シトラスムーン・ドリミンガール

ドリミンガール:08

「君にも念のため伝えておく。新しい眠り病の患者が出た」
 学校帰りに鞄の中で震えた携帯。取り上げてみると聞こえてきた声は緑野のものだった。緑野から電話がかかってくるとは思わず驚く雫に対し、緑野は早口ながらも聞き取りやすい声で伝えるべき用件のみを告げる。
 全てを聞いた雫はいても立ってもいられなくなって、携帯を閉じるとすぐに駆け出していた。
 携帯越しの緑野は「気づくのが遅れた」と悔しそうに語っていた。あの『ゲーム』の話が事実ならば、遅れたという言葉も納得できる。
 本当は、昨日既に一人、眠り病にかかっているはずなのだ。
 『ゲーム』のゴールに辿り着いたプレイヤーが出る時期と、眠り病にかかる時期はちょうど一致する。このルールをあらかじめ聞かされていた雫もまた、「遅れた」と苦々しく言った緑野を責めることはできない。
 まず、雫がその可能性に思い至らなくてはならなかったのだから。
 緑野が患者の存在に気づけなかった原因は、笑いたくなるほどに単純だった。
 単純だったからこそ……雫は泣き出したくなる思いに駆られる。
 
 ――そういうことか。
 
 ローファーの底が、地面を蹴る。冷たい風が頬の横を流れていくのを感じながら、足の親指に力を入れて加速する。
 きっと彼はずっと夢だけを見てきたのだ。永遠にも続くと思われる、幸福な白昼の夢を。ただ、それが儚い夢でしかないことだって気づいていたのだろう。
 気づいていなければ、『ゲーム』に夢をかけたりなどしない。
 息が苦しくなるのは、走っていて息が切れてきているだけではない。見慣れてしまった病院への道も、今日だけは違った色。傾き始めた太陽が投げかける橙の光が『ゲーム』の中にだけ輝く橙の月によるものに見えてきて、ぞっとする。
 速く、もっと速く。
 もたもたとしか動かない自分の足がもどかしい。行ったところで何もできないのは、小夜の元に通う日々ではっきりしている。それでも全力で走らずにはいられなかった。
 謝らなくてはならない。
 自分は何もわかっちゃいなかった。夢見るということ、叶えたいと願うこと。自分には夢などなかったから。何もかもを捨ててまで叶えたい願いなんて、抱いたことがなかったから。
 いや、正確に言えば違うのかもしれない。大切なものを全てを失ったあの日から、何かを失うことを恐れるようになったのだ。何かを失うくらいなら、何もしない方がいい。考えない方がいい。だから自分から何かを願ったりはしない……願った結果が喪失だなんて、悲しすぎるから。
 そうして生きてきた雫にとって、彼らを理解できないのは当然だった。
『わかるよ』
 小夜の願いを理解できると言った少年の姿が脳裏をよぎる。
 わかるということは、初めから彼の選択肢の中にも小夜と同じものがあったということだ。彼が選んだのはまた別の選択肢だったのだろうが、雫の目に映る結果は何も変わらない。
 病院の建物が見えてくる。胸を締め上げる息苦しさはなおも増していくばかり。
 『ゲーム』の中で、彼は何を思って笑っていたのだろうか。後ろを振り返らない彼に感じた一抹の不安が、まさかこの場所に繋がっているとは思ってなかった。彼だって、一緒にいたのがまさか自分だとは思っていなかったはずだ。
 いつも『ゲーム』の中では背筋を伸ばして立っていたけれど。
 本当は不安でたまらなかったから、あれほどまでにがむしゃらだったのだ。夢が叶わなければ何も変わらない、夢を叶えなければ生きていけない、そんな風に考えていたのかもしれない。
 あくまで想像に過ぎない。だが、思いつめていたのは間違いないと思う。
 何気なく一緒にいるだけで自分が満足していて、彼がずっと抱えていたものについて考えもしなかった。空を見上げる横顔に『ゲーム』の中で笑う彼と同じものを見ながら、最後の最後まで可能性を無意識に否定していた。
 だから、一昨日の別れの言葉にだって、気づけなかったのではないか。
 あの時には既に、彼は終着点を知っていた。だから雫にさよならを言っていたのだ。
 やっとのことで病院にたどりつく。入口で少しだけ息を整えてから、流石に走るわけにもいかずに早足で階段を上り、階段のすぐ側にある扉を開く。
 ざあ、という風の音。
 揺れるカーテン。
 がらんとした部屋の中、一つだけ置かれたベッド。
 その上で昏々と眠る少年、遼太郎の姿が否応なく目に入る。
「……ああ」
 息と共に、気の抜けた声が漏れる。
『信じるんだ。夢は叶う、叶えば全てがよい方向に向かう』
『これで夢が叶うんだ。俺が、ずっと見てきた夢が』
『さよなら、     』
 記憶の声が、重なる。
 現実と『ゲーム』で向けられた、理不尽なまでの別れの言葉。
「何だよ、さよならまで言って、さ」
 ベッドの横にまで歩み寄り、拳を握り締める。胸から湧き上がってくる感情が、もはや聞こえないとわかっていても唇から言葉になってあふれ出す。
「夢なんて叶ってないじゃないか、紅蓮っ!」
「いや、こいつの中では叶ってるんだよ」
 声が聞こえてきて、はっとして雫が声の方向に振り向く。扉のところには、いつの間にか緑野が立っていた。緑野はいつも以上に疲れた顔をしながらも、口元には何かを嘲るような笑みを浮かべていた。
 おそらくは、自嘲だろうが。
 雫は胸の中の痛みと息苦しさをどこに吐き出していいかわからず、目の前の緑野にぶつけようと口を開く。
「これの、どこが叶ってるって!」
「こいつは眠ってるだけじゃない。正確には『夢を見ている』んだよ」
 ――夢、を?
 呆然とする雫に対し、緑野はがりがりとぼさぼさの頭をかきながらも視線を眠る遼太郎に向ける。遼太郎の顔色は常になく悪く、呼吸も頼りない。ただ、表情だけがどこか満足げに見えて背筋がひやりとする。
 緑野は珍しく露骨に眉を寄せて小さく舌打ちしてから、吐き捨てるように言った。
「遅かったがこれではっきりした。あの『ゲーム』はクリアした人間に夢を見せる。こいつが見ているのは『自分の夢が叶っている』という、覚めない夢だ」
 夢が叶った、夢。
「そんなの、結局夢じゃないか」
 震える拳を爪が食い込むまで握り締める雫に対し、緑野は低い声で言葉を紡ぐ。
「そう、夢は見るだけのもんだ。それ以上でも以下でもねえ」
 あれだけ言ったのにな、と語る緑野の表情に走った不思議な感情を見て、雫は力いっぱい握っていた拳を微かに緩めた。
「……緑野さん?」
「そいつを錯誤したのがこいつであり、原田小夜であり、そしてこの『ゲーム』を広めた奴だ。俺は何も止められなかった」
 蚊の鳴くような声で呟いて俯く。その姿は、明らかに何かを後悔しているように見えた。泣いているのかとも思ったが、即座に緑野はぱっと顔を上げて眠る遼太郎を三白眼で睨む。泣いてはいなかったが、いつになく険しい顔で言う。
「一度眠ってしまえば目覚めることは難しい。何しろ、こいつらに目覚める意志がないんだからな」
 それはそうだろう。遼太郎が見ているのは二重の夢、虚構の夢想……一から十まで嘘に過ぎない。だが、何よりも甘く優しい夢であることにも違いない。目を覚ますという考えにも至らないほどに幸福な、叶った夢。
「どんな夢を、見ているんでしょう」
「ちょっと調べてみたが、ひとまず現実に不満を持っていたのは間違いないだろう。家庭の事情と生まれつきの病気で病院に押し込められて、外も知らずに育って、友達と言えば家族から与えられたアレくらいだったって聞くからな」
 アレ、と言って緑野が指差したのはベッドの横に置かれたかなり小型のコンピュータと最新型のバイザー型のディスプレイ。それに、大きな液晶ディスプレイも置かれている。どれも高価なものなのは一目瞭然だった。
 だが、家族から与えられたのはそれだけ。
 本当に欲しかったものが何一つ与えられないまま、この部屋に閉じ込められていたというのか。
「起きていられる時はほとんどゲーム漬けだったらしい。特に最近一ヶ月ちょいは酷かったようだ」
 一ヶ月ちょい、というのは間違いなく『夢を叶えるゲーム』をプレイしていた時期だろう。どこから『ゲーム』を知ったのかはわからないが、おそらくはゲーム仲間から情報を得たかネット上で噂を聞いたに違いない。
 かくして遼太郎は自らの夢を叶えるために『ゲーム』を始めて、今に至る。何を夢見たのかは最後までわからなかったが、彼は『ゲーム』でも現実でも雫に背を向けて夢を叶えることを選んだのだ。
 ただ、その先に待っているものは――
「医者によれば、このまま眠ってる状態が続けば危険だということだ。原田小夜と違って元々体力が無いしいつ発作が起こるかもわからない。下手をすれば、眠ったまま死ぬだろう」
 死。当たり前のように放たれたその言葉が雫の胸を刺す。歯を食いしばって、渦巻く感情の波に耐えようとする。しかし視界の中に飛び込んでくる遼太郎の青白い顔は、感情の制御を否応なく妨げる。
 いっそ、目の前から消えてくれればよかったのだ。そんな身勝手なことを考えずにはいられない。夢を叶えた世界に旅立って、二度と会えないのだとわからせてくれればいい。実際に『ゲーム』の中ではそう思い込むことで決着をつけることにしたのに。
 旅立ったはずの彼は、ここにいて……しかし心はずっと遠くに行ってしまった。こんな理不尽すぎる別れは、望んでいない。
「誰も彼も、勝手だ」
 ぽつり、言葉が落ちる。一緒に熱い何かが目から溢れて落ちていく。
「……朱鷺羽さん?」
「皆、私を置いていく。取り残されてばっかりだ」
 涙が溢れて、止まらなくなる。自分の方が勝手なことを言っているのはわかっている。わかっている、けれど。
「別れなんて嫌だ。もう嫌だよ。行くなよ!」
 出会ったあの日から、自分が来るのを楽しみにしていてくれた。つまらない話をしても、嬉しそうに笑ってくれたではないか。
 こんなみっともない自分を「友達」と呼んでくれた人を、これ以上失いたくないのだ。
 夢なんかに奪われてたまるか、自分はこちら側にしかいないのだ。絶対に手が届かなくなる領域にまで連れて行かれる前に、今度こそ取り返さなくてはならない。気づいたら全てを失っていた、あの日の繰り返しは御免だ。
 確かに、遼太郎は夢から覚めることを望んでいないかもしれない。遼太郎も『ゲーム』の中の紅蓮も、どこまでも遠い空を見ていたから。こんな窓や建物に切り取られた空じゃない、三百六十度に渡って広がる空を。
 ならば、自分が連れて行ってやる。この手を取って、遠くへ。夢に描いているのよりももっと素敵な空を現実に見せてやる。だから……
 布団から出ていた小さな手を握り締め、祈るように、言葉を搾り出す。
「目を、覚ましてくれよ……っ!」