「こんなとこにいたんだ」
降ってきた声に、目を開ける。
寝転がっているこちらを覗き込むのは大きな双眸。幼馴染が自分の横にしゃがみこんでいた。
「屋上は立ち入り禁止でしょ」
「バレなきゃいいだろ、鍵も開いてたし」
仰向けになったまま微かに喉を鳴らす。一面に広がるのは、薄青を湛えた秋の空。高い位置に浮かんで流れる雲を眺めていると、時間もまたゆっくりと流れていくようで、とても心地よい。
「いい天気だね」
さんさんと太陽の光が降り注ぐ中、幼馴染はにっと笑う。
「空、好きだもんね。特等席ってところ?」
「まあ、な」
言って、腹筋を使って上体を起こす。
「何も遮るもののない空って、こんなに広いんだよな」
座り込んだまま空を仰ぎ、目を閉じる。
そう、今までこの目で見る空は……
空、は?
「ね、ここから家、見えるかな」
フェンスに手をかけて、幼馴染は笑う。いつの間にかフェンスに体を預けていた彼は、自然と建物群に目を凝らす。学校の周囲に建つ建物の中からは、自分の家の屋根を見つけ出すことはできなかった。
「さっぱり見えないなあ」
「うーん、見えないか。こっちの方角だと思うんだけどなあ」
手を目の上にかざして、幼馴染も目を凝らしている。その仕草を目の端に収めつつ、眼下に広がる町並みを何とはなしに見つめ続ける。何となく目の前に薄ぼんやりとしたフィルターがかかっているように、町が灰色がかって見えるのは気のせいだろうか。
こんなによく晴れた日、何も遮るもののない屋上にいて。
何故窓から覗いているような錯覚に陥らなければならないのだろうか。
――……ませ……
風の音に混ざって、何か声が聞こえた気がして。ふと幼馴染の方を見て問うてみる。
「お前、何か言ったか」
「ううん。どうかした?」
いや、と否定してからもう一度耳を澄ます。風の音だ、空耳だと理性はしきりに繰り返しているが、どうしても耳を澄まさずにはいられなかった。
「ねえ」
「ちょっと黙っててくれ」
幼馴染の口を封じて、自分も目を閉じ神経を聴覚だけに集中させる。
――目を、覚ませ……
少しだけ掠れ気味の、低くも心地よい声が聞こえてくる。これは、誰の声だっただろうか。つい最近聞いた気もすれば、ずっと遠い昔に聞いた声のような気もする。
だが、「目を覚ませ」とはどういうことだ。
覚ますも何も目はしっかりと眼下の風景を認識しているし、声だってきちんと聞こえている。この状態で目を覚ませといわれても、どこから覚めろというのだ。
不意に、ぐいと腕を引かれて「うおっ」と声を上げる。幼馴染が強く腕を握り締めて、にっこりと笑いかけてくる。
「さ、そろそろ帰ろう。これ以上遅くなると、先生が来ちゃうかもよ」
「それはまずいな」
フェンスから体を離し、屋上の扉に向かって歩き出したその時、もう一度、今度は明らかに背中に声がかけられる。
「気づかないのか?」
――何に?
ふと、振り向いて気づく。
フェンスの向こうに一人の少女が立っている。揺らめく薄青のワンピース。だが、その顔は消えては現れる薄青の少女のものにも見え、どこかで見た火傷の痕を持つ少女のようにも見える。
細い指でフェンスにしがみつき、少女は叫ぶ。射抜くような、薄青の瞳を向けて。
「これは、夢なんだよ!」
夢?
――確かにある意味では夢だろう。
彼はフェンスの向こうの少女を見つめたまま、やけに醒めた思考を回転させる。
今自分が見ているものは叶った夢、永遠に続く幸福だ。もう何にも悩まされることなく、当たり前の日常を生きていられるのだ。
誰も待っていない……独りきりの目覚めはもうたくさんだ。
そこまで考えたところで、正常に回転していたはずの思考が止まる。
独りきりの? そんなはずはない。朝はいつも目覚ましの音で目を覚まして、二度寝しようとすると母が起こしに来るのだ。それを独りきりとどうして言えるのだろうか。
「ね、ねえ……」
自分は、何か致命的な勘違いをしている。何度も何度も違和感を覚えながらすぐに忘れていたけれど、この違和感は忘れていいようなものだったか?
独りの朝、囲まれた空、窓からしか見えない町並み。
自分が立っているのは、本当に学校の屋上なのかと
「ね、ここから家、見えるかな」
フェンスに手をかけて、幼馴染は笑う。いつの間にかフェンスに体を預けていた彼は、自然と建物群に目を凝らす。学校の周囲に建つ建物の中からは、自分の家の屋根を見つけ出すことはできなかった。
「さっぱり見えないなあ」
「うーん、見えないか。こっちの方角だと思うんだけどなあ」
手を目の上にかざして、幼馴染も目を凝らしている。その仕草を目の端に収めつつ、眼下に広がる町並みを何とはなしに見つめ続ける。何となく目の前に薄ぼんやりとしたフィルターがかかっているように、町が灰色がかって見えるのは気のせいだろうか。
――気のせいなんかじゃない。
彼は唇を噛む。痛みは感じない……そう思った後に痛みが来た。何もかもがワンテンポ遅れているような感覚。これが当たり前だと思っていたが、まず「当たり前」とは何だ?
「なあ」
横の幼馴染を見やる。幼馴染は目を大きく見開いて、びっくりした顔でこちらを見つめている。鏡のような瞳の中に映ったのは自分の姿。髪を短く切りそろえ、ごく平凡な顔立ちをしている背の高い少年の姿だ。
「な、何?」
「俺は」
「ね、ここから家、見えるかな」
フェンスに手をかけて、幼馴染は笑う。いつの間にかフェンスに体を預けていた彼は、自然と建物群に目を凝らそうとして……首を振って幼馴染を見た。
幼馴染は微かに眉を寄せて、首を傾げる。
「どうしたの?」
「おかしいんだ。何だよ、これ」
彼は震える指先でフェンスを握り締める。一つ穴を見つけてしまえば綻びは広がっていくばかり。次々と違和感が生まれては不可解な焦燥を胸の中に生み出していく。その焦燥はやがて体を支配して喉を締め上げ、心臓を高鳴らせる。自分の体はこんなに重かっただろうか?
がたがた震え始める体をどうすることも出来ず、フェンスに額を当てる。違和感の原因はわかっている、わかっているだけにそれを認めることができない。
「何も不安なことはないよ。君は、夢を叶えたんでしょ?」
そっと、幼馴染が手を取る。
怖くない。綻びから目を背けてしまえば全ては元通り、この妙な繰りかえしだって忘れてしまえるはずだ。初めは辛いかもしれないが、それを超えてしまえば永遠の幸福が保証される。行こう、という言葉に誘われてフェンスから離れようとしたその時。
「逃げるのか」
目の前に現れた、薄青の瞳。
真っ直ぐに見つめてくる薄青の中に映し出された自分の姿は、幼馴染の瞳に映るそれとは全く違う姿をしていた。薄青の世界に映るのは、細くて折れそうな体をした青白い顔の少年だ。
少女は彼を睨む。目を伏せ、その薄青を視界から排除しようとする彼を容赦なく睨んでハスキーな声で責め立てる。
「それが君の夢なんだな」
彼はフェンスを握り締めたまま、ぎっと薄青の少女を睨み返して叫ぶ。
「ああそうだ、何が悪い!」
弱くて、孤独で、どうしようもない自分が嫌で仕方がなかった。
まともに動かない体を引きずって、変えられない毎日に絶望した彼が描いてきた世界。
それは彼が『ゲーム』に託した唯一にして最大の、夢だった。
「逃げとでも何とでも言え! これが『僕』の夢だ!」
ああ、きっと自分はとんでもない顔をしている。ほんのひと欠けだけ残された冷静な部分が自分を見下ろしているのを感じながら、叫ぶ。
「あなたはいいよな、そんな顔をしてたって背筋を伸ばして立っていられる。僕は立っていることすら辛いんだ、そんな奴には誰も手を差し伸べない。僕は独りだ、いつも独りだったんだよ!」
『あなた』が誰かも正確には認識できていないまま、頭に浮かんできた言葉を喚き散らす。体はがたがた震え、足は折れてしまいそうだ。叶えた夢の延長線上にいるはずなのに、昔に戻ってしまったような錯覚。
「だから僕は夢を見た。叶えようのない夢を見続けた! わかるか、わからないだろう? わかって欲しくもない!」
「ああわからないさ。私は君じゃない。でも」
ぐっと、薄青の少女は額を彼に近づける。完全にその顔は、中庭で出会ったあの少女の顔に取って代わられていた。
フェンス越しでありながら、息が届きそうな距離まで顔を近づけて、叫ぶ。
「さよならを言った覚えもないのに、勝手に一人で行くな!」
ぴたりと、震えが止まる。
唯一色を残す薄青の瞳は涙を湛えながら、彼をじっと見据えていて。
彼はハスキーな声を持つ少女と最後に別れた瞬間のことを、思い出す。
『ああ、またな』
さよならを言った自分に向かっても、彼女は手を振って『また』と再会を約束してくれたじゃないか。気づいていなかったのは自分だけで、本当は。
「行くな、また取り残されるのは御免だ……っ」
すぐ側に、手を差し伸べられていたのではなかったのか。
そんなに真っ直ぐな思いを投げかけられたことなどなかった。いつも自分にかけられるのは言葉だけの応援と見当違いな哀れみの視線。
哀れみなんていらない。欲しかったのは、ただ。
「目を覚ましてくれ!」
こちらに差し伸べてくれる、一つの手。
誰かが自分を必要としてくれれば、こんな夢も見なかった。こんな、脆くてすぐに壊れてしまいそうな危うい夢の上に立ってはいなかった。
腕を、誰かが引いている。
幼馴染……と自分が設定した見知らぬ少女だ。常に誰かと繋がっていたいという思いが生んだ、想像上の存在。もしくは。
「夢を、叶えるんじゃなかったの?」
幼馴染は橙色の瞳でこちらを見上げるが、もはやそれは彼がイメージした幼馴染とは言えなかった。橙色の衣を纏った少女、『ゲーム』の中でカミサマと名乗っていた存在だ。
夢を叶える橙色の少女と、現実を突きつける薄青の少女。
二人の間に挟まれながら、彼は俯いて口元だけで笑む。
夢を見続けるのは簡単だ。カミサマの手を取ってもう一度初めから誤魔化されればいい。自分が想像する「当たり前」の中で、母親に起こされ学校で幼馴染と語り合い、部活に打ち込む。そうして疲れて帰ってきてベッドの中で眠る。
そんな生活を繰り返す。自分が望んでいたように。
――ねえ、トキワさん。
ふと視線を上げ、見つめる先は薄青の少女……いや、その向こうにいる火傷の痕を持つ一人の少女。
ベッドの上で夢見るだけで、現実を見つめることを諦めていた。自分の力では立つこともできない以上、何も変えることはできないし変わることもない。長らくそう思い込んでいたけれど、一つだけ、確かに変わったではないか。
投げかけられた、夢から覚めるための声。願っていた、現実から差し伸べられた腕。
これが、最初で最後のチャンスだ。
笑顔で顔を上げて、薄青の少女を真っ直ぐに見据える。
「その手を取ったら何かが変わるって、信じていいか」
雫の声を持つ少女は、ふと微笑む。
「それを決めるのは、君だ」
そうか。
ならば、ずっと目を背けてきた夢の先を見てみるのも悪くないかもしれない。体は重いし息苦しいし、何も自分の思い通りに出来ない、見えない未来。
だが、そこで自分を待っている人が一人でもいるならば、その手を掴まずにはいられない。
その人はきっと、彼が夢見る絶対に変わらない風景とはまた違う、全く新しい風景を見せてくれる。自分を、遮られるもののない本当の空の下に連れて行ってくれる。
夢はいつかは覚める、だから夢の先で新しい夢を見る。
手を伸ばしてくれた大切な友達の手をとり、未来に届くために。
――信じよう。
そう決めた瞬間、青空は橙の境界線を持つ漆黒に塗りつぶされ始める。西の空の地平線近くに生まれるのは橙色の月。『ゲーム』で見上げ続けていた、明けない夜空だ。
彼の夢が、自覚と共に破綻をきたし始めたのだ。
覚めない夢であるこの世界には、確かに青空よりも闇の空が似合う。
ゆっくりと焼け付くような橙色を経て青から黒へと変わっていく空の下、橙の少女が腕に強くしがみついてくる。どうにかして、彼の足を止めようとするかのように強く、強く。
何故このカミサマが夢に固執するのかはわからない。ただ、今はこの腕を振りほどいて、夢から覚めなくてはならない。フェンスの向こうにいた薄青の少女の姿はもう見えなくなっていて、ただ声だけが聞こえる。
「目を覚ませ」
「ああ」
にっと笑って答えると、橙の少女の腕を振り払い、軽々とフェンスに飛び乗る。
ごう、と温度のない風が耳元を掠める。橙色に染まる空、曖昧な夢と現の境界線を越えられるのは今しかない。
両腕を広げて、眼下に広がる作り物の世界を見据えて。
「……行こう」
音も無く、フェンスを蹴る。
体が浮き上がった感覚だけを信じて、
目を、閉じる。
シトラスムーン・ドリミンガール