シトラスムーン・ドリミンガール

ドリミンガール:10

 青い、空。
 目の前の画面いっぱいに広がった世界を、雫は声もなく見つめていた。
 これが『ゲーム』の本当の結末……人の夢を叶える、寂しい亡霊が見た夢の終わりだ。
 そして。
『わたしの夢は終わり。叶った夢も、おしまい』
 画面の中で、青空の薄青に色を変えた少女がついと雫に視線を向ける。雫はドキリとして少女をまじまじと見てしまった。接続もしていないはずなのに、少女はディスプレイの向こうにいる雫の存在を確かに感知しているのだ。
『彼女も目を覚ますよ、イーグリット』
「……小夜」
 そうだ。
 この時を待ち望んでいた。
「ありがとう上条くん、私、行くよ」
 言うと、遼太郎は少しだけバイザーを上げて、穏やかに笑いかけてくれる。
 それだけで、十分だった。
 握っていた指先を離し、部屋を後にする。小夜の待つ部屋はすぐそこにある。扉に指をかけて、開こうとして……ふと、脳裏に掠めるのは小夜の言葉。
『朱鷺サン、余計なこと、しないで』
 思わず動きを止めて、閉ざされた扉を睨む。
 何を今更、迷うのだ。ここに来るまで散々悩んだ。自分のやっていることは単なる自己満足で、小夜にとっては迷惑だったのではないかと。あの言葉が小夜の本心だったなら、自分はもう小夜に関わらない方がいいのではないかと。
 ……だが、どう考えたところで答えは決まっていた。
 扉を開け放つ。
 ベッドの上で、小夜が横たわったまま目を丸くして雫を見ていた。そう、目を開けて、確かにこちらを見ていたのだ。
「……朱鷺、さん?」
 か細い声が、耳に入って。雫はたまらずベッドの横まで歩み寄って小夜の手を取っていた。小夜はあたりをきょろきょろ見渡して、不思議そうな顔を浮かべている。
「ここ、どこ? それに、朱鷺サンがどうして」
「病院だよ。アンタ、ずっと寝てたんだよ。ずっと、ずっと、目が覚めなくてさ。それで」
「そっか、夢、だったんだ」
 小夜は言葉を落として視線を遠くへと向ける。もうどこにも見えなくなってしまった夢を、虚空に探しているのかもしれなかった。
「夢、見てたの。叶った夢……私がね、消えちゃう夢」
 再び眠りこんでしまいそうな声で放たれた言葉に、雫は耐え切れなくなって強く手を握り締めて叫んでいた。
「この、バカっ! 何でそんなこと言うんだよ!」
 やっぱり怒るんだ、と小夜はおかしそうにくすくすと笑いながらも、雫を見上げて淡々と言葉を紡いでいく。
「ホントはね、誰にも迷惑かけないように消えちゃいたかった。私、どこにいても、皆の足引っ張ってばかりだもん。いない方がマシだって、ずっと思ってた」
 ずっと「理解できない」と考えないようにしていたけれど、小夜の言葉が本気だということだけは確かだった。だから余計に胸に熱いものがこみ上げてくる。
 これだけ思いつめていたことを、何故理解してやろうとしなかったのだろう。初めから理解できないと拒絶して、苛立ちに任せてはねつけて。それで、小夜は独りになったのではないか。
 小夜はうっすらと、だが寂しげな微笑を浮かべて天井を見上げる。
「それで、私がいない世界を夢見て……カミサマが叶えてくれたの」
 目を覚ませば、自分がいない一日が始まる。自分がいなくても朝は来て、皆が学校に行って、楽しく笑い合っている。そんな毎日を、自分はどこでもない場所から見下ろしている。そんな夢。
 初めはそれでよかった。自分が望んだ世界がそこにあって、満足だった。
「でも、朱鷺サンは違った。私がいない世界なのに、誰も私のことなんか覚えてないのに、朱鷺サンだけ私のことを探してたんだ。名前を呼ぶ声が、聞こえたの」
「私、が?」
 確かに、何度も何度も眠る小夜に語りかけていた。失ってなるものかと必死に呼びかけて、目覚める時を待っていた。その声が届いていたというのだろうか。
 小夜はふと笑みを消して、言葉を落とす。
「正直に言えば、鬱陶しく思ったんだ。余計なことしないでって、私はどこにもいないんだから、って。朱鷺サンは私がいなくたって平気なはずだもん……放っておいてほしかったよ」
「放っておけるわけないだろっ!」
 両手で、小夜の手を握りこむ。歯を食いしばり、小夜を見下ろす。
 間違っている。平気なんかじゃない。いつも無意味に背筋を伸ばして、弱みを見せないようにして立ってきたけれど、本当は。
 本当は……!
「何で、朱鷺サンが怒るの? それに……」
 ――泣いてるの?
 言われて、自分が泣いているのだということに初めて気づいた。胸を締め付けるような感覚はなおも増すばかりで、気づけばぽろぽろと涙が零れている。自分はこんなに涙もろかっただろうか、と思うほどに。
 許せないのだ。どうしても、許せなかったのだ。
 この場で伝えなくてはならない。小夜が目を覚ましたら絶対に言おうと思っていた言葉を。
 涙を無理やり袖で拭いて、雫は胸に詰まっていた言葉を吐き出す。
「アンタがバカなこと言うからだよ! 何が放っておいて欲しかった、だ。私にそんなもの期待したって無駄なんだよ!」
「えっ」
「アンタがいくら消えたいって願ったって、実際に消えたって探してやる。探して同じように怒る! だから、そんな寂しいこと二度と言うんじゃない、勝手に消えたりしたら今度こそ殴ってやる!」
 小夜は、目を丸くしてしばし雫を見上げ……そして、くしゃりと今にも泣き出しそうな顔で笑ってみせた。本当に消えちゃったら、朱鷺サンにだってわからないじゃないか。そう呟きながら、小さく息をつく。
「朱鷺サンって、そんな頑固だったんだ」
 全然、知らなかったよ。
 そう言った小夜の笑顔にはもう、寂しげな色は無かった。
「そうだ、私は頑固でしつこくて、とても厄介な人間なんだよ。私に関わったことを後悔しても遅いんだからな」
 泣きながらも、無理やりに笑ってみせる。とんでもなくみっともない笑い方になっているだろうが、これも含めて全てが自分なのだ。雫が小夜の考えが理解できなかったように、小夜だってきっと雫のことを理解してはいなかった。
 完全に理解なんてできるはずもなくて、雫はそれでもいいのだと結論付けた。
 小夜はここにいる。側にいて、繋がっている。それだけで雫にとっては十分だった。
 ゆっくりと瞬きをして、小夜は囁くように言葉を放つ。
「叶って、わかったよ。何も変わらずに消えることなんて出来ないって。今だってこうやって」
 小夜の指先に微かな力が篭り、雫の手を握り返す。
「朱鷺サンが、泣いてくれるんだもんね」
「小夜……」
「ホント、朱鷺サンはわがままなんだから。私も勝手に消えられないよ」
 おどけた口調で言ってから、小夜は目を伏せる。長い睫毛が涙の粒を載せているのが見えた。
「――ありがと、朱鷺サン」
 こちらこそだ。
 声にはならなかったが、雫は小さく口を動かす。呼び声に応えて戻ってきてくれた、みっともなくてわがままな自分を受け入れてくれた小夜に、言葉にならないありがとうを。
 今ならば小夜に伝わると、信じて。
 雫はにっと笑う。今度はきっと、上手く笑えたと思う。小夜が同じように笑い返してくれたから。背筋を伸ばして、改めてお互いに強く、手を握る。
 
「これからもよろしくな、小夜」
「うん。よろしくね、朱鷺サン」