シトラスムーン・ドリミンガール

シトラスムーン:10

 紅蓮、という名前を名乗るようになったのはいつからだろうか。
 バイザーを取り付け、マイクの位置を整えながら何気なくそんなことを考える。
 ゲームの中では背伸びして、理想を演じ続けて。それがいつしか『紅蓮』というキャラクターとして一人歩きしていたのだと思う。だから今の頼りない自分を『紅蓮』と呼ばれるのはとてもくすぐったいが。
 悪くない、とも思うのだ。
 握っている手の感覚が伝わる。『ゲーム』の中では感じることの出来なかった指先の感覚、あれだけ望んでいた温もりがここにある。身体の重さも苦しさもいつものままだが、思考はやけにはっきりとしている。
 ――大丈夫。
「ミドリノさん、どうすればいいですか」
 バイザーディスプレイ越しに緑野を見れば、緑野はニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろして軽く背中を叩いた。もう一つのディスプレイには、自分が見ているものと同じ光景が映し出されている。
「 『ゲーム』を開いてみてくれ。奴はきっと、そこにいる」
 奴……橙の少女、カミサマ。緑野に言わせてみれば「亡霊」。緑野が何を言わんとしているかはさっぱりわからなかったが、正体が何であろうともう一度きちんとあの少女と相対したいと思っていた。
 何故夢を叶えたのか。何故……自分を夢の中に閉ざそうとしていたのか。
 毎日繰り返していたようにファイルをオープン、『ゲーム』を起動する。耳慣れたメロディが流れるタイトル画面でゲームの開始を選択し、目を閉じる。
 ゲームを開始する時には決まってそうする。もう一つの世界に入り込むときの儀式、と言えばいいのか。自分にとってはゲームもまた自分を取り巻く一つの世界であり、この狭い部屋から他の場所に繋がる唯一の扉なのだ。
 そして、ゆっくりと呼吸を整えながら覚悟を決める。
 ここから先に何が待っているのかはわからない。夢を見る時とは違って、結末なんて定まっていない。そんな世界に投げ出されている自分の足元はふわふわと浮いているようで、正直怖くて仕方ない。
 ふわふわ浮かぶ身体を繋ぎ止める手を、握る。
「……平気か?」
 小さく震える手に気づいたのだろう。耳元で、雫が囁く。
「平気です」
 短く答えて、もう一度深呼吸。それで震えは収まった。恐れることはない、この手を握っている限り自分は現実に繋がっている。この手を離さないでいてくれる人がいるのだから、何度でも戻ってこられる。
 いつものとおり、カウント三つ。
 いち、にい、さん。
 目を開ければ、目の前に広がっていたのは橙色に輝く野原。あの時全てを終わらせた、『奇跡の丘』が視界一面に広がっていた。弦楽器を中心にしたバック・グラウンド・ミュージックを聞き流しながら、その中心に立つものを見つめる。
 橙色の服を身に纏い、同じ色の瞳を持つ少女……カミサマがそこにいた。カミサマは拳を握り締め、両足を大きく開いて彼を睨みつけている。
 音の無い風が、足元の草を揺らして波を描く。
「何故、夢から覚めたの」
 少女の唇から生まれた声は、はっきりと耳に届いた。含まれている感情は悲しみと、不安と、微かな苛立ちだろうか。
「私、何か間違えた? 夢は叶ってたよね? 幸せだったよね?」
 一歩、また一歩。少女は彼に近づいてくる。それらは全て『ゲーム』の中で展開される映像に過ぎないが、橙色の少女はまるで生き物のようにリアルに感じられて、息を飲む。
 いや、ある意味この少女は『リアル』なのだ。
 そうでなければ、『ゲーム』から切り離された状態だった彼の夢に出てくるはずもなく、現実に人間を眠らせることもできるはずない。亡霊、と緑野は言っていたが、もしかするとこの少女は通常の思考では到底考えも及ばないような存在なのかもしれない。
 それこそ、神様のような。
「夢を捨てるの? 幸せを捨てるの?」
 ゆらり、とまた一歩、橙の月を背負った少女が近づいてくる。少女の裸足が橙に輝く草を踏むたびに、少女の身体が揺れて巨大な影を描いていく。いつしか、カミサマは少女の姿をやめて翼を持つ影の姿へと変わっていた。
 竜を思わせる月を隠す巨大なシルエット、それはサリエルを殺し、一度は自分を飲み込んだイクリプスのものだった。
 彼は緊張と恐怖で凍り付いてしまいそうな思考を無理やりに回転させ、言葉を放つ。
「夢は叶ったよ。幸せだった。でもずっとそのままじゃいられない」
「何で? アナタも、あのヒトと同じことを言うの?」
 いやいやをするように、橙の瞳を持つ影は頭を抱えて首を振る。「あの人?」と問うが、影は彼の言葉など聞こえていないかのように首を振りながら悲鳴を上げる。
「夢は叶えるものじゃないって。必ず、覚めるって。わからないよ、わからない……」
 自分だって同じことを何度も言われた気がする。あれは何度も目にした薄青の少女と、
『夢は必ず覚める。覚めない夢は……異常だ』
『夢は叶えるもんじゃない。夢は「見る」ものだ。それ以上でも以下でもない』
 ――サリエルの、言葉。
 あの時はただの説教としか思えなかったし、自分の夢を否定されているようで反発することしかできなかったけれど、今は何となく気づきかけている。
 サリエルも薄青の少女も、決して夢を持つことを否定したかったわけではないはずだ。
「夢は見続ける。でも夢に囚われてしまったら、死んだも同然だ」
 現実とは違う、理想を夢想する。そしてカミサマは描いてきた夢を叶えてくれる。だがそれは自分が描いた夢の枠を出ることはできない。どこまでも現実とは隔絶した『叶った夢』。
 現実はどこまでも苦しいけれど、繋いだ手が小さな幸せをくれるし、時には前を見ろと叱咤してくれる。多分『ゲーム』だって同じことで、自分はきっと叶うまでの行程をはっきりと思い出すことができる。
 噂になっていた『ゲーム』を手に入れ、不安を抱えながらも夢を叶えようと決めた日のこと。『ゲーム』の中で出会った、本当は顔も知らないルフランと、サリエルと、そしてイーグリットと。笑って、時に少しだけ悩んで、ぶつかり合って。そうやって歩いてきた道のりを時折振り返りながら、真っ直ぐに『奇跡の丘』を目指した日のこと。
 その行程が無駄だったとは、誰にも、カミサマにだって言わせない。
「覚めない夢には先がない……だから夢から覚めて、また新しく見た夢を目指していく。それを繰り返すから、何とか生きていけるんだ」
 青いなと、サリエルは可愛らしいウサギ面を引きつらせて笑うかもしれない。実際に彼が言いたかったこととはかけ離れている可能性だってある。それでも構わなかった。今は自分の言葉で、自分の思いを目の前のカミサマにぶつけるしかないのだから。
 カミサマはゆらゆらと巨大な影を揺らしながら、言葉を失って佇んでいる。
 巨大で力のある姿をしているのに。彼の目には、カミサマがやけに希薄で儚い存在のように見えた。そう、まるで暮れ行く空の下、道に迷って泣き声を殺す小さな子供のように。
「ああ……迷子、なんだな」
 自分も、カミサマも。現実と夢の違いが理解できず、昼と夜、現実と夢の狭間にある橙の世界に彷徨う迷子だったのかもしれない。『ゲーム』はそんな迷子の亡霊による、迷子たちのために作られた世界。辛くて苦しい現実を拒絶し、永遠の夢という閉ざされた部屋に向けた一方通行の回廊だったのかもしれない。
 だが、それは解決にはならない。病室に縛り付けられている自分と、本質は何も変わらない。最終的には、自分達は本来あるべき場所に帰らなくてはならないのだ。
 今ならこの迷子のカミサマにも、帰り道を示すことができる。
「僕だって怖いよ。これから現実に生きるのは、怖い。だけど」
 ゆっくりと、仮想の腕を伸ばす。『ゲーム』の中に描かれる彼の腕はがっしりとした力強いものだ。現実には今にも折れてしまいそうなか弱い腕しか持っていないけれど、そんな自分でも迷子に手を差し伸べることくらいは出来る。
 そして、精一杯笑ってみせることくらいは、遼太郎にだってできるのだ。
「独りで閉じた夢は終わりにしよう。君も目を覚まして、新しい夢を見るんだ」
 次はとびきり素敵な夢がいい。夜に閉ざされた寂しい迷子の世界ではなくて。
「一緒に夢見るなら怖くないだろ。一緒に、青い空の夢を見よう」
 まだ現実の自分には遠い青空。だが手を引いてくれる友達がいたから、希望が持てるようになった。なら、自分は夢に囚われたカミサマの手を引こう。
 今すぐに、カミサマの問いに答えることができなくても、いつか答えを見せられるように。カミサマの希望になれるように。
 漆黒のカミサマは立ち尽くしたまま、戸惑いがちな少女の声で呟く。
「君は、夢から覚めて、幸せなの?」
 ――そんなもの。
「わからないよ。でも、絶対に幸せになってやる」
 そのために、新しい夢を見るのだ。
 カミサマを形作る影がゆらりと揺らめいた。その揺らめきは微かな笑みにも見え、カミサマがゆっくりと黒い腕を伸ばす。やがて爪の先端がほんの少しだけ、彼の指先に触れた。
 触れた、と思った。
 途端、世界が色を変える。
 ずっと西の空に浮かんでいた橙色の月が沈み、背中から光が差し込む。空は黒から薄青へと色を変え、橙色に染め上げられていた野原が新緑を湛えた草原へと姿を変えていく。
 そして、目の前にいた巨大な怪物はいつの間にか姿を消し……そこには薄青の衣を纏った少女が彼の手を握り返して立っていた。
 空色の瞳をした少女は、カミサマと同じ声で笑いかける。
「おはよう」
 
 ――その一言で、『ゲーム』が閉じる。
 
 永遠に明けないはずの夜が。
 覚めない夢が、終わる。