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シアワセモノマニア
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ハッピーをお届けする空想娯楽物語屋

No.1974

ちょうど罪と罰についてちらっと目にしたので、あざらしの物語上におけるそのあたりのバランスの話。
あるいは、物語中で許されないことをした相手を排除する、ということについて。

あざらしはなんか常に死は救い……、とまでは言わないが、しかし死んだ当人にとっては「無」以上でも以下でもないと思ってるため、まったく罰として機能してないんだよな~ということについてぽやぽや考えている。
だから基本的に死をもって決着させる、ということはあんまりしない方かな~。
無名夜行のXの死が定まってるのも、あれはXの罪に対する罰というよりは社会的にそうあれかしとされてるからそう、でしかなく、Xの罪に対して与えられるべき本質的な対処(それは必ずしも明確な「罰」ではないのだと思う)は、むしろ死刑とは別の部分なのだと考えている。
……みたいなところ、あるのかもなあ~。
だから、結果的に待ってるのは死なのかもしれないんだけど、あざらしの中で重要なのって、罪を犯した何者かになんらかの働きかけをすること、あるいらその何者か自身が働きかけを行うこと、なのかな……。ぽやぽや。

ミストノーツはまあまあ決着=いずれかの死なんだけど、これは罪とか罰とかではなくてそういう命のやりとりの場なのでそうなる、みたいなところだな、そういえば……。
だからまあ、結局はその場の共通認識がどうであるか、に依存するのだと思うし、そこには罪のあるなしとは全く関係ない儀式的な何らかが働いてるな、あざらしの場合。
同じ世界でも、例えばはらわたの後日談(まだ書いてないやつ)は、その決着後にレイニータワーがあるように、やはり場を形成してるひとの持ってる認識によるのだよなあ……。

創作