シトラスムーン・ドリミンガール

シトラスムーン:06

 紅蓮は一人きりで、立ち尽くしていた。
 白い空間だ。白いがらんとした部屋、一つだけのベッド、枯れた花が生けられた花瓶。
 ひゅう、と喉から嫌な息が漏れる。突如訪れた息苦しさに、足に力が入らなくなって壁に背を預ける。重力に逆らえないままにずるずるとその場に膝をつき、ばくばくと鳴る胸を押さえる。
 ここはどこだ。
 サリエルとイーグリットはどこに行った。
 自分は何故、こんな所にいる……?
 酸素を正常に取り込まない肺を恨みながらも、何とか頭を回転させようとする。自分は今までどこにいただろうか。ここに来る前に、何をしていただろうか。頭の中を満たす霧を晴らすように一つ一つ思い出していく。
 そして、一つの事実に思い至る。
 自分は……死んだのだ。
 
 ベルジュラック遺跡。
 古き文明の跡は、崩れた石造りの建物という形で紅蓮たちの目の前に現れていた。ソムニア世界特有の魔法石、アイオン石は原型を留めぬほどに崩れた今でも淡い橙色の光を放ち、月の光と合わせて幻想的な情景を生み出していた。
 イーグリットは、一面に広がる薄明かりの世界を見つめて、呟いた。
「綺麗だけど、寂しいな」
「……寂しい、か」
 今日の風は一際強く、辺りの砂を巻き上げている。生き物の気配が絶えた世界で仄かに輝く石に飾られた場所。確かにそれは「寂しい」という言葉が一番似合うかもしれない。
 風の音だけが響く沈黙。この場所はどこかから聞こえる音色もなく、息苦しいまでの静寂があたりを包み込んでいた。
 刹那、紅蓮は自分達以外に動く物がいないはずの世界に、動く何かを見て取った。イクリプスか、と思い身構えるもそれは白い色を持っていて、橙の光の中にぼうと浮かび上がっていた。
 目を凝らしてみると、それは白い服を身に纏った女のようにも見えた。
 白い服を好んでいた女。月の下で笑っていたかつての相棒の顔が、脳裏をよぎる。
「ルフラン……」
「何?」
 紅蓮の言葉を敏感に聞きつけたサリエルが視線を追う。だが、その時には白い後姿は見えなくなっていた。サリエルはぴょんと紅蓮の横に歩み寄ると、紅蓮の服の裾を掴んで乱暴に揺さぶった。
「おい、本当にルフランだったのか?」
「わからない、ただ」
 紅蓮は、白い女が去っていった方向を指差す。遺跡群の中でも、まだかろうじて建物の形を残す遺跡が点在している方角だった。その代わり、凶悪なイクリプスが出没する可能性が高い場所でもあった。
「あっちに、行った」
 わからない、と言ったけれど。
 紅蓮自身はあの白い影がルフランだと確信していた。当然根拠はない。そこにいたのがかつての仲間だと信じるのに根拠などいらない。あれはルフランだ。
 たった一人で『奇跡の丘』に向かった、ルフランだ。
「紅蓮! 待てこら!」
 サリエルの制止を振り切って、紅蓮は駆け出していた。蹴り上げたアイオン石が闇の中で淡く輝く。ルフランの姿は走っても見えない。どこかに隠れてしまったのだろうか、もしかすると転移の魔法を使って消えてしまったのかもしれない。
 それでも紅蓮は止まれなかった。
 ルフランに会いたいのか、『奇跡の丘』を求めているのか。本来は別々のはずの思いが頭の中で一緒になって、紅蓮の背中を押し続ける。
「紅蓮! そっちはダメだ!」
 後ろから声をかけるのは、誰だ。
 既に認識は正常を超えて、自分の足を止めようとする何もかもを受け付けない。必死に叫ぶ声が誰の声なのかもわからない。誰だっただろうか、本当は知っていた気がする。その声が自分にかけられたことはなかったけれど……
「そいつは幻だ! ルフランはもう、いないんだ!」
 あの甲高い声は、何を言っているのだろうか。
 全てを理解できない思考回路では、月の光を遮る影にも気づけずに。紅蓮の足を止める一撃が地面に叩き込まれるまで、自分の前に何が立ちふさがっているのかもわからなかった。
 地面に叩き込まれたのは、巨大な片腕。流石に足を止め、紅蓮は目の前に立つものを見上げる。
 それは、雲をつくような巨人だった。いや、竜だろうか。どちらともつかない形をした闇は、橙色の瞳で紅蓮を見据えている。
 イクリプス……片腕の無い。
 ――こいつ、もしかしてイーグリットと戦ってた奴か。
 思考の歯車が正常に回転し始める頃には、紅蓮の手の中に刀が握られていた。思考よりも先に体が動く。目の前にある障害を取り除こうと、刃が唸る。
 だが、考えれば考えるほど立ちはだかるイクリプスが以前の敵と同じものだとは思えなかった。あの時戦ったイクリプスは大きな体を持ってはいたが、竜のようなシルエットではなかった。
 そして、月を隠すほどに巨大ではなかった。
「下がれ、紅蓮!」
 サリエルが叫びながら、紅蓮の後ろから魔法を放つ。鈴の音と共に巨大な光の槍が杖から放たれ、イクリプスの胸に風穴を穿たんとする。
 しかし。
 槍がイクリプスの体に触れようとした瞬間、イクリプスの体から無数の触手が伸び、槍を捕らえたかと思うとそのまま飲み込んでしまった。
「な……っ」
 今の槍は、サリエルの渾身の一撃だったはずだ。それを「飲み込む」なんて、まともな相手じゃない。刀を構えた手が、意思に反して震え始める。本能的な恐怖が体を支配しているのだ。
 サリエルは帽子を押さえ、ぎりと歯を鳴らして叫ぶ。
「ありえん! アイツ、好き勝手やりやがって!」
「サリ?」
 サリエルは、何の話をしているのだろうか。紅蓮の脳裏によぎった疑問符に気づいているのかいないのか、サリエルは一歩前に出て杖を構える。杖から下がる銀色の鈴がしゃらりと澄んだ音を立てる。
 ウサギの横顔に強い決意を秘めて、サリエルはきっぱりと言った。
「こいつは俺様が食い止める。イーグリット、紅蓮を連れて全力だ」
「って、お前じゃ」
「俺様じゃなけりゃ意味がない。行け。アイツに捕まるな!」
 再びの鈴の音、紡がれる破壊の力。紅蓮は刃を構えようとしたが、ぐいと強く腕を引かれる。イーグリットが、真っ直ぐに紅蓮を見据えて言い放つ。
「逃げよう、紅蓮」
「だけど……っ」
「気づかないのか、奴はあなたを狙っている!」
 イーグリットに言われて、はっとした。巨大なイクリプスは、足元で攻撃を仕掛けるサリエルには見向きもしていない。闇で形作られた体の中に光る双眸は、真っ直ぐに紅蓮だけを見ているのだ。
 とはいえ、紅蓮に一直線に向かってきているわけではない。サリエルの全力の攻撃は完全に無視するわけにも行かず、傷こそ負わせられていないが、イクリプスの足はサリエルの前で止まっている。
「行こう。私達で勝てる相手じゃない」
「わかってる……わかってるけどよっ!」
 サリエルを置いていけるのか、と問われて首を縦に振れる紅蓮ではないのだ。
 甘ちゃんめ、とサリエルの毒づく声が聞こえる。腕を引くイーグリットの力が強まって、抵抗するのも辛くなってくる。
 ずん、という地響き。サリエルの攻撃を受けながら、イクリプスが一歩足を踏み出したのだ。このままでは、サリエルが殺されてしまう……イーグリットの腕を振りほどこうとしたその時、サリエルが不意に紅蓮を見た。
 赤い、白目の無い双眸が。
 足元の光に照らされて、仄かに輝く。
「こいつは、所詮『ゲーム』じゃねえか」
 紅蓮の体が、固まる。
 『ゲーム』。サリエルは確かにそう言った。
「ゲーム・オーバーになるだけだ」
 にぃ、と笑うウサギの横顔。それが異様に見えるのは、喋るウサギなんて本当はどこにもいないからじゃないか。今まで当たり前のように化物と戦ってきたけれど、それも『ゲーム』だからできること。
 紅蓮、とイーグリットが名前を呼ぶ。
 それでも紅蓮は動けないままでいた。刀を握る手に力を入れたまま、胸の中に湧き上がってきた思いをどうしていいかわからないでいた。
 そう、これは所詮『ゲーム』。実際の自分達には何ら関係のない世界の物語。
 しかし紅蓮にとってはただの『ゲーム』ではない。サリエルは笑うだろうが、これが紅蓮にとってはほとんど唯一ともいえる『世界』なのだ。
「させねえよっ!」
 イーグリットの腕を振りほどき、刀を構えて駆け出す。その瞬間、サリエルがイクリプスの黒い腕に弾き飛ばされるのを見た。
 どこから出ているのかもわからない咆哮を上げ、赤い軌跡を描いて紅蓮はイクリプスに肉薄する。イクリプスは体を折り、近づいてきた紅蓮に向かって口を開いた。口の中に広がるのは、体を形作るのと同じ闇。
 背筋が凍りそうになるような恐怖を堪え、刀を振るおうとしたその瞬間。
 イクリプスは巨体に似合わぬ俊敏さで、紅蓮の体を飲み込んだ。いや、正確なことはわからない。ただ紅蓮は「飲み込まれた」と感じた。
 世界が闇に包まれ、その瞬間意識も遠のいていく。イーグリットが自分を呼ぶ声が聞こえたけれど、それもまた意識の表層を掠めて消えていき……
 
 目覚めたのが、この白い部屋。
 食われた先が……ここなのだろうか。ではここは死の世界だというのか。
 わからない、理解をしようにも胸を締め上げるほどの苦しさが思考の邪魔をする。
「空気の中で溺れてるの?」
 停滞し淀んだ空気に響く声。目を上げれば、白いベッドの前に一人の少女が立っていた。いつもの薄青の少女かと思ったが、どうも違うようだ。顔や姿はほとんど一緒なのだが、纏っている服の色が違う。
 薄青ではなく、鮮やかな橙色のワンピースをふわりと揺らして、少女は苦しむ紅蓮に一歩歩み寄る。
 ああ、目の色も、月のような橙色だ。
 大きな橙色の瞳は鏡のように紅蓮の姿を映しこむ。ごく平凡な顔立ちに苦悶の表情を浮かべ、赤い模様の入った独特の黒い装束を長身に纏っていて。胸元を押さえて床の上に蹲る自分の姿が、この空間にはとんでもなく不釣合いだと思う。
「誰だ」
 喉から漏れる息の中、かろうじてそれだけを言葉にする。少女はふわりと笑顔を浮かべ、紅蓮の前にしゃがみこんだ。
 小さな唇が、言葉を紡ぐ。
「カミサマ」
「かみさま……?」
「君の夢を叶えるよ」
 カミサマ、神様。この小さな少女が、自分の願いを叶えてくれる神様だというのか。胸を締め付ける苦しみは、正常な脳の働きも阻害する。何が正しくて、何が間違っているのかの判断もつかないまま、紅蓮はゆるゆると少女に向かって手を伸ばす。
 刀を握り、イクリプスを斬り捨て続けていた手はごつごつとしていて見るからに力強い。だが、今やその指先に力はなく、いつ力尽きて床に落ちてもおかしくなかった。
「君の夢は、なあに?」
 少女は笑顔で紅蓮を見下ろす。床の上にはいつくばって、手を伸ばして。やっと目指した場所に辿りついたのだ、どんなに苦しくともこれだけは言わなくてはならない。
 言わなくては、ならないのだ。
「俺の夢は」
 肺から零れ落ちそうな空気で無理やり喉を震わせて、言葉を放とうとしたその時。
「夢は、夢だよ」
 耳元で囁く何か。この声は知っている……「触れる」という感覚を失っているこの世界にありながら、紅蓮は誰かが肩に触れているということを「確信」した。誰かが紅蓮の体を支えようとしている。
「夢は、覚めなきゃいけない」
 この声は、薄青の少女の声だ。そちらを振り向こうと思ったが、視線は目の前に立つ橙の少女から離せずにいる。橙の少女は紅蓮の側に立つ薄青の少女が見えていないのか、にっこりと笑ったまま言葉の先を促す。
「夢は、なあに?」
「目を覚まして」
 ああ、ここまで来て邪魔をしようというのか。そう思うと、薄青の少女の声がとても鬱陶しい。紅蓮は無理やり腕で体を支え、もう片方の腕を大きく振る。苦しさも薄青の少女も、何もかもを振り払うように。
 今までの自分を、振り払うように。
「俺はっ!」
 瞬間、暗転する視界。
 闇に吸い込まれていく願いの声、消えたカミサマ。
 まさか、届かなかったのだろうか。これだけ期待させておいて、最後の最後でチャンスを逃したとでもいうのか。紅蓮の心の中に広がるのは、限りない絶望。
 だが、その中で、ぽつりと輝く橙色の何かが見える。月、だろうか。月はまるでスポットライトのように一本の道を照らし出す。橙色の光に包まれた道は、知っている場所だ。先ほどまで自分がいた場所……そして白い女が消えていった場所。
「待ってるよ、『奇跡の丘』で」
 少女の声が、優しく響く。
 そこに、目指していた場所がある。カミサマの待つ『奇跡の丘』がある。
 旅の終わりであり、同時に。
「俺の夢の始まりだ」
 闇の中で、紅蓮はぽつりと呟く。
 ――夢は、夢だよ。
 薄青の何かが脳裏を閃く。声は、知っている誰かの声と同調して、不思議なハーモニーを生み出していた。
 初めは否定したくてたまらなかった言葉。だが、今になっては否定なんて必要なかったのだと気づく。温かな闇の中で、紅蓮は目を閉じる。
「ああ、夢だ。夢でいいんだ」
 
 そして、落ちていく。
 苦しみから解放された、深い眠りの中へと。