シトラスムーン・ドリミンガール

ドリミンガール:07

 昨日はほとんど眠れなかった。
 あの『ゲーム』のせいだ、と思う。
 緑野から話を聞いて、『ゲーム』をやろうかどうか一度はためらった。緑野の言葉を全て信じてはいないが、『ゲーム』をやったところで小夜の心がわかるわけではないのだと気づき始めていたから。
 だが、小夜のことは抜きにしても『ゲーム』の続きが気になって、昨日の夜もずっとあの不思議な世界に潜っていた。その際に感じた不思議な喪失感はまだ雫の心の中に渦巻いている。たかが『ゲーム』、雫にとってはどこまでも仮想の世界の話だというのに。
 ――結局あの『ゲーム』は何なのだろうか。
 風が吹く。少しずつ、肌寒さを増している風は、長めに伸ばしている雫の前髪を揺らして駆け抜けていく。
 今日も雫は病院の中庭にいた。ベンチに腰掛けて何をするわけでもなく空を眺めている、いつもの気だるい時間だ。さっさと家に帰ってしまえばいいのだが、何故かすぐに帰る気にもなれないでいた。
 だから少しずつ暗くなり始めている空を見上げて息をつく。刻々と移り変わる色を湛えた空は、『ゲーム』の中で見る空とは全く違う。
 時間の止まった暗闇の世界、橙色の月、そして確かに存在する『奇跡の丘』。
 ただ夢を叶えるだけならばあのような『ゲーム』の形である必要はない。適当に人を選んで夢を叶えて終わりにしてしまえばいい。
 だが、ディスプレイに映し出されるのは幻想的な一つの「世界」だ。プレイヤーはその中を生きる冒険者となって、『奇跡の丘』を目指すことになる。一歩一歩、月の光に照らされた荒野を自らの足で歩きながら。
 温度のない風が荒野の白い砂の上に風紋を描き、月明かりが照らすのは遥か彼方の不思議な形をした山。荒涼とした世界なのに、美しくて……それでいて、寂しい。
 そう、どこまでも寂しいのだ。
 あの『ゲーム』が作られた経緯も何もかも雫にはわからないけれど、『夢を叶える』はずの幸せなゲームがあれほどまでに寂しいのには何か意図があるのではないか。
 そんなことを考えながら、雫は小夜のいない『ゲーム』を続けていた。自分ではないキャラクターを操り、月明かりの世界に立つあの感覚は嫌いではない。
 そういえば、緑野はあの『ゲーム』のどこかにいるのだろうか、とふと考えてみる。
 考えずとも明らかではあったが、今まで頭の中に思い浮かべもしなかった。自分もプレイヤーだと言っていたから、いないはずはない。もしかすると知らず、緑野の操るキャラクターと出会っていたのかもしれない。
 小夜も……あの世界のどこかにいたのだろうな、と思う。
 雫と同じようにあてもなく『ゲーム』の世界を彷徨っていた小夜は、どのような気持ちだったのだろうか。
 彷徨った果てに本当に夢が叶うと知ったとき、小夜は笑っただろうか。
『私、消えてしまいたい』
 屋上で、雫に告げたときと全く同じ顔で。
 橙の月を背景に、儚く笑っていたのだろうか。
 別れの時、こちらに精一杯笑いかけていた「彼」と同じように……
 別れの言葉を口にして橙色の光の中に消えていく背中を幻視し、不意に泣き出したくなるような気持ちが湧き上がってきた。ぶんぶんと首を振って何とか幻視を頭から追い出す。
 緑野は、ある意味で小夜は夢を叶えていると言っていた。眠るのが、小夜の夢を叶えることであるはずもないのに、だ。
 緑野の言葉はあくまで遠まわしで理解に苦しむ。今もなお、頭の中では緑野の言葉が整理されない状態でぐるぐる回っている。誰かにこの思いを吐き出せれば少しは楽なのかもしれないが、こんな話を他人にしたところでまともに聞いてもらえるはずもない。
 ――それとも、聞いてくれるだろうか。
 雫は何気なく建物の方に目をやる。病院は今日も無言で中庭を取り囲むように佇んでいる。歩いてくる眼鏡の少年の姿を探してみるが、今日はこの時間になっても遼太郎が出てくる様子はない。
 そこまで確かめてから、自然と遼太郎の姿を探していた自分に気づく。
 何故、この瞬間……遼太郎なら自分の話を聞いてくれるなんて思ったのだろう。自分の思考回路が不思議で雫はふと笑みをこぼす。きっと彼だってこんな話をされたら迷惑に違いない。『ゲーム』が人を眠らせているなんて、夢みたいな話だと笑って言うはずだ。
 そういえば、今日は遼太郎を見ていない。
 目を上げて、病院の窓を見やる。小夜と遼太郎の病室がある階だ。今日はぼうっとしていて顔を出していなかったから遼太郎の病室を覗いてみようかと思ったが、その考えに思い至る頃には既に空はほとんど橙色に染まり、面会時間も過ぎようとしていた。
 雫はベンチから立ち上がり、軽く背伸びをする。
 空気を胸いっぱいに吸い込んで、頭の中を支配しているもやもやしたものを息と一緒に吐き出す。実際には全くと言っていいほど頭の中のもやもやは晴れていないが、深呼吸をすることで少しだけ視界が明るくなったように感じる。全ては意識の問題だと思うことにして、歩き出す。
 日が落ちていくにつれて風は冷たさが増していく。こんな場所にずっといては、自分の方が風邪を引いて病院の世話になってしまう。雫は足早に歩き出した。ポケットの中で、未だくしゃくしゃになっている名刺が揺れているのが、わかる。
 緑野に、連絡をしなくてはならない。
 小夜のことを話して、緑野から全てを聞きたいと思う気持ちはもちろんある。雫の心は既に決まっているはずなのだ。だが、小夜のことを話すのが怖いというよりも、緑野から話を聞くのが怖いと思う気持ちの方が大きい。
 もしも小夜が、願ってあの眠りに落ちたとしたら。
 この事件そのものを追いかけている緑野はともかく、小夜の無事だけを祈ってきた自分にはどうしようもないではないか。
 下らない思考だということはわかっている。取るべき行動は、自分にできることは一つしかないことだってわかってはいるのだけれども。
 病院を出た後も、鞄の中の携帯を取り出すことなく家路を急ぐ。
 
 まだ……緑野に連絡する気には、なれなかった。