シトラスムーン・ドリミンガール

ドリミンガール:05

 ひやり。
 頬に触れる冷たい感触に、雫はぱっと顔を上げた。
 見れば、手にジュースのパックを持った遼太郎がベンチに腰掛けた雫の前でいたずらっぽく微笑んでいた。
「こんにちは、トキワさん」
「ああ……」
 いつもの雫なら笑顔で返せるものの、今はそういう気分にはなれずに心ここに在らずといった声を投げて返す。流石に遼太郎も気づいたのか、「どうしたんですか」と首を傾げて雫の顔を覗き込む。
 同じように他の人間に聞かれたら、鬱陶しさに睨みつけて追い払うところだったが、不思議とこの少年に問われても鬱陶しいとは思わなかった。
 ただ、胸の中に渦巻いているものを上手く言葉にできず、首をゆるゆると横に振ることしかできない。
「横、座っていいですか」
「構わないよ」
 雫は遼太郎のために少しだけ腰を浮かせて、横に空きを作る。
 遼太郎は音もなく雫の横に腰掛けて、雫に「どうぞ」と持っていたジュースを手渡す。初めて彼と会った時に持っていたジュースと同じものだと気づく。もしかすると、あの時自分が何を飲んでいたのか覚えていてくれたのかもしれない。
 二人の間に言葉は無く、遼太郎は黙ったまま建物に切り取られた空を見上げる。
 多分。遼太郎は、雫の言葉を待っていてくれているのだろう。遼太郎にもわかってしまうくらいどうしようもない表情をしているという自覚は、雫にもあった。
 それを取り繕う余裕すらも残っていない。
 そのくらい、雫の胸の中に渦巻く何かは重たかった。
「あの、さ」
 こんなことを、遼太郎に言っても仕方ないというのはわかっている。ただ、聞いてもらえるのならば言ってしまいたかった。迷惑だろうなと、思いながらも。
「下らない話だけど、もしも一つだけ夢が叶うとしたら、君は何を夢見る?」
「夢……?」
 遼太郎の表情が、微かに揺れた。だが、それが一体どういう意味での揺れなのかは雫には理解できない。だからそのまま言葉を続けることにした。
「小夜の話はしたよね……そいつの、口癖だったんだ」
 小夜には確かに夢があった。何度も何度も頭の中で思い描いたのであろう夢があった。普通ならば絶対に叶わない、だからこそ『ゲーム』なんて不確かなものに縋るしかない夢が。
「その人は、どんな夢を持ってたんですか」
 遼太郎は、雫ではなく空に視線を向けたまま、問う。雫もまた空に視線を向けたまま、答える。
 
「自分が、消えること」
 
 小夜はあの日、夕焼けを背負って笑っていた。
 笑って、そう言ったのだ。
 もちろん、その時の小夜の気持ちは雫にはわからなくて、それどころか正確な意味のわからない怒りや、泣きたくなるような気持ちがこみ上げてきて、馬鹿なことを言うなと切り捨てた記憶がある。
『ほら、やっぱり。朱鷺サンは怒ると思ったんだ』
 くすくすと笑う小夜は、普段と何ら変わったところの見られない小夜だったけれど。
 結局のところ、これが小夜との最後の会話になった。翌日、小夜は自分の部屋から起きてこなくなり、病院に運ばれ今に至る。
 そして、昨日の出来事。
 あの後病室に戻った雫は、小夜の手を握って離さなかった。何度も何度も小夜の名前を呼んで、緑野が来てからもそうしていた。緑野は何をするでもなく、ただその場にいてじっと小夜の様子を見ていた。
 ただ、段々と小夜の苦しそうな息は落ち着いてきて……周りも雫も安堵し始めたその時。目は閉じたままながら、小夜の唇が微かに動いた。か細い息と共に、何か言葉を紡ごうとしているのを見て、雫は迷わず耳を近づけた。
 ひゅうという息の音と共に、小夜の喉が震える。
 小さく、しかし確かに雫の耳に届いた言葉は、
 
『朱鷺サン、余計なこと、しないで』
 
 ――理解ができない。
 何が、『余計なこと』だというのだ。
 雫の中に渦巻いている感情は、複雑を極めていた。小夜が助かって嬉しい気持ちもあれば、不可解な言葉を投げかけられた憤りもある。そして、自分がやっていたことが単なる『余計なこと』だと言われたことによる、落胆の気持ちが一番大きかったかもしれない。
 あれから小夜は再び深い眠りに落ちた。寝言一つ言わない眠り姫には言葉の真意を問うこともできない。
 消えてしまいたい。
 小夜の願いは雫には理解できない。どこまでも、どこまでも。
 しばらく黙って雫の横顔を窺っていた遼太郎は、雫が深く息をついたところで急に口を開いた。
「 『消える』って、『死ぬ』とは違いますよ」
 確かに、そうだ。
 小夜は「死にたい」とは一言も言っていない。雫からすれば存在が無くなることなのだ、どちらも大して変わらないように見える。だが、遼太郎は小さく頷きながら言葉を紡いでいく。
「元から、無かったようになる。誰も悲しまないし、誰も怒らない。誰にも迷惑をかけないで、『いなくなる』ってことです」
 元から無かったとすれば、小夜と出会ったことも。屋上で夕焼けを背景に笑っていたことも。それこそ、今自分の手の中にあるジュースの記憶だって消えてしまうということなのだろうか。
 小夜が何故、そんな悲しいことを望まなくてはならないのだ。
 わからない、と叫びかけた雫よりも先に、遼太郎が言葉を吐き出す。
「わかる気が、します」
 遼太郎の言葉は呟きのように小さくて、それでも雫にははっきりと届く。呆然とする雫を真っ直ぐに見据えて、遼太郎はもう一度静かに断言した。
「わかるよ」
 少しだけ寂しげに微笑む遼太郎を、雫は直視することができなかった。目の前にいる少年が、自分とは全く違う領域を生きているような、気がして。
 自分は小夜を理解できないと言ったけれど、遼太郎は「わかる」と言い切った。
 消えてしまいたい。
 考えてみたこともなかった。小夜はいつも、自分が消えてしまった世界を想像しながら生きてきたのだろうか。遼太郎は、一度でも自分が消えてしまった世界を夢見たことがあるのだろうか。
 想像することもできない自分は、小夜にどう思われていたのだろうか。
 「友情」なんて言葉に囚われるのは下らないと思っているし、そんな決まりきった言葉で自分と小夜の関係を括る気は元より無い。ただ、もしかすると自分は小夜にとって邪魔な存在だったのかもしれない。余計で、迷惑で、いつも鬱陶しく思われていたのかも、しれない。
 それに気づけずいつも付きまとっていた自分は、最悪な人間ではないか。
 ぐるぐる、胸の中で心が渦巻く。何が正しいのか、何が間違っているのか。自分はどうしていいのか、指針を失って雫は呆然としていることしかできない。
 握ったパックのジュースは、手の中で温くなるばかり。
 そんな雫に、遼太郎は明るい声で話を転換させようとする。うつむきがちな雫に、何とかして顔を上げてもらいたかったのかもしれない。
「でも、僕ならそれは願わないですね」
「……なら、何を願うんだ?」
 言われてみれば、興味はあった。
 小夜と同じように、「消えたい」と思ったことのある遼太郎が何を願うのか。それ以前に、自分と全く違う世界を生きている遼太郎の感覚には少なからず興味があった。
 問われて、遼太郎はにっといつになく楽しげに笑んで言った。
「それは秘密」
「何だ、つまらないな」
「じゃあ、トキワさんは何を願うんですか?」
 交換でなら教えますよ、と笑う遼太郎に対して、雫は真面目に考える。いつも考えている夢はあるにはある。まず思い浮かぶのは、綺麗な夕焼けの日に炎に巻かれて死んだ仲間たちのこと。彼らが戻ってきてくれればいい、とあの日からずっと考え続けている。
 けれど、自分自身にそれが本当の願いなのか、と問い返してみれば願いだと思っていたものは頭の中でばらばらに崩れて消えてしまう。仲間の姿も、やがては記憶の中の炎に巻かれて見えなくなってしまう。
 それは掴みどころのない、夢ともいえない夢……それこそ夜寝るときに見る夢と同じくらい儚くて頼りないものだ。
 そして、今は自分の願いよりも小夜のことで頭が一杯で。
 強いて言えば、今の一番の願い事は小夜が目覚めることかもしれない。
 それを言うと、遼太郎はちょっと拍子抜けしたような顔を浮かべた。
「たった一つしか叶わないとしても、ですか?」
「だって、今はそれくらいしか思いつかなくてさ。それで、君の」
 願いは、と言おうとした言葉は遠くから呼びかけられた声に遮られた。振り向くと、ひょろりとしたスーツ姿の男が手を振ってこちらに歩いてくるところだった。
「……緑野さん」
「探したぞ。ちょっと時間貰っていいか」
 いいか、と聞きながらその言葉には有無を言わさぬ感があった。遼太郎にちらりと視線を向けると、遼太郎は初めて見る緑野に怯えにも似た視線を送っていた。確かに緑野は見るからに胡散臭くて不気味だから、怯えるのもわからなくはない。
 ぱっと見恐ろしい顔の雫には怯えなかったのが不思議と言えば不思議だが。
 仕方ない、とばかりに深々と溜息をつき、雫は遼太郎に苦笑を向ける。
「ごめん、今日はもう行かなきゃならないみたいだ」
「あ……さよなら、トキワさん」
「ああ、またな」
 ぺこりと頭を下げる遼太郎に手を振って、緑野と共に歩き出す。緑野は早足ながらも雫に歩幅を合わせて歩く。
「それで、今日は何の用ですか」
「何、ちょっとした話だ。詳しくはこの前の喫茶店で、な」
 ――あの、ケーキの美味しい喫茶店か。
 話の内容を考えると気が重くなるが、その分緑野にしっかり美味しいものを奢ってもらおうと決めて、雫は喫茶店へ向ける足を速めた。