シトラスムーン・ドリミンガール

シトラスムーン:08

 甲高いベルの音が響き渡る。
 それが何であるか、脳味噌が判断する前に布団から腕を伸ばし、枕元にあるはずのそれを探す。何度か手は空を切った後に、目指す場所に振り下ろされた。
 もちろん、うるさく鳴り響く目覚まし時計の上に。
 ぴたりとベルの音が止み、もう一眠りと布団を引き寄せる。だが、その望みも扉を叩く音で儚く潰える。
「いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」
 ――遅刻。
 恐る恐る時計を見れば、針は残酷なまでに遅刻すれすれのデッドラインを示してくれていた。眠気は一気に吹っ飛び、布団を退けてベッドから飛び降りる。
 食事を手早く済ませ、歯を磨いて顔を洗う。毎日こんなことをしているから成長がないと怒られるんだろうな、と頭の片隅で考えながら、手だけを素早く動かしていく。
 部屋に戻ったらすぐにハンガーにかかっていた制服を羽織り、鞄の中をチェック。大丈夫、今日の授業の準備は昨日の夜のうちに済ませておいたはずだ。
 鞄を肩にかけたその時、机の上に投げ出されたバイザー型ディスプレイが目に入る。コンピュータにコードで繋がれた最新型のディスプレイはもちろんゲーム専用のものだ。
 夜遅くまでゲームをやっていたものだから、朝起きるのが辛くなる。わかりきった悪循環だが、やめられないのがまたゲームの魅力である。
 目を閉じて、思い出してみる。
 夜の明けない世界で、たくさんの仲間達に囲まれて。自分は夢を胸に秘めた冒険者として刀を手にして駆ける。影の魔物と命をかけて戦うあの緊張感は、やはりゲームでなければ味わえない快感だ。
 もちろん、命といってもゲームの中の話。実際に自分の命が奪われるわけではないけれど、近頃どんどんリアルになってきているゲームのこと。生み出される臨場感は半端ではない。
 今日も帰ったらゲームに入り込んでしまうのだろう。ただ、その前に部活で疲れきって眠ってしまうかもしれないが。
「って、のんびりしてる場合じゃねっての!」
 自分で自分にツッコミを入れて、階段を駆け下りる。玄関で靴を突っかけて扉に手をかけようとしたところで、後ろから声をかけられた。
「ちょっと待ちなさいって」
 はっとしてそちらを見れば、洗い物をしていたはずの母が駆け寄ってきた。何か忘れているのだろうか、と思うと母はすっと手を伸ばして制服の襟元に触れた。
「襟、曲がってるじゃない。いくら急いでても恥ずかしいわよ」
「あ、悪い……」
 母は曲がっていた襟を直すと、にっこりと笑顔を浮かべて肩をぽんと叩く。肩を叩かれると、不思議と安心してこちらも笑みを浮かべてしまう。
「いってらっしゃい」
「ん、いってきます」
 玄関の扉を開けて家を飛び出す。遅刻確定まであと数分。ちんたら歩いている時間なんてないのだから、迷わず地面を蹴って駆け出す。
 走って、走って。部活で鍛えていることもあって、汗は出てくるけれど苦しくなるほどでもない。少しずつ加速して、風を感じる。こんなに焦って走っているのに気持ちよいと感じてしまう自分がおかしくて、口元だけで笑う。
 真っ直ぐに学校に向かって駆けていると、不意に、見慣れないものがふと視界の中に入って通り過ぎていった。
 ――薄青の、ワンピース?
 振り向こうかとも思ったが、その時間も惜しい。青いワンピースを着た少女なんて別段珍しくもない。立ち止まる理由だって、どこにもないはずだ。
 何故そんなものに気を取られたのかもわからないまま、彼はまた学校への道を駆けていく。校門に滑り込んだときには、遅刻確定一分前。「早くしろ」という先生の声に背中を押されるように、教室までもう一走りして……何とか教室に辿り着いた。
「わ、ギリギリじゃん。だいじょぶ?」
「な、何とかな」
 ここまで全力で走ると、流石に息が上がってしまう。席に座った瞬間にチャイムと共に担任が教室の扉を開けたから、セーフと言っていいだろう。
 横の席に座っている幼馴染が、ニヤニヤ笑いながら横目でこちらを見ている。家も隣なのに席も隣なのはクラスメイトの半数以上の陰謀によるものである。付き合っているわけでも好きなわけでもない、本当にただの腐れ縁だというのに。
「また遅くまでゲームやってたんじゃないでしょうね?」
「うっ」
 幼馴染は「もう」と言って細い眉を寄せて肩を竦める。肩の上くらいで綺麗に切りそろえられた髪が揺れる。何か言い訳をしようと口を開きかけた時、担任がぎろりとこっちを睨んできたので口を噤む。
 ただでさえ遅刻の常習犯で睨まれているのだ、こんな所で担任の神経を逆撫でする理由も無い。
 今日が一日何事もなく過ぎてくれればいい。授業は多少かったるいけれど、部活の時間まで耐えればいいだけの話だ。
 そう思いながらちょっとだけ眠たい目を擦ると、視界の端に何かが揺らめいた。教室の隅、黒板の横の辺りに薄青の何かが見えて……薄青の?
 誰かが立っている。半分くらい体が透けているけれど、それは確かに少女だった。薄青のワンピースを纏い、真っ直ぐにこちらを見ている瞳もまた薄青。
 幽霊、だろうか。それにしては随分はっきりとこの目に映っている。だが、自分以外の誰も薄青の少女には気づいていないようで、誰もが担任のだらだらとした話を適当に聞き流している。横に座る幼馴染でさえ、あらぬ方向を見ていて少女の存在に気づいていないのだ。
 こういうことが、前にも無かっただろうか。
 何かを訴えるようにこちらを見つめている、少女。何となくいたたまれなくなって目を逸らすと、その瞬間少女の姿は空気の中に解けて消えた。
「……何なんだよ?」
 口の中で呟くも、その問いに答えられる者はこの場には存在していなかった。
 
 放課後、部活を終えて帰ろうとすると、何故か校門のところに幼馴染が立っていた。
「何でお前がこんなとこにいるんだよ」
 確か幼馴染は……
「ちょうど吹奏楽部も終わったとこなの。何でなんて言われる筋合いは無いよ」
「ああ、悪ぅござんした」
 鞄を背負いなおし、前を通り過ぎようとすると、幼馴染は容赦なく鞄を引っ張ってきた。不意打ちだったので思い切り仰け反る形になってから、むっとして幼馴染を睨む。
「ああん? 何なんだよ」
「女の子が一人で立ってんだから、誘うとか何とかしなさいよー」
「何だその意味不明な主張は」
 いつものことながら不可解なことを言い出す幼馴染である。無視して歩き出すと、「待ってよー」と言いながらぽてぽてついてくる。そう、誘わなくたってどうせ帰る方向は同じなのだから、一緒になるに決まっているのだ。
 幼馴染は小走りになって横に並ぶと、大きな瞳でこちらを見上げる。
「陸上部、調子どう?」
「まあ、ぼちぼちってとこかな。大会までまだ少しあるからしっかり調整するさ」
「余っ裕ー。ゲームばっかやっててその余裕だもんなあ。羨ましい」
 ゲームは関係ないだろ、と膨れっ面を作ってやると、幼馴染は楽しげに声を立てて笑った。恋愛感情とかそういうのを抜きにすれば、幼馴染のそういう笑い方は嫌いじゃない。こちらまで明るくなれるような笑い方だから。
「そういえば、『願いを叶えるゲーム』はどうしたの?」
「その話、したっけか」
「されたよ。お前の願いは何だーって、突然聞いてきてさ」
 そうだったか。何だかその辺の記憶は曖昧だが……よくあることだ。自分で言ったはずのことを忘れるなんて馬鹿な話だが、実際にそうなのだから仕方ない。多分、普段あまり考えて喋っていないからだろう。
 ただ、『願いを叶えるゲーム』の話をした時のことは、本当に綺麗さっぱり頭から抜け落ちていた。自分が言ったことはともかく、幼馴染がどういう反応をしたかも思い出せないのだから重症だ。
「で、どうなったの? クリアした?」
「まあ、一応な」
 あれをクリアと言っていいのかどうかは怪しかったが。そう言うと、幼馴染は目を丸くして、まじまじとこちらの目を覗きこんでくる。
「ホント? で、夢は叶ったの?」
「さあなー」
 ――叶ったよ。
 口ではとぼけるけれども、胸の中では確かに夢が叶ったのだと繰り返す。叶っているからこそ、自分は。
 自分は?
「どうしたの?」
「いや、変だな……何が、変なんだかよくわからないけど」
 変と言ってみたけれど、この違和感の理由がよくわからない。何か決定的なことが引っかかったから、変だと言ったはずなのだが。違和感を覚えたこと自体が変だったのかもしれない。
 幼馴染は不思議そうに目を丸くして見つめていたが、やがて一歩前に出るとくるりと振り返って笑う。
「何、ボケでも入っちゃった? その歳で」
「まさか」
 はは、と笑いを返す。もう何かが引っかかっていたことも気にならなくなっていた。大通りの並木道の下を二人で歩いている、その事実があれば不安に思うことなど何一つないのだから。
 同じ帰り道を使っている部活の仲間たちが二人で歩いているのを囃して駆けていったが、いつものことなので深く考えないようにする。何人かの知り合いに軽く挨拶をして、家のある住宅街への道を折れたとき。
 ちょうど住宅街側からこちらに折れてきた少女と鉢合った。普通ならばそのままお互いにすれ違うところだったが、思わず声を上げて立ち止まる。
「あっ」
 顔を上げた少女の鋭い目がこちらに向けられる。よく見なくてもわかる、少女の顔の半分は酷い火傷の痕に覆われていた。左半分が整った顔をしているだけに、アンバランスさが鮮烈に映る。
 近くにある高校の制服を纏っているところからも、自分達と同じく学校からの帰り道なのだろうが……
「あの」
 もう一言声をかけると、少女は涼やかな目を細め、不思議そうに首を傾げる。
「何か?」
 少女の唇から漏れたのは静かでハスキーな声だった。
 ひゅっ、と喉から息を漏らしてから、彼は首を小さく横に振って頭を下げる。
「ああ、悪い。何でもないんだ」
 少女は不思議そうな顔をしながらも、軽く頭を下げ返して横を行過ぎる。長く伸びたつややかな黒髪が、風に踊るように揺れているのを視線で追う。背筋を伸ばし、早足で歩く少女の姿が瞼の裏に焼きついて離れない。
 早鐘のように胸が鳴る……走っているときには感じなかった、異様なまでの息苦しさに囚われて小さく深呼吸をする。大丈夫、呼吸は正常だ。
 正常な、はずだ。
 幼馴染はひょいと横から顔を出して少女の背中を見やる。
「あれ、西高の制服だよね。知り合い?」
「いや……」
 違う、はずだ。あの少女だって自分のことを知らないような顔をしていたではないか。自分は、あの少女を知っているはずがないのだ。
 なのに、何故あの瞬間声を上げてしまったのだろう。
「言っちゃ悪いけど、すごい顔だったよね……事故でも遭ったのかな」
 幼馴染はが耳元で囁く。けれども、その言葉も半分以上は頭に入ってこなかった。一際強く吹く風を纏うように、凛として去り行く少女の背中をじっと見つめているだけで。
 何かが引っかかる。何か、とてもとても大切なことを忘れてしまっているような気がしていたのだが。
「行こう」
 笑顔の幼馴染に手を引かれて、
 
 何かを忘れていることを――忘れた。