home book_2
chat
シアワセモノマニア
シアワセモノマニア

シアワセモノマニア

ハッピーをお届けする空想娯楽物語屋

No.1978, No.1977, No.1976, No.1975, No.1974, No.1973, No.19727件]

Xと彼の見えない左目の話で思い出したんだけど……。
『無名夜行03』に収録した「あるいは瞼を閉ざした話」において、Xは左目を奪われたことに激高して、初めてプロジェクトの役目を放棄して無謀な潜航に挑んでるわけだけども。
あれ、仮に左目を奪われて、なおかつ、左目を無理に取り返そうとするとプロジェクトメンバーに明確な危害が加わる、って状況であったなら、おそらくXは渋々矛を収めてただろうな……とはずっと思っている。
Xはその程度には無意味な犠牲をよしとしない正義感があり、その程度にはプロジェクトメンバーたちに愛着がある。
あの左目がどれだけ自分にとって譲れないものかあろうとも、そこで一線を越えるようなやつではない、というのが、Xというひとの不思議なところであり、そして自分が描きたいところでもある。そんな感じ。

#無名夜行

創作

庭師が終わったりめちゃバースが終わったり、何かめっちゃ噛み締めている……いい夏休みだったな……!

庭師の鏑木は意識的に「愛」をやるキャラとしてやってたんだけど、何か実態としては小学生男子だったな……。
アサツキさんにも小学生男子だねぇって言われてたから間違いないね。小学生男子だよ。
(これは一応前段となる文脈があるんだけどそれはまた別の話)
ただ、こう、他者を思いやる、気遣う、その上で自分の大事なひとたちの幸福を願って我を通す。
そういうやつをやりたかったんだよね。できたでしょうか。わかんないけど楽しかったな。
なお庭師自陣に向けて当て書きをするのであざらしの庭師はもうちょい続くのじゃ。

めちゃバースは、リン/不知火諒(令和のすがた)をやった。そんなんばっかりか。
いや別にモッキンバード/不知火諒をやるつもりはなく、ただ「こども」の足がかりとして一番考えやすかったので……。
昨年のこの当時、モキバを扱ってて(かいマホは終わってたけど色々遊んでて)、モキバってめちゃくちゃな奴なのに「ダメ大人」ではありえないキャラ造形なんだよな~ということを思っていて。
表向き、社会が要請する大人をきっちりできてしまう。裏の顔『モッキンバード』の悪事ですら、その「社会」を見すえたうえで行っているのだから、こどもの視点ではありえない。
ただ、その上でモキバはいくらペテンの魔女(=ハッカーの「ウィザード」であり本来的な魔女ではない)であっても「魔女」を名乗る存在であり、きっと、こどもの世界、おばけの世界、「そういうもの」があることには肯定的だろうな、みたいなことを思っていて。
で、「ダメ大人じゃない魔女」ってどういうものだろう、っていうのから逆算して「おばけと過ごしたことのあるこども」なんじゃないかな、と思って……。
その辺りをよるこさんが何も言わなくても汲んでくれて歩幅を合わせてくれたのマジで強かったな……ありがとう……。
もちろんめちゃバースは時代背景的にも「今」の物語なので、「今」35歳であるはずのモッキンバードとリンは明らかに別の人間なんですが(不知火諒、あざらしの「思考実験」のキャラみたいなところある)、でもリンがああいう結末をたどったのを思うと、無限にうう~~~~となってしまう。
ともだちを作ろう、ひとも、おばけも、ほんものも、にせものも。全部大事なおともだちだよ。

遊び

久しぶりにブレイド・オブ・アルカナのるるぶ読んだけどやっぱり好きなんだよな~ブレカナ!
あの、ややプリミティブさのある信仰の感じというか、神話とそうでないものが混在してる、まさしく薄暗がりの世界の感じというか……。
ヒロイックな話をやるためのシステムなので、あざらしもめちゃくちゃ元気なときにしかできないんだけど、でも本当に好きなシステム!

あと4メートルのシャケができる。
(お前いつもその話しかしてないな?)

遊び

ちょうど罪と罰についてちらっと目にしたので、あざらしの物語上におけるそのあたりのバランスの話。
あるいは、物語中で許されないことをした相手を排除する、ということについて。

あざらしはなんか常に死は救い……、とまでは言わないが、しかし死んだ当人にとっては「無」以上でも以下でもないと思ってるため、まったく罰として機能してないんだよな~ということについてぽやぽや考えている。
だから基本的に死をもって決着させる、ということはあんまりしない方かな~。
無名夜行のXの死が定まってるのも、あれはXの罪に対する罰というよりは社会的にそうあれかしとされてるからそう、でしかなく、Xの罪に対して与えられるべき本質的な対処(それは必ずしも明確な「罰」ではないのだと思う)は、むしろ死刑とは別の部分なのだと考えている。
……みたいなところ、あるのかもなあ~。
だから、結果的に待ってるのは死なのかもしれないんだけど、あざらしの中で重要なのって、罪を犯した何者かになんらかの働きかけをすること、あるいらその何者か自身が働きかけを行うこと、なのかな……。ぽやぽや。

ミストノーツはまあまあ決着=いずれかの死なんだけど、これは罪とか罰とかではなくてそういう命のやりとりの場なのでそうなる、みたいなところだな、そういえば……。
だからまあ、結局はその場の共通認識がどうであるか、に依存するのだと思うし、そこには罪のあるなしとは全く関係ない儀式的な何らかが働いてるな、あざらしの場合。
同じ世界でも、例えばはらわたの後日談(まだ書いてないやつ)は、その決着後にレイニータワーがあるように、やはり場を形成してるひとの持ってる認識によるのだよなあ……。

創作

最近、ご飯はちゃんと食べてるけど、通勤だけで力尽きてしまって運動できてないのでよくない……。
夏休みは、せめてラジオ体操はちゃんとやりながら過ごしてゆきたいところ。

いま

ともあれ、あざらしは前々から言ってるとおり結構「舞台」というかステージの上だけで成立する話が好きなのはあり、作風的にも結構そういうとこはある。
『無名夜行』も演出の仕方はあるだろうけど、あれ、「私」たちプロジェクトメンバーは研究室から一歩も動いてない(たまに研究室の外の話あるけど)みたいなところが好きでやっている。
その一方で、その場から一歩も動かなくても果てのない『異界』を垣間見ることはできる・垣間見てしまえる、みたいなのをやりたくて無名夜行という形にしてるのかもなあ、みたいなこと!
閉ざされた空間に見えても、実際にはその広がりは無限大である、みたいなの、めちゃくちゃ好きなんだよなあ。
それこそ、視点一つ、立ち位置一つで、同じ空間でも別のものが見えてくるような。
そういうお話が書けたら嬉しいなあ~といつも思っている。

あざらしは母が比較的本を読む(特にややエンタメ寄りの小説を好む)、また演劇を好む(昔は自分も舞台に立ったりしてたはず)ひとなんだけど、その母が「四畳半だけの空間から一歩も動かなくても物語はおもしろく展開できる」みたいなことを言ってたのがめちゃくちゃ心に残っており、たぶんそれを今もなお胸に刻んでるところあるのかもしれないなあ……。

創作