた冒険者たちのほとんどは、サリエルと別れた理由を「性格の不一致」と言っていたので、紅蓮だけでなく誰に対してもこんな感じなのだろうなとは思うのだが。
 横では、イーグリットがくすくすと堪えきれない笑い声をこぼしている。
「何笑ってんだよ、イーグリット」
「いや、やり取りが面白くてな」
「俺をこいつと一緒にすんなよ」
 サリエルの後ろ首を掴みながら、紅蓮は呆れ顔を浮かべる。首の皮を持って吊り下げられる形になったサリエルはきいきいと甲高い声で何かを訴えるが、そんな抗議の声など右から入って左に抜けるだけだ。その様子を見てイーグリットが再び楽しげに笑う。
 ひとしきり笑ってから、イーグリットがふと紅蓮を薄青の瞳で見据える。
「それにしても、何か考えてるみたいだったな」
「ああ……ルフランのこと、思い出してた」
「ふ、昔の女に固執するなど男として最悪だな」
「昔の女とか言うな。そんなんじゃねえから勘違いするなよ、イーグリット」
 ひとまずサリエルの首を掴んでぶら下げるのは続行することに決める。サリエルは体が小さいので、座ったままでも十分吊り下げることは可能だ。もちろん抗議の声は一から十まで無視。
「ルフランって、紅蓮の前の仲間だったんだよな。どんな人だったんだ?」
「どんな人、か」
 一言で言い表すのは難しい。誰について語るのもそうだが、他人について語るというのはあくまで側面を切り取る行為でしかない。できる限りは正しく伝えたいと思っても何が「正しい」のかも定かではない。
 特に、イーグリットはルフランを見たことがないのだから尚更、どう伝えてよいか悩む。
 そんな風にぐだぐだ考えているうちに、紅蓮に吊り下げられたままのサリエルが先に話を始める。
「ルフランは俺様と同じ魔術師よ。まあ白色魔術師だけどな」
 サリエルは攻撃の魔法に特化した黒色魔術師、ルフランは仲間を癒し、援護する魔法を好んで使う白色魔術師。その点で違いはあったが、違うからこそ共に歩く仲間としては紅蓮も心強かった。
「俺様と紅蓮が別れた時には、紅蓮の方についていったんだよ。ま、アイツはアイツで叶えたい夢があったんだろうな」
「ルフランは、確かな夢を持ってた。だからこそ、『奇跡の丘』に辿り着いたんだろ」
「紅蓮、お前、ルフランの夢を知ってたのか?」
「知らないけれど、夢があったことくらいはわかるさ」
 自分のように、がむしゃらに夢を叶えようと足掻くわけではなかったが、唇に微笑みを浮かべ月を見つめるルフランの瞳はいつも遠くを見ていたから。
「アイツは、いつも穏やかに笑ってたよ。あと……月が好きだった」
「月?」
 紅蓮とイーグリットは同時に西の空を見やる。とりあえずサリエルを解放してやると、足元で何かがびたんと落ちる音と「ぐえっ」という声が聞こえた。
 今日の空には千切れ雲が浮いていて、巨大な月を少しだけ隠していた。不自然なほどに大きい月は今日も紅蓮たちを静かに照らしている。
 この光の色がルフランは好きだった。そう、紅蓮は思い出す。
「夕焼けの色に似てる、って言ってな」
 夜に閉ざされたこの世界に、夕焼けなどあるはずがないにも関わらず、ルフランはあの月に幻の夕焼けを見ていた。薄青から黒へと移り変わる瞬間の、橙色を。
 イーグリットは橙色の光に銀の髪を染めながら、目を細める。そういえば、イーグリットの目の色も綺麗な薄青だったと思い出す。この世界では絶対に見ることのできない、青空の色だ。
 薄青。ルフランが夕焼けの橙を愛するならば、紅蓮は晴れた空の薄青を夢見続けている。
「夕焼け……か」
「イーグリット?」
「いや、何でもないよ。綺麗な色だもんな、好きになるのもわかるよ」
 イーグリットは紅蓮に目を戻して、笑う。ただ、その笑い方はどこか冴えないものだった。イーグリットは一体あの月……そして、幻の夕焼けに何を見たのだろうか。聞いてみたいとも思ったが、何となく言葉が出なくて紅蓮はそのまま月を見続ける。
 風は紅蓮とイーグリットの間を通り、空へと消えていく。月の光を浴びて育った背の低い植物がざわざわと音を立てて揺れる。
 月に一番近い場所とされるウォルフ山の山頂。ごつごつとした岩の上に腰掛けていた紅蓮は続く沈黙に耐え切れなくなって「よっ」と声を上げて立ち上がる。
「よっしゃ、そろそろ行くか。休憩は終わりだ」
「そうだな」
 イーグリットが立ち上がろうとすると、地面から何やら湧き上がるように声がした。
「起こせー、俺様を起こしてけー」
「あ、ごめん、サリ」
 本当は謝らなくてはいけないのは紅蓮のはずだが、何故かイーグリットが謝りながらサリエルを抱き起こし、そのままぎゅっと抱きしめる。
 ――ああ、ウサギが羨ましい。
 迷惑そうに耳をぴこぴこさせながらじたばた暴れるサリエルを横目に、紅蓮は真面目にそんなことを考える。真面目なのかどうかは相当怪しいところだったが。
 立ち上がると、山の下に広がる光景もはっきり見ることができる。今までならば闇に閉ざされた荒野が広がっているところだが、山の西側に広がっているのは薄ぼんやりと橙色に輝く不思議な空間だった。
 サリエルのとんがり帽子に顎を埋めながら、イーグリットは言う。
「光っているのが、遺跡……?」
「そうだ。あれが、ベルジュラック遺跡」
 西の果て、ルフランが向かった場所。
 紅蓮は小さく息を飲み、眼下に広がる光景を見つめる。
 不意に湧いた異様な息苦しさが、喉を締め上げていた。