シトラスムーン・ドリミンガール

シトラスムーン:07

 目を、閉じる。
 
 落ちていく感覚はたったの一瞬。次の瞬間に飛び込んでくるのは目を閉じていてもはっきりとわかる風の音、自分を呼ぶ誰かの声。
 別れは告げた。あれを別れだと気づいてくれていたかどうかは別にしても……これが最後なのだと思うと、嬉しいような悲しいような、不思議な気持ちに囚われる。
 息を吸って、呼吸が正しく働くことを確かめて。
 いち、にい、さん。
 三つ数えて目を開ければ、そこはソムニア――夢を叶える、夜が明けない世界。
「紅蓮!」
 気づけばイーグリットがすぐ側にいて、自分の名前を呼んでいた。紅蓮は一瞬、目を開いていてもそれがイーグリットであると認識できなかった自分に気づいた。
 そう、この少女はイーグリットで、自分の仲間。
 まだ夢を見ているのだろうか、と軽く頭を振ってみるが目の前の景色は消えない。大丈夫、これは現実だ。『ゲーム』であろうと何であろうと自分の現実なのだと言い聞かせる。
 イーグリットは今にも泣き出しそうな顔で紅蓮の顔を覗き込んでいた。いつもクールな表情を崩さないイーグリットの弱気な顔は、見ていて辛い。そんな顔をされてしまうと、何も言えなくなってしまうではないか。
「よかった。戻ってこられたのか」
「戻って……って、俺、どうなったんだ?」
 ゆっくりと、体を起こす。橙色に仄かに光る石に囲まれて、地面の上に横たわっていたのだと気づく。とすると、巨大なイクリプスに食われた瞬間から場所は変わっていないということになる。
 橙色の少女と出会った、白い部屋については考えないことにする。
「あなたが食われた瞬間に、イクリプスが消えたんだ。それで、今あなたが戻ってきた」
「イクリプスが、消えた?」
 あれだけ巨大にして凶悪なイクリプスが跡形も無く消えてしまうなどということがあるのか。自分は攻撃をしたわけではない、それどころかあっさりと口の中に放り込まれただけだというのに。
 それとも、あの橙色の少女が何か手を下したのだろうか。
 自らを『カミサマ』と呼んだのだ、ありえない話ではない。
 だが、今はそれらよりも先に確認しておかなければならないことがあるはずだ。紅蓮は立ち上がりながら、イーグリットに問う。
「イーグリット、サリは?」
 次の瞬間、問うべきではなかったと後悔することになる。
 イーグリットが、沈痛な表情である一点を指差したのだ。その表情の意味するところなど、知れている。ゆっくりとそちらに視線を向けた紅蓮は、そこから目を背けることもできなかった。
 地面の上に、サリエルの小さな体が倒れている。イーグリットに初めて出会い、倒れていたサリエルを助けた時と状況は似ている。ただ、一つだけ違うのは、サリエルの体が半分ほど崩れ、そこから橙色の光が漏れだしていることだった。
「サリ」
「よう、残念だが俺様リタイアだ。真っ白に燃え尽きたなー、って元から俺様白いけど」
 体が半分なくなっているにも関わらず、サリエルは存外しっかりとした口調で言った。紅蓮は横に跪き、サリエルの残った右手を握り締める。
「なあ、紅蓮」
 サリエルはぼろぼろになった帽子の下で、赤い目を細める。笑っているのか、悲しんでいるのか。ウサギの顔からそれを読み取るのはとても難しい。ただ、何かを紅蓮に伝えようとしているのははっきりとわかった。
「夢はさ、どこまでも夢なんだよ。わかんねえかな」
「何言ってんだ、サリ」
「夢は必ず覚める。覚めない夢は……異常だ」
 ぽつり、ぽつりと。とらえどころの無い言葉を落とすが、サリエルの目は紅蓮を捉えて動かない。赤い色をしていながら、冷たい光を宿したウサギの瞳。
「夢は叶えるもんじゃない。夢は『見る』ものだ。それ以上でも以下でもない」
「何が言いたいんだ、サリ!」
 自分が消えようとしているのに。紅蓮は苛立ちのままに叫んだ。すると、サリエルは目を細め口の端を無理やりに吊り上げる。それは多分、彼なりのわかりやすい笑顔だったのだろう。
「おせっかいな遺言だ。じゃあな、紅蓮、イーグリット」
 ――楽しませてもらったよ。後は、お前ら次第だ。
 その言葉を最後に、サリエルの体が橙色の光の粒子に変わって、空高く浮かび上がっていく。
 この世界のルールだ。死した者は光となって、月へと還る。そして新たな命を創る糧となるのだ。
 もちろんそんなもの、ただの設定に過ぎないが。
 紅蓮は巨大な月に向かって飛び去っていくサリエルの光を見つめたまま、言葉を漏らす。
「わかんねえよ……何だよ、遺言ってよ……」
 もう、サリエルは答えてくれない。この世界で一度死んだ者が戻ってくることはないのだ。
 絶対に。
 イーグリットは、紅蓮の背後に立ちながら何も言わなかった。言葉を失ったのか、声をかけずにおいてくれたのか、そのどちらもだったのか。
 静寂、風の音。
 どのくらい、そうしていただろう。
 紅蓮は無言のままにゆらりと立ち上がった。サリエルは死んだ、その事実を覆すことはできない。またサリエルが何を言ったところで、紅蓮がこれから取るべき行動は決して変わらないのだ。
「イーグリット、行こう」
「どこへ?」
 決まっているだろう。
 紅蓮は服の裾を風に揺らし、視線を向ける。紅蓮の目には、月の光がある一点に差し込んでいるように見えていた。果たしてイーグリットにどう見えていたのかはわからないけれど。
 月の光が示すのは、西の果て。遺跡群が終わる場所にある、一つの建物だった。それは温かな闇の中で見た幻視と同じ。
「 『奇跡の丘』へ」
 あの場所が『丘』なのかどうかは紅蓮にもわからないが、カミサマは確かに言っていた。「待ってるよ」、と。
 これ以上待たせる理由はない、ゴールは目の前にあるのだ。大股に歩き出した紅蓮を、イーグリットの足音と声が追いかけてくる。
「場所がわかったのか?」
「ああ。これで夢が叶うんだ。俺が、ずっと見てきた夢が」
 紅蓮はイーグリットを振り向く。サリエルを失った後だったから素直に笑うことは出来なかったけれど、それでも自然に心の奥がじんと熱くなってくる。
 自分は、どんな表情をしているだろうか。イーグリットは何を思って自分を見ているのだろう、薄青の瞳は何故か小さく揺れていた。
 紅蓮はその視線に背を向けて駆け出す。イーグリットの足音もしっかりと紅蓮の背中を追っているのを耳で確かめる。短い間とはいえ今まで同じ道を歩んできたのだ。イーグリットの願いも叶うのであれば、その方がいい。
 目指す建物は、神殿のように見えた。淡く輝くいくつもの柱が立ち並び、奥は重たい闇に包まれていて見通すことが出来ない。
 紅蓮は建物に向けて伸びている階段を踏んだ。長かったけれど、これを上りきれば全てが終わる。闇の中を模索する物語は終わって、全てが光へと変わるのだ。一段飛ばしで駆け上り、建物がどんどん近づいてくる。
 最後の一段を上りきり、神殿の中に一歩足を踏み入れる。
 すると、世界が光に包まれた。
 橙色の光が奥からあふれ出てきたのだ。そして、その奥には……
 光に満ちた、丘が見えた。
 『奇跡の丘』だ。
 もう一歩を踏み出して、イーグリットを振り返る。すぐ後ろにイーグリットがついてきているものと思っていたが。
 イーグリットは、階段の最後の段の上に立ったまま紅蓮に向かって手を伸ばしていた。何かを叫んでいるようだが、その声が聞こえない。
 こんなに近くにいるのに、声が聞こえないなんてことがありえるのだろうか。
「選ばれたのは、君だけだよ」
 硝子のような響きの声が、心の中にすっと滑り込む。はっとして振り向くと輝く丘の前に少女が立っていた。橙色の服を纏った少女は、背中に輝く翼を背負っていた。
「俺、だけ?」
「君は夢を持っていた。ここにたどり着けるのは、本当の夢を持った人だけなの」
 あの人は、叶えたい夢がないから通れない。
 翼の少女が指差す先はイーグリット。イーグリットは紅蓮を見据えたまま、見えない壁の向こうから何かを言っている。紅蓮はイーグリットの夢を知っていたわけではない。ただ、目の前にいるカミサマに選ばれるには儚すぎる夢だったということか。
「……ごめん、イーグリット」
 呟きが届いたかどうかは定かではない。イーグリットの声がこちらに届いていない以上、自分の声も向こうに届かせることはできないのかもしれない。
「聞かせて。君の夢はなあに?」
 橙色の少女が手を伸ばす。小さな、カミサマというには頼りない手。しかしこれを握れば夢が叶うという確信が紅蓮の中にはあった。最初から最後まで、根拠らしい根拠はなかったけれど。
 きっと、ルフランもこの手を握って……夢を叶えたのだ。
 紅蓮は目を閉じて、口元だけで微笑む。
 ――ルフラン、届いたぜ。
 ずっと心の中に引っかかっていたもの、それは白い後姿だった。結局のところ、寂しかったのだろうと思う。ずっと仲間だと信じてきた人間が急に消えて独りになって、寂しくて心細くてたまらなかったのだ。こんなこと、言葉に出したらきっとサリエル辺りは笑い飛ばすと思うから言わずにおいたけれど。
 全てはこれで終わり。
 ゆっくりと指を伸ばす。カミサマの指先に、触れかけたその時だった。
「――紅蓮っ!」
 声が光も見えない壁も何もかもを貫いて、響き渡る。はっとしてそちらを見れば、イーグリットが泣きそうな顔をしてこちらを見ていた。いや、実際に泣いているのかもしれない。
 意外と涙もろいんだな、と紅蓮は場違いなことを考える。凛として、まるで男みたいな喋り方をしているけれど、その実は可愛い物が好きでちょっぴり泣き虫な、どこにでもいる少女だったのだろう。
 もう少し長い間一緒にこのソムニア世界を歩いていたかったとも思う。短い間だったけれど、イーグリットのふとした笑顔を見るとこちらまで温かな気分になれたから。
 別れは紅蓮だって辛い。辛いけれども……
 この手を取ると決めたからには、もう迷わない。
 だから紅蓮は笑うのだ。光の中で精一杯の笑顔を浮かべて、別れの言葉を。
「さよなら、イーグリット」
 そのまま、少女の手を取った。
 周囲の光が増して、少女の姿すらも光の中に溶け込んで見えなくなる。だが、澄んだ少女の声が紅蓮を導く。
「さあ、君の夢は?」
 ふわふわと、体が浮き上がるような感覚の中。紅蓮はずっと胸の中に秘めていたものを、今度こそはっきりと言葉にする。
 
「俺の夢は――」