シトラスムーン・ドリミンガール

ドリミンガール:09

 不意に、空に落ちる、幻を見た。
 
「トキワさん」
 ぽつり、静かになった病室に生まれる声。はっとして、落としていた視線を上げると……遼太郎がうっすらと目を開き、雫を見上げていた。
 目が覚めたのか、そう雫が言葉を放つ前に、遼太郎が「あはは」と気の抜けた声で笑う。
「どうしたんですか、ひっどい顔ですよ?」
「うるさい、誰のせいだと思ってる」
 目覚めてくれて安心したのと、突然の目覚めにびっくりしたのと、あれだけ心配してやったのに気楽な態度の遼太郎に腹が立ったのと、とにかく色んな感情が途端に溢れてきて。
 何だか悔しいので、一際強く手を握ってやる。
「い、痛い痛い痛い! 千切れる、千切れますって!」
「失礼な、んな怪力じゃない」
「あー、お前らなあ」
 緑野が後ろで呆れたような声を上げる。それで、雫は我に返る。握った手を緩めてそのまま離そうとしたが、遼太郎の指先が雫の手を捕らえて離さない。少しだけ驚いて遼太郎を見ると、弱々しい笑い方で雫を見上げていた。
「すみません、少しだけ、このままでいいですか」
「……構わないよ」
 微かに震える指を、今度は優しく握り返す。
 一体、遼太郎がどんな夢を見ていたのか雫は知らない。ただ、緑野の言葉が正しければ彼が見ていたのは『叶った夢』。
 そこから覚めた時の心細さくらいは、想像しても許されるはずだ。
 緑野が雫の横に立って、横たわったままの遼太郎を見下ろす。
「さて、気分はどうだ?」
「……あの、あなたは?」
 微かな怯えの色を見せて、遼太郎が問う。当然の問いだ、緑野は一度も遼太郎と言葉を交わしてはいなかったはずだから。緑野はふと三白眼を細めて言った。
「ミドリノという。あの『ゲーム』の開発者だ」
『えっ』
 雫と遼太郎の声が唱和する。開発者、というのは雫も初耳だ。単なる暇人で『ゲーム』の行方を追っているのも趣味だと言い切っていた緑野が、まさか関係者だとは夢にも思っていなかった。
 呆然とする二人に大して、緑野は真面目な顔を崩さないままに言った。
「悪かったな。これを言ったら絶対信じてもらえんと思って今まで黙ってたんだが……詳しいことは後で話す。もうちょい俺に付き合ってくれないか」
「どういうこと、ですか」
 遼太郎が言いながら身体を起こそうとするので雫が支えて起こしてやる。緑野は「ちょっと触るぞ」とベッドの横の大きなディスプレイを引っ張り出しはじめた。一体何をしようというのだろうか。
 怪訝に思っていると、緑野はディスプレイをコンピュータに接続しながら遼太郎に語りかける。
「上条遼太郎と言ったな」
「は、はい」
 緑野は再び目を細めて遼太郎を見やった。普段雫に対して見せるものとは明らかに違う、シニカルさも含んだ独特な微笑を顔に貼り付けている。
「目覚めたのは奇跡的だが、このまま眠ってたらお前は間違いなく死んでいた。ま、幸せなまま死ねるんだったらそれはそれで幸せだったかもしれんがな」
「緑野さん!」
 流石に言いすぎだと雫は声を上げて緑野の言葉を遮る。だが、遼太郎は「いいんです」と小さく呟いて俯いた。
「あのまま夢を見ていたいって思ったのは、確かですから。トキワさんの声が聞こえなかったら、緑野さんの言うとおりだったんでしょう」
 ますます落ち込んでいく遼太郎に対し、緑野は「あー」と喉から妙な声を出した。目をきょろきょろ彷徨わせているところから、どうやら心底困っているらしい。
「その、悪ぃ、責める気は無いんだ。反省してくれりゃいい。それに」
 視線を遼太郎から逸らしたまま、片方の手を遼太郎の頭に載せてがしがしと乱暴に撫でる。
「声が聞こえたって地点で、お前にも少しでも目覚める意志があったってことだ」
「……どういうこと、ですか」
「正直、お前が目覚めるなんて俺はこれっぽっちも期待してなかった。だが、実際にはお前は朱鷺羽さんの声を聞いてこっちに戻ってきた。お前が望んでもいなかったはずの、現実にな」
 緑野の言葉はいつになく挑発的だ。遼太郎が再び怯えるような目をして緑野を見上げる。そして雫もまた緑野が何を言いたいのかわからず、睨むように緑野を見据えていることしかできない。
 緑野はふと息をつき、遼太郎の了解も得ずにコンピュータの電源を入れる。微かな音と共にディスプレイに起動時特有の文字列が浮かび上がり、消えていく。
「聞かせてほしい。『ゲーム』の中で、そして夢で何を見た」
 答える義務はないはずだ、と雫は思う。緑野は断定的な口調で問いを投げかけるが、それは遼太郎が自分の口から語るには辛い質問である。不安に思って遼太郎を見ると、彼は雫が思っていたよりもずっと強い力を篭めて、緑野を見据えた。
「カミサマ……」
「カミサマ?」
「橙色の服を着た、カミサマと名乗る女の子を見ました。『ゲーム』では夢を叶えてくれると言って、夢では僕の側にいて……僕が目覚めるのを、阻止しようとしていた。だから初めは僕も、自分が見ていたものが夢だと気づかなかったんです」
 緑野が、微かに歯を鳴らす。遼太郎は二つの瞳を緑野から外すことなく、はっきりとした声で言葉を紡ぐ。
「あの、カミサマは何者ですか」
 開発者なのだからわからないはずはないだろう。遼太郎は言外にそう語る。緑野は遼太郎からディスプレイに視線を逃がす。ディスプレイは見慣れた開始画面を立ち上げ、幾何学模様の背景を持つデスクトップを表示する。
「カミサマというよりは、亡霊かな」
「……亡霊?」
 突如放たれた言葉に首を傾げる遼太郎。だが、緑野は「信じなくても構わない」と言いおいてから遼太郎と雫に向き直る。
「あの『ゲーム』を広め、今回の事件を引き起こした存在だ」
 放たれた言葉に、雫は思わず反論する。
「でも、あの『ゲーム』を作ったのはあなたですよね」
「ああ。だが俺が作った『ゲーム』は夢を叶えるなんてことはできん。そういうシロモノになったのは、奴が破棄されたはずの『ゲーム』を拾い上げ、操りはじめてからだ」
 緑野は、ぽつりぽつりと経緯を語り始めた。
 あの『ゲーム』は、かつてとあるゲーム会社に勤めていた緑野たち数人が開発していたものだった。しかし会社が潰れ、開発中のゲームも日の目を見ることなく破棄されたのだ。
 その後しばらくして、緑野は『夢を叶えるゲーム』を知ることになる。その『ゲーム』が自分の作っていたものと酷似していることも。
「それで調査を始めたんだよ。何しろ俺が作った『ゲーム』が一人歩きしているからな、放っておくわけにはいかなかった」
 もちろん仕事でも何でもない、金にもならなければ下手をすれば無為に時間を食いかねない行動だ。だから雫には「趣味」という言い方をしたのだろう。嘘はついていない、致命的に言葉が足りていなかったが。
 憮然とする雫に対し、遼太郎は食いいるように緑野の話に聞き入っていた。いつの間にか緑野への恐れよりも興味の方が先に立ってしまっているようで、真ん丸く目を見開いて緑野を見上げている。
「調べていった結果、『ゲーム』のプレイヤーが眠り病に陥るということがわかってな。そこからは朱鷺羽さんにも話したとおりだ」
 プレイヤーの中でも、眠り病に陥るのは『ゲーム』をクリアした者のみ。小夜がそうであり、遼太郎もまたその一人として危うく眠りから覚めなくなるところだったのだ。
「おそらく、だが。お前がカミサマと呼んでいた奴は強い夢を持つ者のみを選別して、眠らせていた。『ゲーム』はその選別装置として働いていたんだと思う」
「選別装置……でも、どうしてわかるんですか?」
「観察してんだよ。お前が誰に何を言われようとひたすら『丘』を目指したように、本気で『丘』を目指してるのかどうか。叶えるに値する夢を持っているのか」
「え、あの、何で」
「まあ、どれもこれも下らない推測に過ぎん。後は本人に聞くしかない。アイツはきっと、お前に会いたがっているだろう……叶った夢から覚めた、お前に」
 疑問符を浮かべる遼太郎の言葉を遮り、緑野はこつりとディスプレイを軽く叩く。その口元は微かな笑みを浮かべていたものの、目は真剣そのものだった。
「それに、今のお前ならアイツを説得できるやもしれん。暴走するアイツを止めることが出来れば、眠り病の被害者も目覚めるはずだ」
 雫は胸が一際強く鳴るのを感じていた。
 そうだ、遼太郎が目覚めたことで安心していたが、小夜は未だに夢の中にいる。自分が消えた世界の夢を、延々と見続けている……
 眠り続けるのが幸福か否か、雫にはわからないし説明されたところで理解できないだろう。だが、そんなことは抜きにして小夜には目覚めてもらいたいと願う。小夜には言いたいことがたくさんあるのだ。
「当然、失敗すりゃ他の連中は眠ったまま、ついでに奴を捕まえることも難しくなる。難しい賭けだが、やるか?」
 緑野は遼太郎を見据える。遼太郎はほんの少しだけ困ったような表情を浮かべて、それから軽く首を振って雫を見た。丸く大きな目が、雫を覗きこんで微笑む。
「トキワさんは、僕を呼んで手を取ってくれました。だから、今度は僕の番ですよね」
 独りで目覚めるのが辛いと言っていた少年は、重ねていた雫の手を強く握り返す。今度はしっかりと、力を篭めて。
 そこに雫の体温があることを確かめるように。
 雫もまた、遼太郎の指先を握り返す。もう、独りじゃない。それは遼太郎も、そしてずっと心のどこかで人との繋がりを恐れていた自分も同じ。遼太郎が不安でないはずはないが、前を見る目に迷いはない。
 それは、『ゲーム』の中で見た前向きな横顔によく似ていた。
「やります。やらせてください、ミドリノさん」
 緑野はその答えを聞いてくくっと喉を鳴らす。
「ったく、背筋がカユくなるようなこと言いやがって」
 からかうような口ぶりではあったが、雫には緑野が遼太郎の答えに満足しているように見えた。緑野は持っていたヘッドセットを遼太郎に手渡し、にっと笑う。
「それじゃあ頼んだぜ、紅蓮さんよ」