文章[42件](5ページ目)
●番外編:アザラシさん
待盾署刑事課神秘対策係の主な仕事は、暇を持て余すことである。
だが、いくら暇といえど、決して消化すべき仕事はゼロではない。デスクで一向に減らない書類――それは、自分の書類だけでなく、抱え込んでいた南雲のものも任されているからだが――を片付けるのにも飽いた八束は、全く仕事をしようとしない南雲に文句の一つでも言ってやろうと、彼の特等席である来客用のソファをのぞき込む。
「何ごろごろしてるんです、南雲さん……、な、南雲さん!?」
「どうしたの、八束」
「南雲さんが、アザラシのぬいぐるみになってるー!」
「そうだね」
そう、普段南雲が寝ているはずのソファには、巨大な白いアザラシが鎮座ましましていたのである。ついでに、そのアザラシは南雲のスーツの上着を羽織っている。八束は、慌ててアザラシを抱え上げると、くたーんと頭を垂らすアザラシに向かって、「ああ」と嘆きの声を上げる。
「怠惰を極めるあまり、本当にアザラシになってしまうなんて……」
「それで、今背後に立ってる俺のことは何だと思ってんの?」
八束は、はっとして後ろを振り向く。そこに立っているのは、いつも通りに猫背で不機嫌そうな面構えの南雲だった。
「あれ、南雲さん、上着……」
「暑かったから脱いだの。っていうか、本気で俺がアザラシになったとでも思ったの?」
「南雲さんなら、それでもおかしくないかなと思いました」
八束は、どこまでも真面目だった。
南雲は仏頂面ながらも呆れのため息をつき、八束の手からアザラシの巨大ぬいぐるみを上着と一緒に引き抜く。八束は名残惜しそうにアザラシを目で追いながら、一番の疑問を投げかける。
「……その巨大アザラシぬいぐるみ、どうしたんですか?」
「作った」
「本当に何でも作りますね、南雲さん!?」
南雲の手先が器用なのは知っていたが、ほとんど八束の身長と同じサイズのぬいぐるみを実際に作ってしまうとは思いもしなかった。八束は作っているところを目撃していないから、多分、早朝か八束が帰った後にこつこつ作っていたに違いない。
南雲は八束の反応に満足したのか、神妙な顔でこくりと頷くと、上着を纏ったアザラシを抱いたまま、ソファにごろりと横になる。
「抱き枕がほしかったんだよ」
そして、そのままアザラシの頭に顔を埋め、寝の姿勢に入る。ぼんやりとその様子を見つめていた八束は、次の瞬間我に返り、南雲の肩を強く引く。
「明らかにソファで寝る気満々じゃないですか! 仕事してください!」
「八束はできる子なんだから、俺の分もちゃちゃっとできるでしょー」
「南雲さんだってやればできる人なんですから、二人でやればもっと短時間で済みます!」
「正論は聞きたくなーい」
ごろんとソファの背側に倒れようとする南雲を、何とか引き戻そうと努力する八束。しかし、力はともかく体格では圧倒的に勝る南雲である。ソファとぬいぐるみにしがみつき、離れようとしない。
「もうっ、そもそも勤務時間中に寝るってこと自体おかしいんですよっ! ちょっと、綿貫さんも、にやにやしてないで、手伝ってください!」
八束の訴えに、しかし奥のデスクに座る係長・綿貫は、紅茶のカップを傾け、目を細めてこうつぶやくだけだった。
「……今日も、平和ですねえ」
畳む
#時計うさぎの不在証明
●番外編:お茶の時間
がらんがらん、という派手な音とともに、八束結の「ぎゃあああ」という声がかぶさって聞こえた。
思わずそちらを見やった南雲彰は、しまった、と思う。きっと、そんな焦りも表情には出なかったとは思うのだが。
とりあえず、棚を開けたままのポーズで固まり、目を白黒させている八束の横に立ち、素直に謝ることにした。
「ごめん、八束。後で整理しようと思って忘れてた」
「び、びっくりしました……」
八束の足元に転がっているのは、いくつもの、紅茶の茶葉を詰めた缶だ。南雲が、菓子と一緒に買ってきたものを、大量に棚に突っ込んでいたために発生した悲劇であった。
「片付けますね」
「いいよ、俺がやるから」
そうは言ったものの、八束の方が動きは圧倒的に早い。缶の一つを拾い上げた八束は、そのラベルを眺めて、首を傾げる。
「この缶、お茶ですか?」
「そうだよ」
「キャラメルって書いてありますけど。お菓子ではないのですね」
「……八束、フレーバードティーって知らない?」
「それは何ですか?」
質問に対して、八束は当然の如く質問で返してきた。
時々、というかよく、こういうことがあるのだ。
八束の常識と、南雲の常識はかなり食い違っている。生きてきた年月と、場所と、状況が違うのだから、ある意味当然といえば当然ではある。だが、「歩く百科事典」とも称されるほどの知識を溜め込んでいながら、八束は意外なほどにものを知らないところがある。
とはいえ、軽く引っかかるものがあるとはいえ、それを南雲がどう思うわけでもない。知らないのならば、教えればいい。一度教えれば、その知識は八束の脳内百科の一ページとなり、決して忘れ去られることはないのだから。
「言葉通り、香りをつけてあるお茶。飲んでみる?」
「興味はあります」
わかった、と言って、キャラメルティーの缶だけよけて、まずは落ちた缶を片付ける。それから、愛用のティーセットを用意する。このティーセットも、粗大ゴミ置き場から拾ってきたソファや冷蔵庫同様、南雲が「快適な秘策生活」を送るために揃えたものだ。
仕事をするのは億劫だが、対策室にいる時間が一日の大半を占める以上、快適に過ごすための工夫を絶やさないのは大切なことだと思う。係長・綿貫の視線に込められた、切実な「仕事しろ」という念は知らんぷりを決め込むことにしている。
ともあれ、慣れきった手順で茶を淹れると、ひとまずは砂糖も牛乳も入れずに八束にカップを差し出す。八束は、恐る恐るカップに顔を近づけて、そして驚きに目を見開く。
「あっ、お茶なのに本当にキャラメルの香りがするんですね! すごい!」
そのストレートな反応に、南雲は自然と目を細めてしまう。多分、笑いたくなったのだろう、と自分自身で分析する。八束には、この感情も正しくは伝わらなかったと思うけれど。
目を真ん丸にしたまま、八束はしばしキャラメルの香りを楽しんでいたようだが、思い切って、カップに口をつけて……、それから、眉をへの字にした。
「甘く、ありません……」
「あー、まあ、香りをつけただけで、あくまで紅茶だからねえ」
「うう、苦いです、苦いいい」
八束は、意外と苦いものを苦手としている。茶や珈琲は無糖の方が好きな南雲とは対照的である。予想通りの反応に、どこか安堵すら抱きつつ、南雲は八束の手からカップを取り上げる。
「キャラメルティーは、ミルクを入れて飲むのがスタンダードなんだよ。ミルクと砂糖、入れようか」
涙目で南雲を見上げた八束は、口をへにょりと曲げて。
「どうか、お願いします……」
情けない声で、そう、訴えたのだった。
畳む
#時計うさぎの不在証明