喫茶店の扉にかかる黒板は、今日のお勧めを教えてくれる。
『今日の日替わりケーキは「魔法少女トゥインクル☆パープル」です』
――何が魔法少女だ。
ケーキの味は文句ないのだから、この名前だけでもどうにかして欲しいと切に願う。とはいえ、緑野によればこの店は昔からこうなのだという。ケーキは美味いが、作っている店主のネーミングセンスが最悪。最悪というよりはあらゆる意味で斜め上なのかもしれない。
この名前に興味を持ってやって来る客もいるそうだから、それはそれでアリなのだろうが。
「で、話って何ですか」
『魔法少女トゥインクル☆パープル』と名づけられた、微かに紫色がかったケーキを切り分けながら、雫は緑野を見上げた。緑野は目を伏せ、いつになく神妙な表情でケーキを見つめている。
「……一つ、前提として信じてほしい話がある」
「 『夢を叶えるゲーム』、ですか」
前に、緑野は言っていた。小夜が眠りに落ちた原因は巷で話題になっている都市伝説『夢を叶えるゲーム』であると。雫はその言葉を冗談だと思ってまともには受け止めなかった。今も全てを信じるつもりはない。
ただ、緑野は小夜の容態が悪化したときに雫のように焦ることがなかった。そうなることをあらかじめ知っていたようにすら見えた。
信じたわけではない。ただ、今なら話だけでも聞きたいと思える。聞いておかなければ絶対に後悔する、という確信が雫をこの場に座らせていた。
「 『ゲーム』が原因で眠りに落ちる。そう、俺は言ったと思う」
「はい。正直、バカバカしい話だと思いましたけど」
「俺だってそう思うが、眠るのが全員『ゲーム』のプレイヤーであることは確かだ」
「でも……『ゲーム』をプレイした人間が全員あんな眠りに落ちるのですか?」
自分がプレイヤーであることは伏せて、緑野に問うてみる。緑野は「いや」と首を横に振り、珈琲を一口すする。雫に誤解させずに正しく伝えるための言葉を探しているのだろうか、ぎょろりとした三白眼は宙を彷徨っている。
雫は、何も言わずに言葉を待つ。紫色のケーキを時折口に運び、まろやかなスイートポテトの風味を味わいながら。
いくつ、秒針が時を刻んだだろうか。唐突に緑野が薄い唇を開く。
「なあ、朱鷺羽さん。ある日差出人不明のメールと共に、突然中身のわからない『夢を叶えるゲーム』が送られてきたらどうする」
「……普通なら、まず削除します」
普通なら、と言ったのは自分がそうしなかったからなのだが。
小夜が言っていた『ゲーム』がどのようなものか気になって、メールが届いてからしばらくは放置しておいたのだ。プレイを始めたのは小夜が意識を失ってからだが。
緑野は雫の言葉に小さく頷き、フォークで大きくケーキを切り始める。
「まず九十八パーセントの人間はくだらないと思い、同時に自分宛に届いてきたそれをコンピュータ・ウイルスか何かだと思ってごみ箱に捨ててしまうだろう。ごみ箱どころかさっさとディスク上からも排除したいと思うはずだ」
とてもバランス悪く切られた紫色のケーキが、皿の上で頼りなく立っている。多分、大きく切り分けられた方が九十八パーセントと言いたいのだろう。実際にはそれほど正確なバランスにはなっていないが。
「で、一パーセントの人間はウイルスか何かではないかと疑いながらも、『ゲーム』を始めてしまう奴らだ。もちろんメールに書かれていた『夢を叶える』なんて話は信じていない。単に『噂になっているから』、『面白そうだから』手を出す。
残り〇・九パーセントもこの一パーセントと同じ。ただしウイルスか何かかもしれない、と思う危機管理能力が欠けてしまっている間抜けな連中だろう」
言いながらいくつかに切り分けたケーキを口に運ぶ緑野。一度話を切って、今日も美味いと呟く。ケーキが美味であることには否定しようもなかったので、雫も頷きを返した。
それにしても、緑野の話がなかなか見えてこない。
今緑野が言ったのは、『ゲーム』をプレイしている人間の中でも九十九・九パーセントまでの話。ならば、あと〇・一パーセントはどういう人間だというのか。
――決まっている。
雫は思う。この『ゲーム』は何と言われているのか、考えればすぐにでもわかることだ。
緑野はケーキの最後の一切れだけを皿に残し、口元に微かな笑みを浮かべて言った。
「そして、最後に残された〇・一パーセント……いや、それよりもずっと少ないが確かに存在する『彼ら』 」
確かに存在している。小夜がそうであったように――
「彼らはきっと、本気で夢を叶えたいと願っている」
『夢を叶える』なんて触れ込みは嘘、そう頭の片隅では思いながらも縋らずにはいられない人々だと緑野は言う。
「眠りにつくのは……そういう、本気の夢を持った連中だ」
雫は言葉を失った。
どういうことか問いたださなければならないのに、上手く言葉が出てこない。緑野は目を見開いた雫を見やり、「順番に話すよ」と言って珈琲を一口飲み下す。どこまでも落ち着いた態度の緑野を見ていると、こちらも何とか落ち着こうという意識が働く。
緑野にならって、珈琲を一口。何も入れていない珈琲は苦く、自然と意識が覚醒して頭もすっきりしてくる。まだ自分はわかっていないことが多すぎる。緑野の言うとおり、結論を急いでも理解できないまま終わるだろう。
「朱鷺羽さん。君はプレイヤーではあるが『ゲーム』で夢を叶えようとは思っていない」
「……何故、私がプレイヤーだと言い切れるんですか?」
「わかるさ。かくいう俺もプレイヤーの一人だし」
緑野は机の上で指を組み、苦笑する。その苦笑がどういう意味を持っているのかはわからないが、雫の目から見る限り、どこか自嘲にも似た笑い方に見えた。
「とはいえ、俺はあの『ゲーム』自体を調べるのが目的で潜ってるんだが」
「調べる、ですか」
「 『ゲーム』の出所はどこで、誰が広めているのか。どんな人間がプレイしているのか。そして、何故『夢を叶える』なんて言っているのか」
調べるのが趣味、でしたっけ。
雫が少しだけ意地悪っぽく言ってやると、緑野はバツが悪そうに笑う。
「まあ、俺の立場ではそうとしか言えんからな。で、『ゲーム』が元々この地域から広まったことは明らかになっている」
しかし差出人はどこまでも不明。仮につけられている差出人のアドレスも、送られた人間によって全て違うのだという。
「 『ゲーム』の中身については君も知っている通りだ」
形式上は多人数同時参加型のオンライン・ロールプレイングゲーム。ただし、キャラクターのレベルやデータが見えないのが最大の特徴である。説明書らしきものも存在しないため、一から手探りでプレイする羽目になるのだが。
雫は今までほとんどゲームと名のつくものに手を出したことがなかったためそれが当たり前だと思っていたりする。
「プレイヤーはゲーム世界の冒険者となりあらかじめ定められた目的地を目指す。君もプレイヤーならわかると思うが、目的地に辿りつけば夢が叶うと『ゲーム』の中ではまことしやかに語られていたはずだ」
「そうですね。ただ、目的地がどこにあるか全くわからなくて」
説明書が無いのと同じように、目的地の場所が示されないのだ。誰に聞いても「知らない」と言われ当初は途方に暮れたものだ。
緑野もうんうんと頷く。この男も雫と同じ経験を味わってきたのだろう、頷き方には妙に深い感情が篭っているように思えた。それから、目を細めて雫に問いかける。
「だが、『誰かが向かった』という話は聞かなかったか」
「ああ……それは」
位置もわからぬ目的地を見つけた冒険者の話は聞いている。特に強い夢を持った人だったと誰もが噂している。
「そいつらは必ず一人で向かい、戻っていないはずだ」
そして緑野の言うとおり、目的地を見て帰ってきたという冒険者はいない。もし存在していれば、とっくに場所が特定できていてもおかしくない。だが依然として『ゲーム』の世界で目的地の場所は謎に包まれている。
「で、そいつらが目的地に向かった時期と、眠り病の患者が現れる時期はぴたりと一致するんだよ」
偶然とすればあまりに高い確率だ、と緑野は真っ直ぐに雫を見る。
確かに偶然にしては出来すぎている。だがあまりに突拍子も無い話であり、緑野が語る内容も単なる状況証拠に過ぎない。『ゲーム』が眠り病を引き起こしている原因と言い切ることは不可能だ。
実際に眠る小夜を見せられている雫は緑野の言葉を否定しきれずにいるのだが。
では、眠り病とは一体何なのだろうか。
雫が問うと、緑野はぽつりと呟きを落とす。
「……ある意味では、夢を叶えている状態なのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「今の俺には確かなことは言えない。だから君に協力して欲しい」
緑野は三白眼を雫に向ける。その目には異様なまでの力が篭められているようでぞっとする。
「原田小夜について、朱鷺羽さんが知っていることを教えてくれ。それがわかれば、俺も確かなことが言えるかもしれない」
小夜について?
自分が小夜について知っていることを緑野に言う理由があるのだろうか。まだ、自分は緑野の言葉全てを信じているわけではないし、話したところで解決するとも限らないのだ。
それに、知っていることといえば、小夜がずっと夢見ていた内容くらいだ。
――消えてしまいたい。
笑顔でそう言った小夜の心が知りたくて『ゲーム』を始めたというのに結局何もつかめないままではないか。
頭の中がぐしゃぐしゃだ。先ほどまでは効き目のあった珈琲の苦味も、一度完全にもつれてしまった思考の糸をほぐすには足りない。緑野の言葉を理解することも出来ないままでは、自分の心を主張するにも至らない。そんな状態で小夜のことを話してもどうしようもないではないか。
自分が納得できないままでは、終われない。
雫は珈琲を置くと、緑野から視線を外すために目を伏せて口の中でぼそぼそと言う。
「少し、考えさせてください。出来るだけ早く話せるようにします」
恐る恐る目を上げてみれば、想像に反して緑野は少しだけ寂しげに微笑んでいた。決して雫の答えを急かすようなことはせず、ただ深く頭を下げて言った。
「ああ。悪いな……頼む」
シトラスムーン・ドリミンガール